第15話 死相

 その足音はエレベーターホールへと続いた。


 駅の近くに集中する雑居ビルの一角に足を踏み入れた時に、誰にもつけられていないかをすでに確認している。逸見寛はエレベーターに乗り込むと、目的場所の階数ボタンを押した。体の動きを一定の角度で最小限にとどめ、顔を上げて表示を見ることもない。


 エレベーターのドアが十一階で開くと、飾り気のないエレベーターホールが迎える。夜が明けて久しいが、周囲にはまだ誰もいない。眼だけを動かして人影が見えないことを確認すると、いくつものドアがある廊下を通り抜け、突き当りの角部屋の前で足を止めた。部屋番号を一瞥して確認し、ドアベルを鳴らす。表札はない。


 部屋の内側から小さな音と人の気配を察すると、

「独りです。誰にもつけられていません」

 逸見寛の声だけが静かに廊下に響いた。


 部屋のドアが躊躇うように少しだけ開くと、そのわずかな隙間から盗み見するかのように逸見寛の姿を捉える眼が鈍い光を帯びる。一旦ドアが閉まると金属音が鳴り、黒川和男がドアを開けて逸見寛を迎えた。


「わざわざ日曜日の朝に来てくれて有難う、逸見教授……」


 くすんだ眼の下にくっきりと隈を浮かばせ、頬骨がハッキリと目立つほどに顔の肉が落ちた黒川和男は別人のようである。逸見寛にとって黒川和男に会うのは十日ぶりであったが、その変わり果てた姿には目を見張るものがある。


 二人の間に暫し沈黙が落ちたが、先に逸見寛が口を開いた。

「令状請求書が裁判所に提出されたようですね、黒川総長」


 オフィスに足を踏み入れると、物や書類が散乱していた。机の上に置かれた飲みかけのコーヒーカップやゴミから、黒川和男がオフィスで寝泊りをしている様子が伺える。


「ああ、だが私のような人間を捕まえても仕方ないと思うがね。逆に警察に捕まって保護されるほうが都合がいいのかもしれないな」

 ドアを閉めると黒川和男はため息をついた。


「司法取引ですか?」

 逸見寛は机の上に散らばった書類を眼で追いながら尋ねた。黒川和男は書類をシュレッダーにかける作業を黙々と続けている。返事をしない黒川和男に、逸見寛は質問を重ねた。

「ここの住所はフランスに買収された海運会社『Maritime Management』の子会社である『ライトハウス株式会社』が登録されていました」


 黒川和男は応えなかったが、代わりに顔を上げると逸見寛を真っすぐに見詰めた。

「頼みがある。そのために君に電話をしたんだ」

「ですからこうして黒川総長に会いに来ました」

 逸見寛が静かに応えた。


「私の護衛が消された。やったのはアメリカだろう」

 苦々しく云うと、黒川和男はこれを機に引退を仄めかした。

「このビジネスは、今が引き際だと思っているよ。だが情報は貴重だ。奴らがルーマニアで何をしているのかという情報だ」

 逸見寛は無言のまま、黒川和男の話に耳を傾けた。


「エリック・ホフマンというアメリカ人と交渉をしたい。できないのなら検察と司法取引をするまでだ。裁判沙汰になっても二十年前の前例がある。上手く立ち回れば、法廷から追い出されるだけだ」

「私はアメリカとは接点がありません」

 逸見寛ははっきりと応えたが、黒川和男は気にせず話を続けた。


「君のところの金融機関だって取引に関わっている。検察が司法取引に応じることで、違法行為が芋づる式に露見すれば君たちも大打撃だろう? 私は所詮、小さな魚に過ぎん」


 そう云い捨てると、止めていた手を動かし、残りの書類をシュレッダーにかけた。逸見寛はそんな黒川和男の様子を眺めていたが、何かを思いついたような表情を見せると、交渉の余地を仄めかした。


「こちらはあくまでも金融機関ですので、取引相手の研究内容などには興味ありません。しかし、あなたの云う〝アメリカ〟にとっては有益な情報かもしれませんね」

「奴らも〝能力者の発掘〟ぐらいしか詳細を知らないはずだ。ピエールからエリック・ホフマンの連絡先を聞いてくれ」

「引き受けましょう。では、そのエリック・ホフマンという男に接触を図ってみます」


 そう云うと、逸見寛は軽く挨拶をしてドアへと向かった。

「感謝する、逸見教授」 

 全身から力が抜け、安堵した眼差しを向けると、黒川和男は逸見寛の背を見送った。


                  ***

 

 廊下をゆっくりと歩き、殺風景なエレベーターホールまで戻る。周囲に気を配るが、相変わらず人の気配が全くない。下りのボタンを押すと、階下からエレベーターが昇ってくる機械音が聞こえる。逸見寛は数歩下がると、エレベーターのドアが開くのを待った。


 ドアが開き、黒い上衣を着た体格の良い男が目の前に現れた。逸見寛にとって見覚えのない男だが、何の目的で十一階に来たのかは察しがつく。


 逸見寛は視線だけで軽く会釈すると、男と入れ替わりでエレベーターに乗り込んだ。男は表情も変えずに、ホールの先に延びる廊下を足音も立てずに歩いて行く。


「電話なんかを利用する甘さが命取りになる」

 エレベーターのドアが逸見寛の独り言を遮った。

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