順位繰り下げ
「シロー・タケダはさすらいタケダ。帰る家無し母も無し。そう思って
「四郎君、何か言った?」
「いんや、何にも」
年も明けた
とは言え俺にとっての里帰りは、戦場に赴くのに等しい。命のやり取り自体は無いものの、周り全てはほぼ敵だ。いつどんな嫌がらせをさせれるか分かったものではない。館で重臣達に出くわそうものなら、面と向かって罵倒される可能性すらある。俺だけなら我慢もできるが、浅葱お姉さんにあのドスの利いた声で罵詈雑言を浴びせられる姿は見せたくない。
もし父上との約束が無ければ、浅葱お姉さんを連れていく決断はしなかったろう。俺が甲斐国内での肩身が狭いのは、イジメの構図と同じである。誰もが力ある者に睨まれたくない。逆らえば今度は標的が自身に向けられかねない恐怖。
誰もが自身の身は可愛い。ならば重臣達に追従して、皆が俺に心無い言葉を発するのは自然な流れである。
今回の帰省でもそんな針の筵の状態になるのだと覚悟していたが、いざ躑躅ヶ崎館にやって来ると、想像とは違う風景が広がっていた。
勿論、俺が甲斐府中に里帰りした所で、諸手を上げて歓迎される訳ではない。門番や館に勤める家人の反応は冷ややかなものだ。
しかし、そこまでである。罵倒も無ければ指をさして笑ったりもしない。俺とは目を合わせようとはせず、自身の仕事に集中する。そんな予想外の対応であった。
元がマイナスだと、ゼロになるだけでも大きく違うとでも言えば良いのか。実家をこんなにも心地良く感じるのは一体何年ぶりだろう。
いや、分かっている。本当に心地良く感じるのは、ゼロからプラスになった時だ。ただ今の俺にとっては、周り全てが敵ではなくなったこの現実が心に安らぎを与えた。変な話ではあるが。
それにしても、何があってこうなったのか。
思い付く理由は、父上の根回しであろう。正月に俺が里帰りするからと、家人達に余計な行動をしないようにときつく言い含めていたと予想する。
ただ、その程度で誰もが大人しくなるだろうか? この館で働いている家人は、全員が武田 晴信様を崇拝している訳ではない。忠誠心が別の人物に向けられている者も中にはいる。こうした状態では、例え父上でも全員に命令を徹底させるのは不可能だ。
そうなると、別の切り口を考えた方が良い。俺の帰省には家人が大人しくなる要素があった。そう考えるのか妥当であろう。
ここでふと今更の事実に気付く。そう言えば元服前の何も無い時とは違い、今の俺は高遠諏訪家の当主になっていたと。それも大領の御一門衆である。場所は辺境ではあるものの、要は甲斐武田家内での幹部だ。時期は正月ながらも、そんな幹部が直々に甲斐武田家当主への献上品を持参してやって来たとなれば嫌がらせはできない。
実際は単なる土産だとしても、それなりの量になったので形の上では献上品としている。これが功を奏したと言うべきか。もし俺に何かあれば、それは甲斐武田家当主の面目を潰す形となろう。
また、一緒に里帰りした浅葱お姉さんの存在も大きい。浅葱お姉さんは養女とは言え、
戦国時代は現代人が考えているよりも序列に拘る。だからこそ格上の相手には無礼な振る舞いはできない。
きっと父上はこうした要素を考慮した上で、里帰りを俺に提案したのだ。だからこそ遠山領の所有を認めた。そう考えればしっくりくる。
……相変わらず恐ろしい方だ。
ただ、これはあくまで俺の感想である。他の者から見れば、また違った景色に見えてくるのもまた事実であった。
「それにしても四郎君、聞いてはいたけど本当に酷いわね。高遠諏訪家は、今や甲斐武田家の中で最有力の一門衆でしょう? 幾ら庶子の出とは言え、ぞんざいに扱って良い訳ないでしょうに」
「そうですよ。高遠諏訪家が城一つからほぼ二年でここまで大きくなれたのは、全て四郎様の才によるものです。それを分かっていない者ばかりじゃないですか」
「貴方、中々良い事言うじゃない。見直したわよ」
「某は四郎様第一の家臣ですので。この位は当然です」
父 武田 晴信様が部屋に到着するまでの待ち時間に愚痴を言い合っているのは、浅葱お姉さんと護衛の保科 正直となる。俺の甲斐時代を知らないからこそ、好き勝手言える。
「二人共、高遠諏訪家が大きくなったのは、お味方の領地を奪ったからだというのを忘れないでくれよ。当家が領地を手にした事情を知らなければ、心象を良くするのは難しいと思うけどな」
「そうかも知れないけど……」
「おしゃべりはこの辺で終わりだな。父上が参られたようだ」
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
そこからは殆ど流れ作業のようなものであった。父
「えっ」
案内された部屋で俺達を出迎えてくれた人物。意外な事にそれは、正室である三条の方様であった。四〇歳に近い年齢ながら未だその美しさは衰えず、上品な佇まいで俺達二人の入室を促してくる。
それも微笑を交えて。
この態度に俺は戸惑うが、ここまで来た以上は今更逃げ帰るのはできない。そんな思いから、覚悟を決めて用意された席へと腰を下ろした。
「四郎殿とこういう形で会うのは初めてですね。これまではずっと四郎殿の母と一緒でしたから。私を冷たい女だと思っていたんじゃないですか? 今日はそれを謝ろうと思って、御屋形様に無理を言ったのですよ」
「頭をお上げください。私は自分の立場を理解しています。ですので、お方様の態度に不満を感じた事は一度たりともありませんよ」
戦国時代の女性は、表舞台に滅多に登場しない。だからこそ何の力も無いと勘違いしがちだが、特に正室に於いては思った以上に権力を持っている。
分かり易いのが夫の女性管理であろう。
武家の当主ともなれば、家の存続のために子作りが必要だ。それも数は多い方が良い。これは室町時代の子供の死亡率の高さや戦での死亡が理由となる。悪い言い方をすれば、死ぬのを前提で子作りをする。この時代は人の命が軽い。
そうなると、子供を産む女性は一人では足りない。側室が必要となる。しかしながら、誰彼構わず側室にすれば今度はお家騒動の原因となる。
だからこそ武家の当主は、正室が選んだ女性しか側室にできない。要は側室人事部長である。例え当主本人がこの女性を側室に迎えたいと強く望んでも、正室の許可が無ければ側室にはしてはならないのだ。基本的には。
とは言え、それに従わない武家の当主もいるのがこの世の中。甲斐武田家当主 武田 晴信様もその一人だ。英雄色を好むとは言うが、父上の場合は単なる女好きと評した方が良いだろう。
何が言いたいかというと、俺の母親である諏訪御料人は、三条の方様から認められた正式な側室ではない。妾と言った方が正しい扱いだ。結果としてそんな妾から生まれた子供は、庶子として蔑まれる。
俺が生まれながらにして家中から嫌われるのは、れっきとした理由があるという話であった。元はと言えば父上の色狂いに……いや、政治的判断を三条の方様に理解されなかった。
詰まる所俺の存在は、三条の方様にとっては天敵となる。そのため俺はずっと三条の方様とは交流を持たなかった。たまに母上と共にお会いする機会があった時も、冷たい視線を投げ掛けられて一言も言葉を交わさなかったのを覚えている。
それが一体どういう風の吹き回しでこうなったのか?
「四郎殿のそういう達観した所が、私には許せなかったのです。自らの立場を弁えた上で、少しずつ支持者を増やしていくその行動力に脅威を感じたものでした。御屋形様は心配し過ぎだと何度も言ってくださいましたが、いずれは我が息子 太郎を脅かす存在になるのでは。次期当主の座を奪われるのではないかと心配していたのです。ですが東濃に赴いてからの四郎殿の行動を見て、それは間違いだったと気付かされました」
その後に「こんな狭量な私を許してくれませぬか?」と言葉を結び、もう一度頭を下げる。この言葉で俺は全てを理解できた。
三条の方様は正しく母親だったと。しかもその愛情は深い。
甲斐武田家は今でこそ父 武田 晴信様の下で安定している。しかし、先代の信虎様の頃は肉親同士で相争う泥沼な状態であった。重臣達は何を考えているか分からない。そんな不安定さから、義信兄上が家を継いだ際には俺の存在がお家騒動の元になると危惧したのであろう。
だが飛ばされた東濃の地から、俺は甲斐復帰の工作を一度たりともした事が無い。派閥を作るための多数派工作など以ての外だ。していたのは高遠諏訪家の領土拡張のみ、お家の発展のみというのだから、これは武家として当たり前の行動である。
きっと三条の方様も俺の東濃左遷に一枚噛んでいたのだろう。庶子にも関わらず、継承順位が義信兄上に次ぐ第二位なのも大いに関係していると思われる。俺がもう少し大人しくしていればこうはならなかった。我ながら自業自得だと痛感する。
「お方様、これだけは覚えておいてください。私は高遠諏訪家の当主として今後も生きるつもりです。東濃の地から甲斐武田家を支えられればそれで良いと考えています。その言葉に嘘が無い証拠として……そうですね、私の継承順位を三位に下げるというのはどうでしょうか?」
「四郎殿、それはもしかして、昨年側室の油川殿から生まれたばかりの五郎殿に甲斐武田家継承順位第二位を譲るという意味ですか?」
「その通りです。これまでは私の他に二位となる者がいなかったため、そのままにしておきました。ですが私は庶子です。なら側室の方からとは言え、新たな子が産まれれば、順位を引き下げるのは当然でしょう」
「四郎殿、貴方という方は……」
「おいおい四郎よ、勝手に話を進めるな。だが順位の引き下げか……道理だな。それに今では、四郎抜きの美濃は考えられぬ。相分かった。四郎の申し出を承諾しよう」
「御屋形様、感謝致します」
「うむ。代わりと言っては何だが、今後美濃方面は全て四郎に任せる。好きにして良いぞ」
「そのご期待に応えられるよう、精一杯励みます」
こうして俺は、思いもしなかった三条の方様との和解を果たす。元々敵視していた存在でなかったとは言え、味方となってくれるのはとても嬉しい。ありがたくその申し出は受け取らせてもらおう。
ならば、ここは追撃の場面である。一つ札を切り、より相手との距離を詰める。交渉の鉄則だ。これにより、今後三条の方様とはより良い関係を築けるだろう。
それに、この後は皆での食事会となるのだ。俺の判断はその前座としても丁度良い。申し出はを大きく場を温めた。
だが俺は見逃さない。この良い雰囲気に隠れて一人舌打ちをした者がいた事を。部屋の隅で大人しくしてはいるものの、明らかに敵意をむき出しにしている者がいた事を。
その名は
──一向宗との距離が近く、庶子でもある俺とは相性最悪の人物である。
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補足
三条の方 ─ 武田 信玄の正室。三条 公頼の次女。武田 信玄の初婚は1533年、相手は上杉 朝興の娘であったため、三条の方は継室に当たる。上杉 朝興の娘は1534年に死去した。
美人で性格も良く、仏への信仰心も厚かったと言われ、武田 信玄との夫婦仲は良かったそうだ。
ただ、武田 勝頼の甲斐武田家継承には反対しており、仁科 盛信を押していたとも言われている。これは武田 勝頼の母親が三条の方の選んだ女性ではなかったためである。1570年に死去。
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