02


 部屋の中の温度を肺に溜め込んでは吐き出す作業を繰り返していた。携帯を呆然と眺めて、時間の針がより早く回ることに期待をしていた。なにかやるべきことを見出せればよかったのかもしれないけれど、そんなものは大抵終わらせてしまっている。冬休みに入る前に提出することが決まっているレポートについても、もしくはそれ以外の事柄についても。出席についてもちゃんとしていて、特にここでやるべきことは見当たらなかった。


 私のいる講義室から、メインホールを覗くことができる。講義が始まった今の時間帯、昼食時は人がごった返していた場所であったのに、今ではその面影も観ることができないほど人は少なくなっている。なんとなく大声で話していれば、それだけで他の場所にも声が響きそうな、そんな人の少なさ。私はそれにため息を吐いた。


 人混みは苦手だった。いつだって苦手だった。いつからだったかは覚えていない。けれど、いつだって人波に酔ってしまう感覚があった。苦しさがあった。


 停留所でバスを待つ人波が苦手だった。人と話をしていても、その場の空気がすべて濁っていく外の空間が嫌いで、そしてぎゅうぎゅうに詰まったバスの中でのくぐもった空気が苦手だった。夏であればうだるような湿気が纏わりつくし、今の時期のような冬であれば、無理に回した暖房の乾いた空気が喉を刺激するから、どうしたって私は外の世界に向いていないような気がした。


 かといって、このままこの講義室でぼうっとするのは違う気がする。そろそろ喉が渇いてきたし、咳が重なりそうな予感を覚えた。今ならメインホールは人が少ないし、そこからつながる自動販売機についても行きやすいかもしれない。濁った空気はまだ残っているのだろうけれど、それでも昼食時のことを思えばまだマシなのだろう。


 私は、ふう、と気持ちを込めて立ち上がった。肺に絡まる重さが少し苦しい。身体に寄りかかる重力の流れに身をゆだねてしまいそうな誘惑を何とか無視して、なんとか講義室から出ていった。





「よーっす!」と声が誰かにかけられた。聞き覚えのある声だと思ったけれど、私はそれに返事をしなかった。もしかしたら私に向けられたものではなく、近くにいる誰かに対しての声掛けだと思ったから。


「……サユ?」


 そうして自動販売機でミルクティーにしようかコーヒーにしようか迷っていると、実際に私の名前が呼ばれた。その声に私は心の中でため息をつきながら、声の主のほうへと振り返る。


「……遅かったね」


 喉に痰が絡まって、少し雑音が混じったような声になった。少しばかりの憤りを含ませたせいで、低い声になって喉がなってしまったようだった。


「ごめんね? なかなかユウジが──」


 彼女はもともとあったらしい言い訳を口にした。あらかじめ建てられていた言葉は詰まることなくスムーズに紡がれたから、どこか彼女が悪びれる様子もないのでは、と思ってしまう。ユウジ、というのは彼女の友人以上恋人未満の存在らしく、よく夜に通話をするときには同様の存在があと二人ほどいると話していた。だから、彼女の言い訳には価値がないと思った。


「そっちが頼んだことなのに」


「だからごめんって。何かおごるからさ」


 彼女はそう言って自販機に目配せをする。おおよそ彼女を待っていた時間は三十分くらいなので、たかだか二百円にもならないもので清算するのは少し嫌だったけれど、とりあえずそれに頷くことにした。これ以上続けても面倒なことになるのは自分でも理解していたから。





 大学の自習室にはパソコンが設置されている。自由席で学習をしたい者はノートパソコンを借りることができ、本格的な作業をしたい者は、適当に空いているデスクトップパソコンに学生番号でログインすることができる。大抵の学生は貸借の手続きが面倒という理由でデスクトップパソコンを使うのだけれど、彼女と私はノートパソコンをいちいち借りることになった。彼女曰く、デスクトップのパソコンだと眩暈がする、とのことだった。正直よくわからない。


 学生証を提示して、いろいろと神に書き込んだ。予定使用時間を記入して、さっと終わるであろう時間帯を書き込もうとする。彼女と約束していた相談事については、きっと三十分もかからないはずだった。


 そうして私が貸付表に時間帯を書こうとすると、彼女は私を呼び止めた。念のため、一時間からそこら辺にしておけば安心じゃない? と私を気遣っているのか、もしくは何かしら私を利用したい何かがあるのか。そのどちらかはわからないけれど、おそらく後者なんだろうな、と思いながら心の中でため息をつく。今日も無駄に時間を費やすことになるのだろう。





「本当にサユって優しいよねぇ」


 彼女は借りたはずのパソコンを一切開くことはなく、私が操作する画面をずっと監視するかのように見つめていた。私が彼女の作業をサボらないか、実際に目で私を縛り付けているようだった。


「……そうかな?」


 打算でしかないけど、と心の中で呟く。これは優しさでも何でもないのだから、と付け足しながら。


「優しいって! 私はこういうのよくわからないからさぁ」


「操作方法なら教えられるけど──」


「──いや、そういうのは大丈夫! 何度も試して私には不向きなのはよーくわかってるから!」


 彼女はそう言った。いつも通りの言い訳だと思った。





 彼女のレポートを肩代わりするように、一部を私が作業をしているのは、別に優しさがあるわけではない。きっと、真に優しさを持っている人ならば、肩代わりなんていうことはすることもなく、その当人の身になることを進んで行うはずだ。そう考えれば、自ずと私がやっていることは優しさでも偽善でもないことは分かってしまう。


 大学生になってから痛感したことがある。それは、人とのかかわりを無視して生活をやっていくことはできない、というもの。


 義務教育、そして高校に上がるまでは孤独であってもある程度は許される部分がある。そういう人なんだな、という認識が他人にもあるし、煩わしい関係を持たずとも卒業をすることはできる。教師から協調性のない人間だとは思われるかもしれないが、それでもなんとかなるのだから、それでいい。


 だが、大学生ともなると話は変わってくる。


 大学は人とのかかわりを強制してくる。自分が知らない情報を他人が知っていることがあるし、協調性のないものはそのまま卒業をすることもできず、暗い闇の中で孤独に死んでいく。卒業なんて迎えることもできず、悲しい運命だけをたどることになる。


 だから、私は人の作業を請け負うことがある。


 それを行うことで、友人という関係性を演出する。互いにそれを了承することで、自分たちが仲間であるという契約をするのだ。こういった作業の肩代わりについても同様であり、そこには打算的なものしか存在しない。


 私は優しくないのだ。ただの、孤独を妥協しただけの、卑しい人間でしかないのだ。


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