第7話 隠れ家
東京駅から中央線に乗り込むと飯田橋駅で下車し、神楽坂へと向かった。平日も夜中の十一時を過ぎていれば、すでに閉店している場所も多い。直人は緊張気味に人通りの少ない細い道を通り抜けながら〝指定場所〟へと歩いた。
低い建物が並ぶ通りの角に、その〝指定場所〟はある。通りに面したアンティーク調の重い扉を躊躇なく開くと、そこは窓のない隠れ家のようなバーであった。
「いらっしゃい」
女の切れ長の眼がカウンター越しに直人の姿を捉えた。直人は店内に眼を配ったが、平日の夜だからか客もまばらだ。直人はそのまま女の方に向かうとカウンター席に座った。
「何になさいますか?」
女が気さくに尋ねた。
直人は事前に潜入中の合図や報告、そして緊急の呼び出しなどの取り決めを頭の中で思い起こした。緊急度の低い場合はビールを頼み、その後は店の裏口を利用させてもらう。ワインを注文すれば報告の意思表示だが、白を頼めば事務的な報告。だが赤は〝呼び出し〟を希望する報告である。そして保護を求める危険な事態ならワンショットを注文する。直人は赤ワインを注文した。
女は口紅をしっかりと引いた口元に小さな笑みを浮かべ、
「何年ものを?」
少し低めの声で尋ねた。直人は一瞬考えたが、平岡を呼ぶことにした。
「六十八年ものではなくて新しい方で」
女は笑うと、両方とも十分ヴィンテージだと応えた。
深夜、日付が変わると店の外灯が消え、それが閉店の合図となった。カウンターに直人だけを残し、まばらだった客も次第に去っていく。女は扉に鍵をかけ、店内の片付けを始めると、店の奥から平岡が現れた。
「あ、茂ちゃん」
「姉さん、そのちゃん付けはやめろって」
平岡が苦々しく云うが、毎度のことらしく、女は気にも留めない様子で話を進める。
「何か飲む?」
「いらない。義兄さんは?」
「地下で荷物の整理をしてるわ。じゃあ二人ともごゆっくり」
女は優しく微笑むと、静かに部屋の奥へと消えた。
「ここは姉夫婦が経営しているバーだから大丈夫だ」
平岡はこの場所を渡辺に提供し、連絡用の隠れ家として長年利用していることを説明してくれた。直人が渡辺の下で働き始めたのは四年前であり、平岡や探偵事務所の過去を詳しくは知らない。だが、信頼できる部下だと渡辺が平岡を重宝していることは知っている。
「夜中に呼び出してすみません。でも僕のターゲットが車両追跡されていたようなので……当分事務所に戻れないので平岡さんに報告させてください」
平岡に報告することを選んだのはこの分野に詳しいからだが、渡辺に報告をして、万が一にも潜入調査を中止されることを恐れたからでもある。
「公安かもしれないな。どんな尾行だったんだ?」
直人は夜十時半過ぎ、ホテルから出てすぐに追跡されたが、ピエールが交差点で無理やり相手の追跡を引き離し、そのまま東京駅で下車して、この指定場所に来たことを伝えた。
「夜はヘッドライトの光で尾行に気づかれやすい。一台だけだったか?」
「だと思います」
「外国のスパイのようなヤツ相手に一台だけで挑むなんて公安じゃないな。どこか他の勢力か……」
平岡は考え込んだが、他の勢力といっても色々ある。直人はピエールとの会話をもう一度、頭の中で反芻した。
「なんとなく、ピエールさんには心当たりがあるようでした」
「なら、向こうの事情に巻き込まれない方がいい。例のハロウィーン祭は来週の土曜日だろう?」
平岡は少し警戒をしたのか、ハロウィーン祭に計画を切り替える提案をした。
「ハロウィーン祭にも行きます。パーティーで少し近づけた生徒がいたので」
直人はパーティーに招かれた四人の生徒が全員同じサークルに属していることを報告した。
「成績優秀者の集うサークルです」
「青山涼も成績優秀者だと渡辺社長が云ってたな」
直人は頷くと、慎重に応えた。
「青山涼と同じ教育学科の生徒が一人、入会しているようです」
平岡の眼の色が変わった。
「初めての潜入で上出来だ」
先輩である平岡に褒められ、直人は少し恥ずかしい気がしたが、同時に嬉しくもあった。
「今夜の招待客の名前と特徴です」
直人はポケットから綺麗に折り畳まれたメモ用紙を取り出し、平岡に渡した。
「渡辺社長も云ってたが、神崎は本当に記憶力がいいな」
用紙を広げ、ざっと眼を通した平岡は、直人の記憶力に感心した。生徒の名前と特徴が細かく書き込まれたメモだが、関係性をわかりやすくするために図のように記してある。
「外国人ばっかりだな」
「はい、まるで異国に紛れ込んだかのようでした。この七人の接点はピエール・ブランシェという大学の研究員ですが、生徒はサークルという共通点もあります」
直人は数時間前の記憶を遡り、学生たちと交わした会話や飲んでいたアルコールの種類など掻い摘んで説明したが、
「ピエールってヤツは何も飲んでいなかったのか」
平岡はメモ用紙を見詰めたまま尋ねた。
「初めて会ったときは十二月に帰国すると云ってましたが、帰国を来月に早めると聞きました」
吉田明美という法律学科の生徒がピエールの帰国が当初の予定よりも早まったと聞いて騒いだのだから、大学にはまだ知らせてないのかもしれない。
平岡はメモ用紙を折り畳み、上着の内ポケットに忍ばせると、直人の眼をまっすぐに見た。
「ピエールって男は危険な匂いがする」
目的はあくまでも青山涼の素行調査であるから、渡辺から指示が入るまでピエールに接触しないよう直人に指示した。
「オレは成績優秀者のサークルを調べる。足立さんには四人の学生の身元を調べてもらおう」
平岡は腕に巻いた時計を見ると、
「今から十八時間後だな、足立さんならできるだろう」
そう云うと、椅子から立ち上がった。
「夕方六時にバーが開店するから、ここで姉さんから足立さんの報告書を受け取ってくれ。問題がなければビールを頼んで裏口から出ること」
直人は頷くと、椅子から立ち上がった。
「渡辺社長に神崎の報告を上げておくが、もしかしたらハロウィーン祭前に青山涼の件は結果が出るかもしれないな」
そう云いながら、平岡は直人を店の裏口まで案内した。
「ではお姉さんに、また夕方に訪れますとお伝えください」
直人は裏口から外に忍び出ると、タクシーを拾うために大通りへとまっすぐ向かった。
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