第2話 新たな依頼

 十月に入り、気づけば街の景色は秋の装いへと変わりつつある。


 秋の風に吹かれ、紅葉の兆しに時折目を奪われつつも、直人は渡辺事務所がある地上七階建てのビルに入っていった。


 今年の八月で開業二十周年を迎えた『渡辺事務所』は、このビルの最上階にある小さな私立探偵事務所である。設立者の渡辺叡治は、昔から直人の家族と深い交流があり、幼い頃から直人を知っている人物だ。四年前、直人が突発的な特殊能力に目覚めると、その能力を高く評価した渡辺が自らの事務所へと勧誘し、現在に至る。だが実際は、渡辺に保護されたようなものだった。

  

                  ***

 

 ポーンという機械音の後にエレベーターのドアが開き、渡辺の助手である平岡茂ひらおかしげるがタイミングよく目の前に現れた。平岡は四十歳とは思えぬ俊敏な動きでエレベーターから降りると切れ長の眼を直人に向けた。


「上は荒れてるぞ」

「渡辺社長、ご機嫌斜めですか?」

 直人が思わず聞き返すと、平岡は直人の肩をポンと叩き、

「まあ、がんばれ」

 涼しく笑うと、エレベーターを後にした。


 一瞬の不安が直人の胸を掠めたが、警視庁捜査一課長から渡辺宛に封書を預かっている。それに残影が映らない遺体という奇妙な体験を報告する必要もあった。直人はエレベーターに乗ると黙って七階のボタンを押した。


 直人を乗せたエレベータはそのまま七階に直行し、まっすぐ伸びた廊下を突き進むと渡辺事務所に到着する。直人は事務所の前で深呼吸をすると、扉を押した。


 事務所に一歩足を踏み込むと、観葉植物がいくつか増えている。植物の緑がコンクリートが打ちっぱなしになった無機質な内装と相まって空間を和ませているが、憤慨する渡辺には特に大きな効果はないようである。直人は部屋の奥にガラスパネルで間仕切りされた向こう側ガラスルームに視線を移すと、渡辺が携帯電話を机上に放り投げ、一喝したところであった。


 渡辺事務所のもう一人の助手であり、秘書でもある足立幸恵あだちゆきえが直人に気づくと、

「あ、お帰りなさい、神崎君」

 表情を少し緩ませたが、そのままガラスルームに入っていった。渡辺は首を横に振ったが、幸恵は無理やり頭痛薬と濃い目のエスプレッソを押し付けると、いつの間にか書類のファイルを机上に置いた。直人はそんな光景を眼で追いながら幸恵と入れ替わりでガラスルームに入ると、渡辺が頭痛薬をエスプレッソで流し込んでいるところだった。


「渡辺さん、薬は水の方が──」

「構わん」

 遮るように渡辺は短く応えた。


 直人はため息をついたが、一課長から預かってきた一通の封筒を渡辺に差し出すと、椅子に座った。渡辺は黙って受け取ると封を切り、中身に軽く目を通した後、直人に報告を求めた。


「山口正雄の残影にアクセスを試みましたが、何も映っていませんでした。空白です。初めてです、こんな体験は──」


 直人は封筒の中身が気になったが、監察医務院での詳細を渡辺に報告することにした。


「死者の記憶が空白……」

 一瞬沈黙が落ちたが、渡辺は気持ちを鎮めるように、

「映っていなかったのなら仕方ない」

 そう云って山口正雄の件を一時保留にすると、先ほど幸恵が持ってきた書類のファイルを荒々しく拾い上げ、中身を確認した。


「依頼がこんなに立て続けに来てるんですか?」

 机の上に散乱している書類の多さに直人は驚いて渡辺を見た。

宗一郎そういちろうの奴が一遍に客を事務所に送ってきたからな」

 渡辺は低く唸った。


 直人は渡辺の心中を察しながら手渡された書類に目を通すと、それは大学生の息子を持つ親からの依頼であった。


 渡辺は厳しい目を書類に向けると、

「それでつい先ほど宗一郎から電話があって、その青山あおやま夫妻の依頼を優先してほしいそうだ」


 そう云うと、橘宗一郎たちばなそういちろうという男が如何に我儘で世間離れしているかという愚痴を溢し始めた。橘宗一郎は信誠しんせい銀行の副頭取という立場であるが、直人の伯父でもある。そして渡辺叡治と橘宗一郎は高校時代からの友人であるが故に、このような愚痴のオンパレードも互いに許される間柄であることを直人は知っている。


「荒木さんの部下の件を進めたかったが、いったん棚上げするしかない。さっさと〝ドラ息子〟の件を終わらせるぞ」

 渡辺は荒木警視正からの封筒の中身を直人に見せるように机に広げると、

「幸恵さんが素性を調べているが、携帯電話よりも電子メールの履歴が欲しくてね」

 そう云って一枚の紙片に書かれた名前を指した。


逸見寛いつみひろし、都立国際大学教授──」

 直人は紙片に記された名前を呪文のように唱えると、

「この方の電子メールですか?」

 青山夫妻の息子から突然、〝逸見寛〟という人物に話が飛んで困惑した。


「いや、息子の青山りょうの電子メールの履歴から、受信を〝消去した〟という形跡を中心に調べてもらったんだが──」


 青山涼と頻繁に行き交うIPアドレスの中から条件を絞ると、最終的に逸見寛という大学教授のIPアドレスに行き着いたという。


「荒木さんに頼んだんですか?」

 職権乱用になるのではないかと、直人は内心ぎょっとしたが、

「IPアドレスの履歴だけだ。メール内容になると令状が必要になるからな」

 渡辺は平然と云ってのけた。


 直人は呆然と目の前に座る渡辺を見詰めたが、山口正雄の人身事故の調査と交換条件だったのではないかと考えた。そして〝逸見寛〟という男が、大学教授であることに気づいた。


「もしかして青山夫妻の息子さんは都立国際大学の生徒ですか?」

「ご明察」

 渡辺はニヤリと不敵な笑いを浮かべると顎を撫でた。


「青山夫妻は息子の不審な動きを危惧している。大学で変なサークルに所属しているのか、それともドラッグでもやっているのか。金遣いも荒いようだが、何か危険なことに巻き込まれているのではないか、とね」


 渡辺が〝ドラ息子〟と呼んだ意味は解ったが、青山夫妻は息子に対して何か思い当たる節があるのだろうと考えた。


「青山涼の行動は平岡がマークしている。直人は大学の様子を探ってくれ」

 そう云うと渡辺は都立国際大学のウェブサイトを漁り、

「大学の資料請求──、アポ要らないみたいだな」

 独り言のように呟いた。


「今から僕は都立国際大学に行くんですか?」

「俺が大学に行ったら違和感あるだろう」

「確かに──」

 ──年齢的に問題ありますね──

 思わず口に出しそうになった言葉を飲み込むと、直人は椅子から立ち上がった。


「知人だからって宗一郎がうるさいんだよ。さっさと片付けるぞ」

 渡辺はため息をつくと、机の上に散乱した書類を整理し直し始めた。

「渡辺さんって割と宗一郎伯父さんに甘いですね」

 直人は苦笑すると、ガラスルームを後にした。

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