姫崎唯愛という女

 立派な執事になりたい。

 俺が小学生の頃、作文の授業で書いた『将来の夢』だ。


 周りがスポーツ選手や動画配信者、プロゲーマーなどといった華やかな理想を掲げる中で、その職業はさぞ浮いていたことだろう。

 だが、姫崎家の家宰を務める家に生まれた俺には『誰かに仕える』というのは、極々身近な感覚だった。


 雇い主のアテもあった。

 祖父の代から仕えている姫崎家の、末のお嬢様。

 幼い日に彼女が言った「大きくなったらわたしの執事にしてあげる」という口約束を、俺は無邪気に信じていた。


 あの出来事で、反故になるまで。


―――


「ん、美味しい。腕を上げたね、竜司。最後に食べた料理は、焦げだらけのスクランブルエッグだったのに」

「何年前の話してんだよ。……いただきます」


 もいもいと上機嫌にオムライスを頬張る唯愛の向かいに座った俺は、自分の皿に手を合わせる。


 あの後、俺は結局金に釣られ、荷解きを手伝うことになった。

 新生活の準備が整ったのは、窓の外がとっぷりと暮れた頃。

 腹は鳴れども、引っ越し直後の冷蔵庫に食材が入っているはずもなく。

 近くのスーパーに走って、適当な食材を買い込み、今に至る。


「あ、パパからメッセージが入ってる。……ちょっと失礼して」


 律儀に口元をぬぐってから、唯愛がスマホをたぷたぷし始める。


「けど、あれだな。子煩悩の旦那様が、よく娘の一人暮らしを許したな」

「もちろん、大反対されたよ。けど、竜司を世話役につけるのを条件に、なんとか認めてもらったんだ」

「…………ん?」


 ちょっとよく聞こえなかったな。

 こいつ、今何つった?


 問いただそうとしたところで、スマホから着信音が流れ始める。

 ドヴォルザークの『新世界より』

 唯愛の昔からのお気に入りだ。


「ハーイ、パパ。そっちはもう明けた? ……そう、こっちはもう真っ暗。……うん……うん、分かった、替わるね。……はい、竜司」

「あ?」

「パパが挨拶したいって」


 思わず顔が引き攣った。

 が、唯愛はお構いなしにスマホを押し付けてきやがる。


「……ご無沙汰しております、旦那様」

『やぁ、竜司君! こうして直接話すのも久しぶりだねぇ、元気してたかい?』


 姫崎の旦那様……唯愛の父親の陽気な声が、耳に届く。

 元々明るい人だったけど、自由の国の空気を吸ってか、より一層活発になっている様子がスピーカー越しに伝わってくる。


「あの、状況がまったく飲み込めてないんスけど」


 挨拶を省き、いの一番に文句を垂れる。

 相手はアメリカ在住の邦人の中でも、最も多忙な内の一人だ。

 年収で考えたら、何分か相手をしてもらうだけでも、数万円の価値がある。

 余計な時間を取らせまいと無意識に考えたのは、かつての教育の賜物だろうか。


『いやぁ、僕も驚いたよ。唯愛からは『手はずはすべて済ませてるから』と聞かされてたんだけど、まさか君に一報も入れてなかったとはね。やれやれ、困った娘だ』

「いや、本当勘弁してもら……」

『あの有り余る行動力、我が子ながら将来が楽しみでしょうがない!』


 親バカがよぉ。


 電話の相手は、世間では『ホテル王』と呼ばれている。

 相当なやり手で通っており、国内で多くの事業を成功させてグループを躍進させたことから、一部では姫崎家中興の祖とも呼ばれているらしい。まだ現役なのに。


 数年前からは、アメリカ進出のため生活拠点をカリフォルニアに移しており、日本には年に数回しかお戻りにならない。

 俺も、こうして話すのは随分と久し振りだ。


『日本の高校に通いたいと強くお願いされたから、つい押し切られちゃったんだけど、十代の娘を一人暮らしさせるのは、親としては何かと不安だろう? だから、昔からよく知る君を世話役として同居させることを条件にしたんだ』


 はぁ!?


「いやいやいやいや、年頃の男女を、一つ屋根の下に住まわせるのに抵抗はないんスか?」

『何を言ってるんだ。君と唯愛は、姉弟のようなものじゃないか』


 それに、と旦那様は続ける。


『万が一間違いが起きた場合、自分がどうなるか、分からないわけじゃないだろう?』


 あっはっはと笑いながらも、声のトーンは一段下がっている。怖えーよ。

 多分、電話の向こうの目は笑っていない。


『無論、タダでとは言わないよ。君の生活も一緒に面倒を見るし、それとは別に月給も出す。悪い条件じゃないだろう?』

「む、むむぅ……」

『拒否しないと言うことは、決まりでいいね。……すまないけど、食事を済ませたいから切るよ。アメリカンステーキは歯応えがあるから、時間をかけて噛まないとね。それじゃあ!』

「あっ、ちょっ、旦那様……!」


 ビジートーンがツーツーと空しく鳴る。

 相変わらず、嵐の様な御仁だ。


 てか、こっちが夜の9時ってことは、アメリカ西海岸は朝の5時じゃねーか。

 そんな朝っぱらからステーキ食ってんのか、あの人。

 それが衰えないバイタリティの秘訣なのか。


「パパ、相変わらず元気でしょ」

「あぁ、還暦間近とは思えねぇ」


 唯愛にスマホを返す。

 ……何か、俺のオムライス小さくなってねぇか。


「お前の食い意地も、全然変わってねぇな」

「竜司の料理が美味しいのが悪い」


 どういう責任転嫁……?


「まぁ、かれこれ3年以上一人暮らししてるからな。嫌でも家事は身に付くさ」


 両親は、6歳の頃に交通事故で亡くなった。

 それ以降、俺の養育は15歳上の兄である誠一郎に引き継がれたのだが、正直言って兄弟仲は最悪だ。


 今では、事実上の絶縁状態。


 俺の中学進学を機に、両親の遺産を分配して、袂を分かっている。

 誠一郎は、アメリカ進出の野望に燃える旦那様に従って海を渡り、それ以降は顔も合わせていない。せいぜい、たまに電話で生存報告をする程度だ。


 そんなわけだから、中学時代の俺は両親の遺産を切り崩しながら、細々と生活していた。

 高校に上がってからはアルバイトが解禁されて多少は楽になったものの、大学を出るところまで考えると、やはりまだ心もとない。


 だから、生活費の心配がなくなる今回の話は、正直言ってありがたかった。

 というか、俺が通ってる高校の学費は、姫崎の旦那様が知り合いの理事長に口添えしてくれたから、タダ同然で済んでいるわけで。

 その恩を返す意味でも、引き受けない選択肢はなかった。


「ところで」


 食卓に立てかけられた、歩行補助用のステッキに目をやりながら切り出す。

 それは数年前の、とある事件をきっかけに使うようになったものだ。


「今でも、脚悪いのか?」


 俺にとって気の重い話題だが、世話を引き受けた以上、状態を聞いておかなければならない。


「日常生活にはほとんど支障ないレベルだよ。全力で走ったり、長時間歩いたりすると、少し自由が効かなくなるだけ」

「そっか」

「うん」


 …………。


 微妙な沈黙が、二人の間に流れた。

 話題を変えよう、飯が不味くなる。


「そういや、お前どこの高校通うんだ?」

「あれ、言ってなかったっけ」


 逆に一つでも事前申告した情報があるのかよ。

 湧き出るツッコミを飲み込んだところで、唯愛は「ふふん」と胸を張り、答えた。


「これからよろしくね、同級生くん」

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