第3話 蝶の戯れ
都立国際大学の正門付近は、午後の授業を受ける学生たちの出入りで賑わっている。時折、外国人の姿もちらほらと見えるが、おそらく講師か留学生あたりだろう。
正門のセキュリティは厳重で、部外者は門を越えて大学の敷地には入れない。直人は奥に見えるメインビルディングに眼を向けたが、そのまま正門を通り過ぎると、来訪者用の事務オフィスがある人影少ない北門を目指した。
北側の大通りから大学の敷地に数歩足を踏み入れ、北門手前の建物の一階にあるガラス張りのドアを押した。オフィス内は明るく清潔に保たれ、待合スペースには数人の学生がソファに腰かけスマートフォンで遊んでいる。大学案内資料請求に事前のアポは必要ないが、念のために電話を入れておいたため、受付カウンターですぐに資料を受け取れた。
──大学見学を装って構内に潜入するか、それとも何かの行事を狙うか──
ふと、オフィス内に貼られた一枚のポスターが直人の目に入った。
「ハロウィーン祭……」
そう呟いた時、オフィスのドアが勢いよく開いた。
「コンニチハ!」
「ボンジュール! ブランシェ博士」
親しげな話し声が聞こえ、直人は思わず声の持ち主の方に視線を向けた。
スラリとした長身に洒落たスーツを着こなし、長めのダークブロンドの髪を無造作に束ねた男がオフィスに入ってくる。男はガラス張りのドアを手で支えながら、連れの女子大生をオフィスの中へ招き入れると、静かにドアを閉じた。男の若干癖のある日本語の挨拶に応えた受付嬢も、心なしか顔が高揚している。
──三十代半ばって感じかな──
西洋人は実年齢より老けて見えるというが、この男の洗練された仕草の奥には、少し若々しさが感じられる。
「メルシー、ブランシェ博士」
連れの女子大生は甘い笑みを浮かべると、エスコートされるように受付カウンターへと向かった。
──ここは国際大学だから外国籍の教員も自然にいるし、若くして〝博士〟なら有能な人なのだろう──
雰囲気のある外国人の登場で遮られた集中を元に戻すと、直人はハロウィーン祭のポスターを見詰め、詳細を頭に入れた。開催日まで二週間以上もあるが、祭りに紛れてキャンパスに入り込んだ方が、学生だと偽るより安全なはずだ。
開催日 10月26日 土曜日
時間 午前10時から午後10時まで
場所 都立国際大学キャンパス
午前10時 マーケット&文化交流ワークショップ
午後1時 仮装コンテスト
午後3時 ホラーハウス、パフォーマンス
午後8時 ハロウィーンナイトパーティー
ふと、直人は後方から視線を感じた。
──見られている──
顔が一瞬だけ強張ったが、気づいてしまった以上、確認する必要がある。慎重に、だがあくまでさり気ない様子で、直人は後ろを振り返ろうとした。その時だった。
「院生ですか?」
流暢な日本語でもって、視線の相手は直人に声をかけてきた。
直人は表情を変えずに今度こそ振り返ると、遠くからこちらを観察するような眼差しを向ける金髪の男が目に入った。先ほど女性たちに〝ブランシェ博士〟と親しげに呼ばれていた男だ。
男は微かに笑みを浮かべると、一緒にいた女子大生を受付カウンターに残し、ゆっくりと直人の方へと近づいてきた。この男が視線の相手だと確信したが、下手に怪しまれる動きはできない。
「いえ、大学院案内資料を請求しに来ただけです」
そう云って直人が微笑むと、男のグレーの瞳が一瞬、揺らいだように見えた。
「ピエール・ブランシェ、サバティカルで八月からこの大学に来てます」
相手を恍惚とさせる笑みをうかべると、右手を差し伸べた。男の直人も顔を赤らめるほどの端麗な顔立ちの男だが、慌てて気を引き締めた。相手に先手を打たれてしまったら、こちらも名乗るしかない。直人は笑顔を返して握手をしたが、その容姿からは似つかわしいほどの力強いグリップで右手を握られた。その時、相手から放たれる不思議な気配を感じ取ったが、なぜか懐かしい香りがした。決して嫌な気配ではない。
「──
直人は用意していた偽名を使った。〝
「佐々木直……」
ピエールは握手を解くと、直人をまっすぐ見詰めた。
「ナオさんはワタシの友人によく似ていて驚きました」
直人が感じた懐かしい香りとは少し違うのだろう。だがピエールもまた直人に何かしら懐かしさを覚えたようだ。なんとも表現し難い不思議な気持ちだ。こんな偶然もあるのかと、直人は当初抱いた警戒心とは打って変わって親しみすら抱きかけたというのに、
「その方は女性ですが、とてもよく似ています」
ピエールは嬉しそうな顔で無邪気に微笑んだ。
──不思議でも何でもなかった! 母親似の無駄に長い睫毛と泣きぼくろのせいだ!
だが、初対面の人に八つ当たりするわけにもいかない。直人は適度に会話を切り上げ、オフィスを去ろうとした寸前、
「どの学科に興味がアリますか?」
ピエールが尋ねた。直人は一瞬戸惑ったが、もしこの男の所属が〝逸見寛〟と同じ学科であれば、可能性が広がる。
「──教育学科です」
事前の調べで逸見寛は教育学科の教授であることが解っている。これは賭けだった。
「同じ学部です! ワタシは心理学科にいます。これも何かの縁」
ピエールはそう云うと、名刺を差し出した。
直人は名刺に視線を落とすと、そこにはフランス語で綴られた〝ピエール・ブランシェ〟という名前の他に電子メールだけというシンプルなもので、大学の名刺ではなかった。午前中、監察医務院で一課長に『渡辺叡治』の名刺を渡した時の事を思い出し、直人はピエールの名刺を素直に受け取ると、何気なく裏返した。
Memento Mori
カードの中央に綴られた一文と、有名な三枚のアヤメの花びらを束ねた
「メメント……モリ?」
「クラブのコンセプトです。哲学に興味アリますか?」
直人が顔を上げると、ピエールはそのまま真顔で続けた。
「クリスマス前にはフランスに帰国しますが──」
「クラブって何ですか! ブランシェ博士!」
突然、昂った声が会話に割って入ってきた。直人は受付カウンターの方角に目を向けると、先程からピエールの会話に聞き耳を立てていた女子大生が直人を睨んでいる。
「フフフ、秘密です」
ピエールは女子大生の方へゆっくりと振り向きながら指を唇に当てる仕草をすると、何事もなかったように優しく微笑んだ。
「博士のクラブなら私も入りたいです! 紹介してください」
「哲学のクラブです。生や死について語り合うのですが……残念ながらワタシが運営するクラブではありません」
「でも面白そうじゃないですか!」
ピエールは困った顔をすると、
「紹介したいのは山々ですが、男子社交クラブですので、女性は入会できない仕組みです」
「何それ! 超怪しい!」
遠回しに断られたことが気に障ったのか、女子大生はヒステリックにわめき散らした。
「マドゥマゼル、オフィスで声を張り上げてはダメです」
ピエールは未だ直人の手中に収まっている名刺にさり気なく視線を落とすと、
「懐かしい匂いのするアナタをお待ちしてます」
直人だけに聞こえるように耳元で囁くと、そのまま受付カウンターの方へ戻っていった。
直人は驚いてその場に立ち尽くしたが、ピエールは興奮気味の女子大生を愉しむように背中に手を回しながら巧みに宥めると、その場を見事に収めた。
──おっと、感心している場合ではなかった──
直人はピエールの名刺をポケットに差し込むと、ガラス張りのドアを引いてオフィスを出た。
渡辺に指示され、わざわざ大学に足を運んだが、偶然にも〝大学関係者と繋がる〟という収穫を得た。ただ、哲学系の男子社交クラブというのが謎めいていて怪しいが、今月末のハロウィーン祭まで渡辺が待てないのなら、サークルに潜入して調査することも可能だ。
直人はふと、ガラス越しに見えるピエールの姿に眼を向けた。横にいる女子大生や受付嬢の相手で忙しそうにしているが、ピエールも直人の視線に気づくと手を小さく振った。
「花蜜を求めて移ろう蝶みたいな人だな」
直人の口元に苦笑いが漏れたが、報告のために一旦事務所に戻ることにした。
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