04


 彼と出会ったのがいつだったのかを思い出すことはできない。大学に入学する際に、どこかで見かけたような気もするし、もしくは講義に一緒に参加したような記憶もある。ただ、そのどれもが直接的なかかわりを持つことはなく、ただ話さずに見ていただけに過ぎない。


 彼の姿はよく目立っていた。別に変な服装をしているだとか、顔の部位に印象を強くするような要素がある、とか、そんなことではなくて、ただ雰囲気として彼は目立っていた。よく人とかかわる姿を私は見ていたからかもしれない。


「こんなに寒いのに外にいたら風邪ひくと思うけど?」


 彼は少し嫌みっぽそうな、それでいて冗談であることを示すように微笑みながらそうつぶやいた。


「風邪ならずっとひいてるよ」


「それなら尚更だろうに」


 彼は困ったような笑顔を浮かべた。その笑顔に、いつも私は嫌悪感を覚えずにはいられなかった。


 いつから彼とのかかわりが生まれたんだろう。そもそも、どこから私たちは始まったのだろう。それを思い出すことはできないけれど、きっとその時も彼から私に対しての声掛けがあったのかもしれない。彼は私の名前を憶えていたし、私も彼の名前を憶えていた。ただそれだけで人というものはやり取りができるのだから、特に理由なんて考えなくてよかったはずだった。


「もう話は終わったよ」と彼は言った。私はそれに、そう、と二文字だけ返して終わらせた。話すべきこともなかったし、これ以上寒い空間に身を漂わせていれば、さらに喉に絡まる咳の感触からは逃れられないような気がした。


「それとも手伝おっか?」


 彼は冗談のようにそんな言葉を吐いたけれど、いつもの彼の振る舞いを見ていれば、その言葉が嘘じゃないことはなんとなく理解することができる。


「まさか」と返して、息を吐く。彼に手伝わせるなんて冗談じゃない。私には私の役割があるし、それを彼に手伝わせるのは役割を放棄するようなものだ。そして、今度からその役割を失うことにもつながってしまうだろう。彼に手伝ってもらうことよりも、そんな気持ちが私の思考の中を覆いつくした。


「そっか」と彼は乾いた笑みを浮かべながら、そうして白くなっている景色の中に足を踏み入れる。彼の布っぽい生地で包まれている靴の色が、ほどけた雪によって少しずつ色味を深くしているのが視界に入る。


 それじゃ、と彼はこちらに振り向かないまま前に進んでいった。私が人の視線を追うことができないことを知っていたのかもしれない。そんな無駄な配慮に少しばかりの苛立ちを覚えながら、私はようやく自習室に戻ることにした。





 自習室に戻ってからも、私は同じような作業を繰り返した。その拍子に彼女の顔を覗けば、退屈そうな顔でただただ携帯をいじっているので、あからさまなため息を示しそうになってしまう。そんな顔をするのであれば、私に任せることもせず、自分自身で課題を終わらせるなり、話をしていて楽しそうな竹下に任せるなりすればいいのに。


 そんなことを思ってはいるけれど、その言葉の一欠片でさえ口にしようとは思わない。思ってはいるけれど、それを口に出してしまえば大学生活が破綻するから、思うだけにとどめる。私がどれだけ不満を募らせていようと、私が不満を抱えるだけで、それを外に見せないだけで健常な学生生活が送れるのだから、きっとそれでいいはずだった。


 竹下がいなくなったことで、作業の勢いは加速した。彼がいたときには数十分以上に感じられそうなレポートの内容ではあったけれど、ここに来て数分で終わらせることができるとは、正直自分でも思ってはいなかった。


「できたよ」


 私が彼女から指示されている規定の文字数を超えているのか、確認してから声を上げると、彼女は、おっ、とうれしそうな声を出した。その振る舞いだけは嘘じゃないんだろうな、と思ってしまう。


 それから彼女は、自前のUSBを鞄から出して、私が借りているノートパソコンにつなげていく。パソコンの操作についてはおぼつかない、と彼女は言っていたはずなのに、こういう時に限っては手際が良く、慣れたように完成させたレポートのファイルを、自前のそれに入れているのが視界に入る。


「本当にありがとうね! また今度お礼するから!!」


 あまり大きな声で言わない方がいいだろうに、彼女は精一杯の感謝を声量で伝えるようにしている。そうは言いながらも、パソコンを逐一捜査して、私が書いたレポートのファイルを消去しているのが見えてしまう。


 別に、盗みなんてしないのだから、そこまでしなくてもいいのに。


 そんなことを思いはしつつも、やはり口には出せない。表情にも出さないまま、私は彼女の言葉に頷くだけ頷いてみる。


「今度、昼ごはんでも奢ってね」


「もちろんもちろん!」


 報酬形態をあらかじめ言葉で示すことによって、ここに契約を満了したことを私たちの間で締結をする。


 本当に、このままでいいのだろうか。


 大学三年生になってまで、そんな気持ちが私の心を蝕んでくるけれど、今更でしかない問いに私は自分自身で無視を決め込む。


 文句があるなら口に出せばいい。そうするだけで現状は解消される。不満は消失する。


 けれど、私に文句は言えない。そんな勇気も持ち合わせていない。仮初のものであっても、関係性が壊れることに恐怖を感じるのだから、それを言葉にすることなんてできそうもない。


 なら、不満を覚えることをやめてしまえ。


 私は自分自身の不満に、心の中でそうつぶやいたけれど、結局もやもやとした感情が心の中から消えることはなさそうだった。


 私は、弱いだけの人間なのだ。


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