第20話 吊るされた男

 直人にとって監察医務院を訪れるのは三度目だが、業務時間外であるため、荒木捜査一課長に連れられて別の入り口から解剖室へと案内された。


「検視前ですか?」

 荒木に続いて解剖室に足を踏み入れた渡辺は、驚いた口調で尋ねた。

「これからだ」

 荒木は警備員に眼で合図を送ると、直人に消臭剤を渡した。

「すでに腐敗が始まっている。鼻の下に塗るといい」

 直人は頷くと、云われた通りに少量の消臭剤を指ですくい、鼻の下に塗った。


 渡辺と荒木から離れ、解剖台に置かれた遺体を覗き込んでみると、眉間にはまだ微かな光が灯っている。赤色を帯びた右眼を気にしながらも、振り向いて渡辺に眼で合図を送ると、

「死者の記憶と尊厳を汚す者だが、どうか許したまえ」

 独り言のように小さく呟き、そっと死者の眉間に触れた。直人の眼が変色しても、背を向けているから荒木警視正には気づかれない。


 ──それに何かあっても渡辺さんがいるから大丈夫──


 そう云い聞かせると、暗闇の沼の中に意識を委ねた。


                  ***


 混濁した意識から徐々に視界がはっきりとしてくると、目の前に別の空間パラダイムが広がる。黒川和男には記憶が残っていた。


 物や書類が散乱したオフィスが視界に入ってくるが、意識を黒川和男の記憶に合わせると、慌しく書類をかき集めてはシュレッダーにかける動作を繰り返している。遺体が発見された場所は港区の雑居ビルの十一階にある海運会社のオフィスだと荒木一課長の報告を受けていたから、死者の記憶との共鳴に成功している。


「こちらはあくまでも金融機関ですので、取引相手の研究内容などには興味ありません。しかし、あなたの云うアメリカにとっては有益な情報かもしれませんね」


 男の声が聞こえると、黒川和男は手の動きを止め、ゆっくりと視線を向けて語り始めた。


「奴らも能力者の発掘ぐらいしか詳細を知らないはずだ。ピエールからエリック・ホフマンの連絡先を聞いてくれ」


 黒川和男の口からピエールとエリック・ホフマンの名前が出たことに驚愕したが、それよりも〝能力者の発掘〟とは何なのか?


 ──自分以外にも能力者は存在しているのかもしれない!


 熱いものがこみ上げてくるような感覚を覚えたが、男の声が直人を冷静にさせた。


「引き受けましょう。では、そのエリック・ホフマンという男に接触を図ってみます」

 男は軽く挨拶をすると踵を返し、ドアへと向かった。


 この時点で黒川和男はまだ生きている。エリック・ホフマンは外資系警備会社に勤める年配のアメリカ人だ。一週間前にピエールに招待されたパーティーの主催者もエリック・ホフマンだった。


 黒川和男はドアへと向かう男の背を見詰めていたが、

「感謝する、逸見教授」 

 男の名前を口にした。


 ──この男が逸見教授!


 初めて目にした逸見教授の姿を直人は懸命に記憶に刻んだ。黒川和男よりも若く、見た目は上品な中老紳士といったところだが風格がある。体格は控えめだが洗練された身なりが、心なしか宗一郎を連想させた。


 黒川和男は逸見教授と海運会社のオフィスで会った。いや、逸見教授が黒川和男に会いに来たのだろう。観察者こちらからは黒川和男の生前の行動を修正する術はない。逸見教授のあとを追えないのが悔しいが、黒川和男はまだ生きている。あと数分ぐらい時間が残っているということは、この後すぐに首を吊ったのか、それとも──。


 黒川和男はドアを閉めると鍵をかけ、散乱する書類の処分に戻った。淡々と独りで書類整理を行っている黒川和男がこのまま自殺を図るなど想像できなかった。残り時間から計算しても、物理的に不可能だ。結果は変えられない。そうなれば答えは一つ。


 直人は覚悟を決めると、これから数分内に起こるであろう展開を待った。


 突然ドアが開き、黒い上衣を着た体格の良い男が無言でオフィスに入ってきた。まるで鍵など無意味だと主張するように、男は冷笑を浮かべている。あまりにも急な展開に、黒川和男は為す術もなく立ちすくんだ。


「き、君たちにとって、有益な情報を、持っている──」

 震える声で辛うじて絞りだした言葉だったが、男は躊躇なく近寄ると、耳元で囁いた。


「残念だがエリック・ホフマンは交渉など望んでいない」

「それは──」


 すぐに返答できず、視界には目の前の男が映し出されているだけだった。


 黒い手袋をはめた男の手が伸び、黒川和男から小さな声が漏れる。首元に異変を感じ、黒川和男が首元に手を置いた瞬間、全身が焼けるような熱に包まれた。眼を見開いて正面に立つ男を凝視したが、次第に焦点がぼやけ始め、男の姿が定まらなくなると、痙攣が始まった。


 全身から波打つような熱と苦しさに悶え、直人は失神しそうになったが意識が共鳴しているため途中で手放せない。死者の残影を覗く代償として、相手が死まで辿った経験を最後の一秒までなぞらなければならない。


 死因は解った。首吊りではなく薬物だ!エリック・ホフマンが放った暗殺者によって黒川和男は消された。早く、早く終わってほしい。もう時間もそんなに残っていないはずだ!


 目の前が暗くなり、重力に逆らえずに床に倒れ込むと、手足が痺れる感覚だけが頼りだった。朦朧とする意識の中で、もう何が起きているのか理解も追いつかない。視界は闇に落ち、呼吸は次第に浅く、遅く、そして激しい苦しみから解放されるように、最後の呼吸が止まった。


 ──ようやく時間切れタイムアウトだ──


                  ***


 深呼吸をして瞼をゆっくり開くと、目の前には解剖室が広がっている。視線を落とすと遺体となった黒川和男が解剖台に横たわっていて、眉間にはまだ弱々しい光が灯っている。遺体の首に圧迫痕が残っているが、残影から判断する限り、死因は薬物だった。


「直人」

 渡辺の声が背後から聞こえ、無事にこちらの空間に帰還したのだと安心したが、バランスを崩してそのまま床に倒れ込んだ。

「危ない!」

 渡辺が走り寄り、脇を抱えると直人を立ち上がらせた。

「大丈夫です。ちょっと情報量が多すぎました」

「わかった。とりあえず移動するか」


 直人は頷くと、姿勢を崩さず片隅に立っていた荒木の方へ向かった。残影に共鳴している間の体感は五分ぐらいだが、実際にはほんの数秒しか経過していない。荒木の眼に映ったのは、遺体を目の前にした直人が数秒で倒れ込む場面だけだ。直人の特殊能力を霊能力と信じている荒木は事情を知らない。だが、死因が薬物であれば時間を争う。


「荒木一課長、死因は首吊りではありません。薬物です」

「本当か?」

 荒木の凄むような三白眼が光った。

「遺体の首元を確認してください。まだ死亡して三日以内ですから、血液検査から薬物が少量検出されるかもしれません」


 まだほかにも報告したいことは山ほどあったが、いくら荒木が相手でも手の内すべてを見せるのは危険である。まずは渡辺に相談するべきだと判断すると、渡辺も察しているようで、目が合った。


「こちらも調査で那須から帰ってきたばかりですから、日を改め──」

 渡辺の言葉が終わる前に監察医たちが解剖室に入ってきた。

「ああ、こちらもこれから忙しくなる」

 荒木は頷くと、二人を監察医務院の外まで案内した。


                  ***


 渡辺のマンションには過去に何度も足を運んだことがあった。だが、目の前に広がる光景に直人は困惑した。


「──もしかしてリノベーションしましたか?」

 内装はすべて新しいデザインに一掃され、家具が新調されたうえに、配置まで変わっている。


「俺じゃない。薫だ」

「──凄いですね、薫さん。確か事務所も薫さんが数年前にデザインしたんですよね」

「ああ、最近は独立したいと云っている。俺に似てるのかもな」

「確かに」

 直人は笑うと、大胆にリノベーションされた部屋を見て廻った。


「薫さん才能ありますよ。レストランや商業施設とかにもチャレンジできるといいですね」


 直人は渡辺に似たハッキリとした顔立ちの薫を思い浮かべた。三つ年下だが、今はインテリアデザイナー系の仕事をしていると聞いている。小さい頃は渡辺に連れられて頻繁に神崎家に来ていたため、幼馴染のような仲だったが、最後に会ったのは母の三回忌だった。


「まあ、独立したいと父親に相談してくれるところが嬉しいね。気が強いが可愛らしいところもある。何か飲むか?」


 渡辺は微笑むと、綺麗に整えられたキッチンからグラスを取り出した。チャコールグレーの壁と木目調のキャビネットがうまく調和し、モダンだが男性的なデザインを感じる。


 グラスを用意する渡辺を見ながら直人は少し違和感を抱いた。いや、男性的なデザインのキッチンだけではなく部屋全体の雰囲気から、リノベーション以外にも何かが違っている。


「──久美子さんは?」

 生活感が漂わないキッチンや部屋に違和感を感じた理由だった。

「数か月前に出て行ったぞ。知らなかったのか?」

「え、別れたんですか? 七年も一緒にいて……」

「俺はもう結婚しないと決めている……まあ、再婚か」

 それ以上説明がなくとも察しがついた。娘がリノベーションに励んだのも、きっとそんな不器用な生き方をする父親を想ってのことなのだろう。


「薫は喜んでいたけどな。あの二人は反りが合わなかったようだから」

「薫さんがリノベーションに励んだ理由はそっちですか……」

 どうやら薫は父親の恋人の形跡を喜んで消し去ってしまったようだ。


「俺の話はどうでもいいさ、それより──」

「黒川和男の残影の報告ですね」


 直人はグラスを受け取ると、傷一つない滑らかなキャメルブラウンのレザーソファに腰を下ろした。グラスの中の琥珀色の液体に視線を落とすと、パーティーでスコッチを嗜んでいたエリック・ホフマンを思い出させた。


 ピエール、エリック・ホフマン、そして逸見教授。直人は頭の中を整理すると、黒川和男の記憶で視たことを、時系列順に語り始めることにした。

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