07


 部屋の外に出ると、そのたびに身に染みるような寒さに白い息を吐いてしまう。寒空の下で一粒ずつ降り始めている雪の影を視界に入れながら、そろそろ夕焼けを閉じてしまいそうな世界の彩に、私はどこか寂しさを覚えた。


 そんな寒い景色の中にいるせいで、今頃になって部屋の暖房を消し忘れていたことに気づいてしまう。いちいち部屋に戻るというのも面倒だから、結局は放っておくしか選択肢は用意しないのだけれど、それでも片隅にはりつくように存在する意識の欠片に、どうしていつも私はこうなんだろう、と自己肯定感を低くする。


 ドアにはまだ鍵はかかっていない。まだ部屋に戻ることもできる。けれど、無意識に用意した鍵によって、私はそれを施錠する準備を果たしている。どうせすぐに家に帰ってくるのだから、暖房くらいつけていても問題はない。そんな論理を心に浮かべて納得をしたところで、私はドアの方へと振り返る。振り返った拍子に「あっ」と私のものではない声が隣の方から聞こえてきた。


 ん? と喉を鳴らしながら鍵をかけて、声の方へと視線を向けてみる。肺に絡まる雑音の気配に咳払いをして、一瞬苦しくなる呼吸の感覚の中で、声の主を視界に入れた。


「……竹下、くん」


 白い景色に閉ざされようとしている景色の中で、暖かい格好に身をっ積んでいる男性の姿。紺色をしたマフラーに身を包んでいて、こんなに冷たい世界の中でも元気であることを示すように、どこか元気な笑顔を浮かべている。


 私はそんな彼の雰囲気が苦手だった。


 未だに言い慣れることはない彼の名前を改めて吐き出したところで、私は白くなり続けている景色をさらに濃くするように、白い息を重ねていく。マスクから漏れる蒸気のようなひとかけらは私の視界の一部になって霧散する。そんな姿を見て、彼は苦笑するように声をかけてきた。


「買い物?」と問いかけてくる彼に対して「そんなとこ」とだけ返す。あまり会話をする事柄も思いつかないから、私は早々に出かけることを示唆する目的で足先をアパートの外に向けた。


「何を買いに行くのさ」


「充電器」


「今からケーズ? 遠くない?」


「別に百均で済ませるから大丈夫だよ」


「へー」


 くだらない会話だな、と思った。私はさっさと用事を済ませたいのに対して、竹下は足を止めるように言葉をかけてくる。だから、相応に私も彼と会話をしなければいけないのだろうか、という気分にされる。


「竹下くんは今帰ったの?」


「うん、レポートの提出は終わったから、ちょうど帰り」


「……そっか」


 特に思いつかない会話の節々、自分のコミュニケーション能力の下手さが浮き出ているような気がした。


「もしあれなら送ってくけど」と竹下は言った。彼はそう言いながら、アパートの先に留めてある水色の車に指をさした。黄色いナンバーが一部雪によって隠されている。


「いや、別にいいよ。すぐ終わるし、申し訳ないから」


「いや、逆にこっちが困るから」


 彼はそう言いながら苦笑をした。


 いや、何が困るんだよ、という心に生まれた言葉は特に現実に紡がれることはなかった。





 彼と関われば、だいたいいつも彼が率先して何かしらの救済策を打ち出してくる。それを救済策として打ち出していると表現していいのかはわからないけれど、ともかく、困っている人には手を差し伸べてくる。それが竹下という人間だった。


 大学に向かうバスに乗っているときに彼を見かければ、老人に席を譲ることがあったり、コンビニで荷物を倒してしまった店員を見かけたら、すぐに足を運んで助けに行ったり、なんならボランティア活動に対しても率先して参加している。そんなことを彼はいつも行っているようだった。


 私にはまずできそうもないことばかりだ。ボランティアに参加するすることもないし、もし困っている人がいれば見て見ぬふりをして遠ざけるし、そして優先されるべき席であっても、譲ることはない。そもそも席に座れば、何かしらで人と関わるイベントごとが起きるだろうということで、座ったこともないのだが。


 彼に案内されるまま、私は彼の車に乗り込んだ。まだ温もりを残している車内の空気に、私は落ち着いたように息を吐いた。寒いよりかは暖かい方がましだな、とか考えながら、何度か咳を重ねていく。


「本当にいいの?」と私は聞いた。


 こんな密室のような状況の中で、風邪である私と一緒に出掛けてしまえば自ずと症状がうつってしまうかもしれない。


「いいよいいよ。どうせ暇だったし」


 彼は特に気にしていないようだったけれど、どちらかといえば私が気にしてしまう案件だよな、とは思ってしまう。


 かちゃっ、とシートベルトを締める音を鳴らした。その音を確認した竹下は、そのまま車のエンジンをつける。電子音が二回ほどなった後、車から乾いた暖気が噴き出すのを感じて、私は、ふう、と息を吐いた。


「百均でいいんだっけ?」


「……うん」


 大した距離もないのに、それでも車を運転してもらうことに対しての罪悪感。けれど、はっきりと断っても彼はどうしたってついてくるだろうという確信があったから、その意味がないことは既に知っている。


 彼はそういう人間なのだ。だから、きっとこうなることは確定していたとしか言いようがないかもしれない。


 はあ、と息を吐き出した。何とも言えない鬱憤を抱えながら、私は車窓から流れる景色を呆然と見つめた。

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