二つの朝
楸
01
◇
彼の吐く息は白かった。きっと、白色だったと思う。こんな曖昧な言葉でしか表現できないのは、視界に入るすべての景色が白に彩られていたからだった。
不安定さを覚える白だった。景色に凹凸を生まない歪な白だった。人の温もりを閉ざすような白い雪が、あらゆるものに化粧をした。だから、地面は当たり前のように白色に包まれていたし、木々でさえも凍り付いたように一部を白で飾っていた。幹には死を感じさせるような樹木の色はあったけれど、そこに葉は一つも繋がれず、ただ孤独であることを象徴している。雪を降らす曇り空は虚を誇示するような灰色だったけれど、彼の吐息はそれに紛れていたのだ。
本当に寒いね、と彼は言った。乾いた笑みを浮かべていると思った。何かを言うときにも、彼は白色の煙を吐き出していた。荒れたような薄い呼吸に紛れているその笑みは、どこか義務的に感じていた。それはいつものことだった。
計算された口角と頬のゆがみ。笑っているようにしか見えない笑顔、正しい笑顔というものを指示されたように浮かべている彼の笑顔。それは、いつだって偽り笑顔にしか見えなかった。
そんな嘘でしかない笑顔にうなずきたくはなかった。頷いてしまえば、彼の嘘を肯定してしまうような気がした。寒さは身を包んでいて、今にも指先が凍り付きそうな感覚を覚えていたけれど、どれだけ世界が凍えようとも、彼に対して同調する気にはならない。
だから、曖昧に笑う。笑って返すだけに終わった。言葉は思いつかなかったし、そもそも何か返そうとも思わなかった。事実として寒いと思っている自分はいたけれど、彼の言葉とともに浮かべる笑顔を肯定できないのならば、私が吐き出すすべての言葉も嘘になってしまうから。
笑ったあと、私は悪戯みたいな気持ちを抱えた。敷き詰められている雪化粧の一部を摘み取って、軽くそれを握ってみた。あまりに冷たい雪の感触に、どこか存在しない温もりを勝手に錯覚した。少し手のひらから解けた水滴の欠片を淋しく覚えながら、彼にひとつの抵抗をするみたいに、握った雪玉を彼にめがけて投げてみる。狙い通りに雪玉は確かに彼のコートにあたって、それらは雪だった自らの存在を否定するように粉々になって消えていく。
怒ればいいのに、彼はそれを笑ってごまかした。特に不平をつぶやくでもなく、感想としての言葉を残すこともなく、へらへらと笑って時間を過ごしていた。それも、やはり偽り笑顔でしかなかった。
私はそんな彼の笑顔が嫌いだった。
嫌いでしようがなかったのだ。
◇
予定外の雪に世界は包まれていた。異常気象という言葉を冬先で聞くことになるとは、私は思ってもいなかった。
ここ数年では雪という雪を見たことがない。いつだって地面に白く化粧を施す雪という存在については雲の上の存在であり、よくテレビや新聞などのメディアを通してでしか見る機会はなく、それが身近に訪れることなど、想像することもできなかった。
「せめて二月くらいであってほしいよな」
保坂は、大学の窓辺から外の世界を覗いてそう言った。
講義室の中は温もりに包まれている。空調の調子が悪いのかどうかはわからないけれど、温もりに包まれるたびに、人の呼吸がそこにわだかまるような、少し不快になる雰囲気がある。私はその感覚に眉をしかめながら、そうだね、と返してみた。実際には何も考えていなかったけれど。
目の前にある雪を信じることができていなかった。確かにそれは実在しているのに、どこか夢を見ているような感覚と同一にしてしまっている。先ほどここに来るまでに、いくつもの雪が頭髪へと絡まっていたはずなのに、それでも私はその存在を許容することができていない。
別に、雪が降る時期なんてどうでもよかった。十二月でも、二月でも、どちらも寒いのであれば私には関係ない。冬になれば空気が乾くのが嫌で、よく私はマスクをする。それでも防ぎきれない人波の雑菌が、私の体を蝕んでいく。
今日も今日とて咳き込んでいる。そうだね、と彼に呟いた後、喉に絡まった空気を吐き出すために咳き込んだ。数回咳き込んでも反射的に出てしまう喘鳴に、保坂は、辛そうだね、と呟く。私はそれに頷くだけしかできなかった。
好きな季節を考えたことがない。いつだって、世界が変わる苦しみに囚われてばかりのような気がする。夏であれば熱が私を蝕んでいく。春であれば花の増殖行為が私の呼吸を邪魔をする。秋だって急激に変わる気候に含まれて、そのまま体調を崩すことがある。きっと、私は外の世界で生きることに向いていないのかもしれない。
それでも、人は外の世界と向き合わなければ生きてはいけない。そんな世界を象徴するように、窓辺の外で降り続ける雪があっても人は行動を繰り返す。保坂であれば、履修をしている講義の単位を獲得するために、私であれば待ち合わせをすることを目的に。各々が各々の目的をもって、そうして今日という一日を過ごしているのだ。
「わりぃ、そろそろ行くわ」と保坂は言った。私はそれに返事をしようと思ったけれど、喉に絡まる喘鳴がそうさせてくれなかった。何も反応をしないのもどうかと思うので、私はこほん、と絡みをとるような声を出した後、保坂に向けて手を振った。視線をこちらに向けた彼は私の振る舞いに満足すると、講義室を後にする。
こうしてそこそこ静かな講義室が完成した。話しかける人間もいないし、話しかけられる人間もいない。私が苦しいと思わせるような息遣いを繰り返すだけで、それ以外に聞こえるのは温くなった空気を運ぶ空調の音だけ。私の待ち人に関してはまだ来ないらしい。
私は息を吐いた。携帯でも眺めることにして、退屈で持て余した感情をつぶすことだけに専念する。
毎日が同じことの繰り返し。そんなことを考えて苦しめられている私は、やはり外の世界で生きることは苦手なのかもしれない。
二つの朝 楸 @Hisagi1037
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