第14話 罪の意識
腕に巻かれた時計を見ると、すでに十時を回っている。綾子は大通りに面したコーヒーショップに素早く入ると、平岡と二人の学生も後を追うように続いた。
「外は冷えるな」
平岡が呟きながら営業時間を確認すると、閉店までまだ一時間ほどある。周囲を見渡すと、騒がしいバーとは対照的に、落ち着いた雰囲気の店内に客は数人しかいない。
「バーの方がよかったかな?」
平岡は学生たちにさり気なく聞いてみたが、コーヒーショップの方が落ち着いて話せると返ってきた。四人がテーブルに着くと、平岡は綾子を〝九月に都立国際大学に入学した娘〟と紹介したが、学生二人は名を明かすことを拒否した。ただ、この二人はフロックのメンバーであり、来年の五月に卒業する予定であることは教えてくれた。
「フロックは成績優秀者だけを集めたエリート集団なのは知っていますが、入会費が高額だと聞いています」
序盤は綾子に話の流れを作らせるため、平岡は学生たちの態度を観察することに集中する。
「フロックは学士課程なら三年生と四年生しか入れません」
学生の一人が静かに応えた。
「はい、最初の二年間の成績がリクルートの決め手になると聞きました」
ある程度の予備知識は事前に教えられていた綾子だが、サークル側が会員を選ぶ方針であることを知ったときは、少し驚きを覚えた。成績優秀者全員が希望して入会できるサークルではない。まさにエリート集団である。
「フロックの入会費はそんなに高額じゃないよ」
もう一人の学生が素っ気なく応えたが、予想と反していた。綾子は思わず驚いた表情を見せたが、平岡は若干眉間にしわを寄せると、会話の斬り込み方を考えた。
「フロックの中には学科によって派閥があるようだね。法学部の生徒が多いそうだが」
平岡は青山涼の情報を得ることを、まずは優先させた。
「はい、我々は法学部です。まあ……サークルの創設者が法律学科の教授と退官した判事ですから」
「あと、理系の奴らもいるけど、あいつらは内部のプロジェクトには参加してないよな」
「内部のプロジェクト?」
平岡は平静さを装いながらも、問題の核心であることを直感した。綾子も内部のプロジェクトの話など初耳であったが、平岡に話の主導権を握らせることにした。
「それはサークル内でも秘密厳守事項なので……ご他言のないようお願いいたします」
困った表情を見せながらも周囲に気を配るが、店内の客は平岡たちのテーブルには関心がないようである。平岡と綾子が静かに頷くと、学生は冷静に話を続けた。
「フロック内部には、さらに精鋭集団を集めたプロジェクトがあります」
声のトーンを低く落とすと、平岡と綾子にだけ聞こえるように囁いた。
「そのプロジェクトに入るには教授の推薦が必要なのですが──」
「変な難問を突き付けてくるんだよ、教授やトップの連中が」
話を遮るように、先ほどから素っ気ない態度の学生が、不貞腐れた様子で語り始めた。
「変な難問?」
綾子の問いに学生は一瞥すると、
「はい。彼は内部プロジェクトに参加するはずでしたが──」
そう云うと、横に座る不貞腐れた学生に視線を向けた。
「俺にはできなかった」
ぽつりと呟くと、不貞腐れた表情は、いつの間にか怒りへと変わっていった。
「あいつらは俺に親を欺くように仕向けやがった」
吐き捨てるように云うと、平岡と綾子を交互に見た。
「だからさっきのバーで、あんたたちの会話を耳に挟んだ時、俺は忠告したかったんだ」
興奮気味に云い放つと、羞恥心からか視線を逸らした。
「フロックへの会員費は大した額ではありません。でも、内部プロジェクトは高額です」
冷静な態度の学生が説明を加えた。
「つまり、内部プロジェクトに参加するには教授の推薦と高額な入会費用が掛かる」
平岡が話を整理するかのように繰り返すと、学生たちは頷いた。
「ただし、高額な入会費用といっても、普通に支払うのではありません」
「入会費をいかに親から騙し取ってくるかが試される」
遮るように、始終不機嫌であった学生が体験談を語り出した。
「え?」
綾子が思わず驚きの声を漏らしたが、平岡が手で制す。
「なるほど、君は私たち親子に忠告したかったんだね」
平岡は優しく学生たちに語りかけると、綾子の方に視線を向けた。
「内容によっては娘のフロック入会は考え直さないとだな」
「フロックは問題ない。政界にもコネができて有意義なサークルだが、内部プロジェクトはヤバイ。入会費をどのように親から騙し取ったかを告白させて、卑劣さを競い合わせるゲームが行われる」
一度吐き出してしまうと心が落ち着いたのか、学生は冷静さを取り戻していた。
「なぜ優秀な生徒たちにそんな酷いことをさせるのかな?」
都立国際大学の生徒は裕福な家庭の子供が多い。政界にコネができるような社会的地位の高いクラブの入会費なら、親が問題なく用意するはずである。温室育ちの子であれば、親を裏切る行為を強要されれば精神的に参るだろう。
「通過儀礼のようなものかい?」
「そんな感じですね。まあ、行動力が試されます。ただ、裏切る対象は親です。赤の他人ではダメです」
「万が一、問題が起きても家庭内で片付けろということだね」
平岡は頭の中で、渡辺が荒木一課長から得た情報と照らし合わせた。他人を巻き込んで警察沙汰にした生徒がいたが、親が揉み消した件だ。
「プロジェクト・エムの活動内容は極秘なので誰も知りませんが、社会人になってから本格的に活動するとだけ聞かされています」
もう一人の学生が静かに応えた。
「プロジェクト・エム……」
綾子が独り言のようにぽつりと呟くと、
「外国に引き抜かれるという話もありますが、あくまでも噂です。入会は年四回。院生も参加可能です」
「実は、私の知人の息子さんが入会しているのだが、教育学科の生徒さんでね」
平岡は直接斬り込むことにした。噂話だけで推測の域を出ないのなら、今は青山涼の関与を調査するべきだと判断した。
「あ、今年の秋の入会者が教育学科の三年生でした」
初めて教育学科から生徒が選ばれた珍しいケースだと、学生たちは話題に触れた。一部の法律学科の生徒たちが暴走し、問題を起こしかけたという野次馬的な話にも、平岡は黙って耳を傾けていたが、
「それは青山涼君だね」
はっきりと確信をもって尋ねることにした。学生たちは押し黙ると、静かに頷いた。
学生たちの話によると、フロックのメンバーとしても青山涼が初めての教育学科の生徒だという。平岡は青山涼がフロックの内部のプロジェクト・エムに参加していることを突き止めた。あとは、このプロジェクト・エムの情報収集である。本格的な活動が始まるのは社会人からという箇所が、スパイ育成プログラムの可能性を匂わせるが、渡辺の〝更生は俺たちの仕事ではない〟という言葉を胸の中で反芻した。
「青山君は逸見教授の推薦が大きかったから、異例で入会できたんです」
「教育学科の逸見教授は影響力があるみたいだね」
平岡はここで逸見教授と青山涼が繋がるとは予測していなかったが、まるで点と点が結ばれたような高揚感が胸を掠めた。
「逸見教授は欧州から客員教授として派遣された人で、教員の中でも一目置かれているようです」
「なるほど。欧州といえば、見目麗しいフランス人の博士がいるって聞いたな」
平岡は関心を押し殺すと、笑いながら尋ねた。
「いよいよキャンパス外でも有名になりましたか」
学生もつられて笑うと、緊張した空気が少し和んだ。
「あの博士は国籍はフランスでも、住んでる場所はスイスだったはず」
「確か、チューリッヒの大学からサバティカルで来日してきたって話だよね」
緊張から解き放たれ、学生たちの表情にも少し活気が戻ってくると次第に饒舌になった。
「とにかく、俺は親から入会金を掠め取ることができなくて、他人を鴨にして取り繕うとして失敗したんです」
自嘲気味に学生は告白すると、平岡は透かさず尋ねた。
「プロジェクト・エムから退会はできるのかな?」
「わかりません。入る前に終わっちゃったんで……」
綾子は半ば呆然として平岡と学生たちの会話を聞いていたが、それでも大学内に蔓延るエリート集団の異様な習慣が一般人と乖離している様子を客観的に捉えていた。それは自分の家系も一般とは少し違うことを自覚しているからである。
「プロジェクト・エムは社会人になってから本格的に活動が始まるが、最初の通過儀礼として親を欺けと教えられる」
先程まで乱暴な口調だった学生も、今では冷静に話ができるほど心に余裕ができている。
「娘さん、よく考えてから入会した方が良いと思いますよ」
そう云うと、薄笑いを浮かべた。
「有意義な話をありがとう。諸君のような立派な学生が社会人として活躍する日を楽しみにしているよ」
平岡は二人に感謝の意を伝えると、綾子に視線を向けた。調査を切り上げる合図である。綾子が周囲を見渡すと、すでに閉店に向けての準備が始まっている。
「今夜はありがとうございました。色々と勉強になりました」
綾子が元気よく会釈すると、学生たちは安堵の表情を浮かばせ、コーヒーショップを後にした。綾子は二人が店を去るのを横目で確認しながら、
「叔父さん、どういうこと? なんで親を欺くのが最初の通過儀礼なの?」
眉をひそめて尋ねた。店内にはすでに平岡と綾子以外の客はいない。
「個人主義が徹底されるんだろう。実力主義の世界だよ」
平岡はテーブルから立ち上がると、視線を落とした。
「社会人になったら色々と汚い裏仕事を任されるのさ」
「うわっ、最低」
平岡は笑って綾子に応えたが、頭の中ではすでに青山涼の素行調査の報告の準備はできた。問題は渡辺が青山夫妻をどのように説得するかである。
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