第8話 白い光

 エリック・ホフマンは東京湾に面した臨海公園の駐車場に車を停めると大きなあくびをした。


「朝六時前だとまだ薄暗いな」

「昨晩、エリックは飲みすぎでしたよ」


 ピエールはそう云うと、薄手の上衣を羽織り、フードでダークブロンドの髪を覆った。


「……早朝からジョギング。他にアイディアはなかったのか?」

「エリックも少しはエクササイズをしたらいかがですか。お酒は老け込みますよ」


 前に突き出た腹を撫でるエリックを横目に、ピエールは助手席から降りた。ランニングシューズの靴紐を結び直しながら駐車場を観察すると、仕事前の運動に利用する人がいるのか、すでに車が数台駐車されている。


「昨夜の追跡車はあるか?」

「別の駐車場を利用していると思いますね。ここに来るまでに何度か見てますから、すでに到着しているはずです」

 ピエールは素っ気なく応えた。


「じゃあ、七時までに戻らなかったら、こちらから動いていいかな?」

 確認するような口調だったが、一瞬、エリックの眼が鋭く光った。

「すぐに食らいついてくれたら二キロも走らないで終わりますよ」


 そう云うと、ピエールは助手席のドアを閉め、駐車場から公園のジョギングコースへと向かった。


                  ***

 

 軽くストレッチをするとピエールは走り出した。早朝六時はまだ薄暗い。それでもこの時間からジョギングをする人は他にもいる。


 ピエールは相手の気配を感じ取るために神経を集中させながら、まっすぐに延びたジョギングコースを走り抜けた。


 カーブに差しかかると反対方面から犬を連れた若いカップルが現れた。ピエールは表情を変えずにすれ違うと、次第にジョギングコースの右側から東京湾が見え始める。そのまま一定のペースで走り抜けると、ジョギングコースはコンクリートから地面に変わった。土に砂利の混ざったコースは次第に狭くなり、左右には紅葉が始まった木々がトンネルのように生い茂る。


「狙うならこの辺りだろう」

 独り言のように呟くと、予想通り相手の気配を感じた。

「一人、いや二人か──」

 ピエールは走るスピードを変えることなく相手の動きを待った。


 不意に横の茂みから男の手が現れると、ジョギング中のピエールの左腕を掴み、引きずり込んだ。ピエールは抵抗せずにそのまま男に引きずられながら、周囲に誰もいないことを確認すると、突然体を翻し、右手で男の額に触れた。その瞬間、ピエールのグレーの瞳が色を失い、白い光を帯びる。


 男は掴んでいたピエールの左腕を離すと、そのまま脱力したように前方に倒れ込んだ。


「おやおや」

 口元に笑みを浮かべ、倒れ込んだ男を受け止めると、そのまま地面に降ろした。

「やはり貴方でしたか。ご苦労様です」


 ピエールは黒川総長の部屋の扉の横にいた長身の男を憶えていた。そして驚いたようにピエールを見詰めるもう一人の男の方に視線を移すと、ゆっくりと歩み寄った。どうやら男二人だけでピエールを取り抑えるつもりだったようだ。


「手を廻したのは黒川総長ですか? 残念ですが、彼はもうエリック・ホフマンから見放されています。あなたも早く違う仕事を探した方が良いでしょう。これから大掃除が始まりますよ」


 ピエールの端麗な顔に冷たい影が落ちた。

 男の顔が引き吊り、ポケットから素早くナイフを取り出した時、

「あー、あぅ」

 地面から異様な声が聞こえた。


 男はピエールにナイフの先端を定めながら、地面をチラリと見ると、長身の男が未熟な声を発しながら地面を這っている。


「あー、うー」

 その異様な光景に男が気を取られた瞬間、ピエールが素早く右手を伸ばした。男はナイフで咄嗟に身構えたが、すでに色のないピエールの瞳に捕らわれていた。


「何をした!」

 男は身を反りながら短く叫んだが、それ以上口を開くことはなかった。握っていたナイフが地面に落ち、男はその場に立ちつくすと、強張った表情に眼だけをぎょろりと光らせた。そしてゆっくりと足を動かすと、そのままおぼつかない足取りで歩き始めた。長身の男も吸い寄せられるように地面を這いながら前進すると、そのまま二人は茂みの中に消えていった。


「記憶の消去です」

 ピエールの冷たい声だけが静かに響いた。


                  ***


 ピエールはジョギングを済ませ、エリックが待つ駐車場に戻ると、素早く後部座席に乗り込んだ。


「やはり帰国を早めた方が良さそうです」

 そう云うと、金髪を覆っていたフードを外した。エリックはバックミラーでピエールの様子を確認すると、車のエンジンを掛けた。


「お帰り、早かったな。それにしてもどうやって相手を抹殺するんだ?」

 エリックは腹を探るように尋ねた。


 ピエールの顔は少し赤みを帯び、息も若干上がっているが、運動後の体温上昇が理由であり、それ以上の異変を感じ取れないエリックは、逆に不信感を募らせたようだ。


「それはエリックたちの得意分野では? 私は単に相手の行動を制御するだけです。抹殺はしてはいません」

 ピエールは経絡療法から全身に存在する経穴など、東洋医学の説明を始めた。


「アキュパンクチャーってやつか?」

 東洋医学に詳しくないエリックが思いつくのはせいぜい針治療ぐらいである。

「薬ならクラウディアが詳しいんだが、東洋医学はよくわからん」

 エリックは退屈そうに話題を変えた。


「昨夜のナオという男の子を連れて帰るのか? 別に彼は能力者じゃないんだろう? ピエールの個人的な理由かい?」

 エリックはハンドルを切りながら不思議そうに尋ねた。


「連れて帰るのなら個人的な理由です。でも、帰国が早まれば無理ですね。彼が望むなら話は別ですが、まだそこまでの信頼関係は築けていませんしねぇ」

 ピエールはため息をつくと、残念だと茶目っ気にアピールした。


「女だったらピエールにホイホイついていくのにな」

 エリックは大笑いしてバックミラー越しにピエールを見た。


「黒川総長のエリート集団には能力者と呼べる生徒はいませんでした。もちろん皆さん優秀な学生たちです」

 ピエールはさり気なく話題を変えた。


「優秀といえば、ピエールが日本語を巧みに操るとは、事前に聞かされていなかったよ」

「マスターが日本人ですので、習得しました」


 エリックの支局はジャン・クレマンを通訳として雇ったが、ピエールは日本語だけでなく、英語やドイツ語も巧みに操ることを後で知らされた時、エリックは内心舌打ちした。


「日本に滞在中、エリックにはお世話になりました。これから現場の後始末が大変だと思いますが、クラウディアとジャンにもよろしくお伝えください」

「後始末は他の部署に廻されるさ」

 エリックは素っ気なく応えた。


「またどこかでお逢いすることもあるでしょう。次はロンドンですか?」

 笑みを残したまま、ピエールはバックミラーをチラリと見た。


「ピエールはどこに行くんだ?」

「今の段階では未定です」

 ピエールは言葉を濁した。


「だったら私も処理作業が終わり次第、ピエールの次の目的地に向かうとするよ」

「エリックは私のストーカーですか?」

 ピエールは呆れたようなため息をついたが、

「だって退屈じゃないか」

 エリックはアメリカ人らしく大袈裟に応えてみせた。


「六十過ぎのオッサンには興味ありませんよ」

 眉をひそめると、ピエールは車窓の外の景色に冷めた眼を向けた。


                  ***


 エリックの車が大学に着くと、ピエールはスポーツバッグを片手に後部座席から降りた。まだ朝の八時前だということもあり、キャンパス内に人影は少ない。ピエールは早足でキャンパスを横切り研究室のある建物に入るとシャワー室へと向かった。


「だからCIAのアシストは必要ないとマスターに忠告したのに!」


 レバーをひねると、シャワーヘッドから勢いよく水が流れる。水は次第に温かいお湯へと変わり、辺りに湯気がたち籠る。ピエールはランニングフィットを脱ぎ捨てると、引き締まった体躯を水圧に任せながら考えを巡らせた。


 計画を進めるにあたって必要最低限の情報をエリックと共有したが、向こうが〝能力者の発掘〟というピエールの計画に興味を示すことは容易く予想できた。


「それともマスターは私に首輪をつけたつもりなのか……」


 ピエールは日本で活動するCIA局員に協力を求めるよう上司から指示された。そして今回の仕事を機に、ピエールはエリックにとって重要なメッセンジャーとなった。ピエールの特殊能力に恐れを抱く者なら、同時に他所の組織にも見張らせるぐらいの策略は遣って退けるだろう。特に日本での仕事となればマスターが尚更慎重になることをピエールは知っていた。


 シャワーヘッドから流れ出るお湯を止め、バスタオルに手を伸ばすと、

「フフフ、だから貴方のアキレス腱を攫おうかと思いましたが、下手にCIAに興味を持たれても困りますので、次の機会ですね」

 タオルの間から覗かせた顔に含み笑いが毀れた。


「流石マスター、お見事です」

 ピエールの眼には挑戦的な光が帯びていた。

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