第一章 記憶のない死体
第1話 プロローグ 空虚
一枚の名刺を握った手が若干揺らいだが、平然とした表情を繕うと、
「捜査一課長の
重々しい空気を纏いながら名を告げると、渡辺の名刺を内ポケットに差し込んだ。
「先ほど検案が終わった」
「交通事故で確定ですか」
眼鏡のブリッジを指で押し上げると、直人は死因を確認した。一課長は苦々しく頷くと、先に立って解剖室へと足を向けた。直人は後を追いながら、事前に渡辺から開示されていた情報を頭の中で整理した。
氏名 山口正雄(46歳)
直接死因 交通事故による脳内出血
事故の状況 横断歩道に飛び出し、4tトラックにはねられる
現場検証 目撃者の証言、交差点監視カメラの映像
特記事項 潜入捜査官 殉職
目の前に国内最大規模と謳われる解剖室が見えてくると、
「いくら渡辺君の頼みでも、君だけを中に入れるわけにはいかない」
そう云って一課長は直人を眼で制した。
「監察医が傍にいても問題ありません」
透かさず直人が応えると、一課長は室内へ足を踏み入れた。
解剖室では医師たちが今も片付けに追われている。直人は室内を見渡すと、検視を終えたばかりの一番手前の台に歩み寄った。
一課長は医師たちに眼で合図を送ると、直人の前で白布をめくって見せた。顔面は打撲や裂傷、そして数か所に血腫が見える。直人は一瞬、眼を背けそうになったが、眼鏡をかけ直す仕草をしながら赤みを帯びた右眼を影で隠し、死体の眉間から放たれている微かな光を確認した。直人はこれを〝命の結晶〟と呼んでいる。
一課長は遺体の乱れた髪の間から覗いた耳を指すと、
「脳内出血の痕だ。手の施しようがなかった」
唸るような声を漏らした。
直人が注意深く耳に目を遣ると、そこにははっきりとした出血の跡があった。
人身事故の残影を覗いた後に襲われるであろう精神ストレスを考慮すると、死者の記憶にアクセスすることに少々躊躇いがあるが、警視庁捜査一課長の手を煩わせておいて、ここで急に中止するわけにはいかない。
──いや、それよりも手ぶらで渡辺社長の元には帰れない──
直人は覚悟を決めると、
「死者の記憶と尊厳を汚す者だが、どうか許したまえ」
独り言のように小さく呟いた。
直後、直人の左眼に青や緑の斑点が現れ始めたが、伊達眼鏡で瞳を隠しているため、一課長は直人の変色した眼に気づいていない。
「数秒失礼します」
早口で云うと、死者の眉間に素早く指を伸ばした。横にいた一課長が慌てて手で制するも、すでに直人の指は眉間の微かな光を捉えていた。
***
死者の残影にアクセスすると、初めに暗闇の中に飲み込まれる感覚へと落ちてゆく。それから徐々に意識がはっきりとし、やがて視界に別の
だが、今回の体験は全く違う。いや、違うと言うよりは異質すぎる。
──まずい! 失敗したかも!
目の前が真っ白で、辺り一帯何もない。目を凝らし、意識を集中させても、ただ空白の状態が無駄に広がっている。意識が死者の魂に共振しているだけなのに、まるで全身の毛穴から汗が噴き出てくるかのようだ。
初めて味わう異様な体験に、このまま無事に生還できるのかという恐怖が頭をよぎった。直後、真っ白い空間が無情にも直人を弾き出した。
***
横から一課長の不機嫌な声が聞こえ、直人は慌てて指を遺体の眉間から離したが、そこには弱々しい光が灯されている。
「困るよ、勝手に遺体に触るのは」
「申し訳ありません」
丁重に謝ると、遺体から数歩下がった。何も映らなかった残影に直人が戸惑いを隠せないでいると、
「死体を見るのは初めてか?」
一課長が察するような口調で尋ねた。
「初めてではありませんが、やはり慣れませんね……」
直人が言葉を濁すと、
「渡辺君からは事情を聞いているのかな?」
三白眼を光らせ、腹を探るように聞いた。
「
直人は慎重に応えた。
「そう、ウチの忍者だったんだが……」
そう云うと白布をもと通りに覆った。
「血液や薬物検査からは何か?」
「何も検出されなかった。交差点に設置されている監視カメラの映像を見たが、山口が突然交差点に飛び出して左折してきたトラックにはねられた」
このまま事故死として部下が処理される怒りを抑え、一課長は続けた。
「山口正雄は自殺するような男ではない。ましてや任務中の身だった」
一課長は内ポケットから一通の封筒を取り出すと、直人に手渡した。
「渡辺君に頼まれたものだ」
直人は封書を受け取ると、
「では、渡辺に報告するため事務所に戻ります。本日は朝早くからお時間をいただき、ありがとうございました」
丁寧に会釈すると解剖室を後にした。
──渡辺社長に大至急報告しなければ!
特殊能力に目覚めてかれこれ四年、色々な残影を覗いてきたが、未だかつて〝死者の記憶が空白〟という不可解な体験はなかった。
直人は異質な体験に思いをめぐらしていたが、それよりも渡辺社長が警視庁捜査一課長と面識があることに、何だか得体のしれない不気味さを感じた。
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