03


 作業に集中している時間の中、ひたすら彼女は携帯の画面を見つめている。やはりノートパソコンを開くなどの行為をすることはなく、携帯の画面をタップして、どこかの誰かに連絡をしているようだった。正直、彼女が作業をしない、ということはわかりきってはいるので、それならば監視をするように私のそばにいないでほしい、という気持ちの方が強くなってしまう。


 キーボードの打鍵する音をそこそこに響かせる。おそらく彼女の耳には届いていないのだろうけれど、それでも作業をしていることを誇示するように。彼女はやはりそれでも興味や関心をこちらに示すことはなく、真顔で携帯の画面を見つめ続けていた。


「なーにやってんの」


 そんな時に間延びした声が後ろの方から聞こえてきた。男の声ではあるものの、飄々としていて高く感じるような声音。爽やかな雰囲気、というものがあるとするのならば、彼の声を例に出せばちょうどよいのではないか、と私は思った。


 その声に彼女は携帯から視線を上げて、私の後方へと移す。きっとその男性の声は私に向けてのものではないと思ったから、特に気にしないようにしながら淡々と文章を打ち込む作業を繰り返した。


「お、タケじゃん、ういっすー」


「ういうい。それで何やってんのよ」


 苦笑を混じらせながら、彼女に向けて話す声が聞こえてくる。どうか、私がいないところで勝手に話をしてくれないだろうか。彼女がするべき作業を私がやっているという、後ろめたい気持ちが私にもあるからこそ、さっさと一人になりたい気持ちがある。


「いやー、サユがレポート手伝ってくれるって言うからさ」


「その割にはお前何もしてなさそうだな」


 冗談で笑うような雰囲気の中に、少しだけトゲを含ませている言葉だと思った。表情は見えないし見るつもりもない。けれど、それでも伝わる人には伝わる針を彼は刺していると思った。


「サユから手伝いたいって言われたんだよー。まじでサユ優しすぎるし謙虚だよね」


 手伝いたい、と一言も発した記憶はないが? と心の中で呟くも、心の中の声が誰かに届くことはない。実際、それでもこうして手伝っていることを加味すると、結局私が手伝いたい、という気持ちがある、と解釈されても問題はないのかもしれない。


 心の中で言葉を飲み込むだけ飲み込んで、そのうえで画面を見つめていると、それでも男の方から言葉は続いて返ってくる。


「優しさに甘えていちゃいけないよ」


 彼女に対して芯を食うように話す彼の言葉は、どこか私の心にも突き刺さるような気がした。





 それから彼らは他愛のない雑談に入っているようだった。その話題は私の知らない人についてを話しているようで、大学の講義の話であったり、その人の噂話であったり、個人の情報が勝手に頭の中に蓄積されていく感覚があった。


 どうでもいい、どうでもいい、どうでもいい。どうでもいい情報が積み重なることに嫌気がさす。考えたくもない、意識もしたくない情報に視線が泳いでしまって、どうしても作業が上手く捗らない。あともう少しで作業を終わらせることはできそうだけれど、この調子じゃずっと長引いてしまいそうだった。


「ごめん、ちょっとお手洗い」


 私は一度息抜きをする感覚でそう呟いてから立ち上がった。ほぼ独り言でしかない言葉を、彼女と彼はきちんととらえているようだった。彼がその拍子にこちらにも意識を向けていることに、なんとなく私は気が付いた。


 はあ、と誰にも聞こえないほど薄めたため息を吐き出して、その場を後にする。暖まっている空間を抜けることに、どこか寂しさを覚えずにはいられなかった。





 協調性があればよかった。それをずっと昔から抱えることができればそれでよかった。そうでなければ、人とのかかわりの中で苦しさというものを見出すこともなかっただろう。


 特に用事もないまま動かした足は、言葉の通りの場所ではなく、ただ暖房の空気から逃れるために外に出ている。ドアをくぐるたびに寒さが強くなってくる。頬を撫でる寒風が身体を支配して震えを呼んでくる。


 最後の自動ドアを開いて、外の世界を視界に入れる。白く冷たいだけの景色。特に整備もされていないタイルの地面が、このまま歩けば転んでしまいそうだな、とそんなことを思わせてくる。


 こんなことをして、私はどうしたいのだろうか。こんな日々を繰り返して、何かに私はたどり着くことができるのだろうか。


 私の吐く息は白かった。白くて、温かかった。悴もうとする指先の冷たさを、そんな白い息で彩ろうとした。それでも外の寒さ以上の温もりを演出することはできず、ただ痛いような冷たさが宿り続けるだけなのだけど──。


「──寒いでしょ」


 呆然と白い景色に視線を移していると、後ろから声が聞こえてきた。それとともに、ドアが開いたことを示すような自動ドアの開閉音と、少しの温もりが私を包むような錯覚を覚えた。


 背筋をなぞる冷たさが一瞬緩和した。別に驚いたわけでもないけれど、それでも心臓の鼓動が緩やかに早くなる感覚があった。その声に振り向いてみれば、いつも通りというように彼がそこにはいる。


「……竹下くん」


 私は呆れながら彼の名前をつぶやくしかなかった。

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