相模北条家へのお誘い
「なんじゃお主等、その酷い顔は?」
「……船酔いを舐めてました。面目次第も……うぷっ……ありません」
木下 藤吉郎の一件で懲りた俺達は、これ以上の寄り道を止めて急ぎ船で
丸一日の休息を経て箱根にある
「取り敢えず全員に薬湯を煎じてやるから、それでも飲んで落ち着け。まあ四郎殿は、今日からここが実家になるのだから、好きなだけ休んでくれて構わぬがな」
「そ、それは一体……うぷっ……どういう意味……」
「詳しい話は体が回復してからだ。まずはゆっくりと休め」
「そうさせて……頂きます」
▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽
北条 幻庵様が相模北条家の重鎮であるのは、その所領の広大さで十分に説明できる。血筋的には先代当主
なら北条 幻庵様が相模北条家内でどのような役割をしているかと言えば、一番の特徴は他国情勢の調査である。元箱根権現別当の地位を利用した山伏や僧侶の統括は、北条 幻庵様しかできない役割だ。これにより座っているだけで各国の情報が入ってくる。
勿論役割はそれだけではなく、軍事や政と多岐に渡っているだろう。要は相模北条家の裏ボスのような存在と言って良い。
そんな裏ボスが俺を相模国に呼んだ理由はただ一つ。
「四郎殿、此度お主を呼んだのは他でもない。儂の娘と婚姻してもらい、婿養子とするためだ。儂としては、明日からでも北条の名を名乗ってもらっても構わないと考えている。いずれは所領も与えようぞ」
「えっ……」
要は相模北条家へのお誘いであった。引き抜きと言い換えても良いだろう。
数え一一歳の俺にはまだ早い婚姻も、政略結婚となれば話は別。この場合、年齢は関係無い。
「まだ一一歳の若さだというのに、母を亡くすだけではなく、父からも捨てられる。さぞや辛い思いをしてきたろうに。だが安心せえ、今日からは儂を義父と呼んでくれて構わぬからな。もう寂しい思いはさせぬぞ」
だというのに甲斐武田家事情をここまで知っている。通常同盟国内に間者を入り込ませるのはご法度だ。誰もが腹の内を探られたくはないのたがら当然であろう。それを平然と俺に明かす。
こういう所がこの時代の傑物の恐ろしい所だ。俺の事は何でも知っていると言わんばかりの態度をしつつ、その上で俺自身を欲しがる。これが何を意味しているかと言えば、
「北条様はどこまで私のこれまでを御存じなのでしょう」
「義父と呼んでくれて構わぬのだがな。そうさのう……甲斐武田家で鉄砲製造ができるようになったのは、四郎殿の助言が大きかったと知っておる程度だな。そうそう、あの作物が穫れぬ甲斐で毎年豊作が続いている地があるらしいの」
つまりは甲斐武田家内でも父上含む一部しか知らない俺の功績を、全て知っている。だからこそ相模北条家内に招聘したい。そういう話であった。
甲斐武田家は騎馬部隊が有名ではあるが、火縄銃の存在を無視していた訳ではない。実際はむしろその逆。天文の後期には既に数多くの火縄銃が甲斐国内に持ち込まれていた。
初めて大量の火縄銃が入ってきたのは天文二二年 (一五五三年)となる。数は三〇〇丁。弾薬付き。
また天文二四年 (一五五五年)の四月からは、火縄銃の国内製造にも着手をする。近習の
ここまでは良いのだが、当然ながら未知の技術が使われている火縄銃がそう簡単に製造できる筈はない。そのため、一向に成果が上がらないまま無駄に日が過ぎていくばかりであった。それを不憫に感じた俺が、傅役の
火縄銃製造の要点は大きく四つに分けられる。一つ目が有名なネジの問題。二つ目が金属同士を接合する溶接の問題。ここは鍛接を使用する。三つ目が銃身内の加工。四つ目がバネの問題となる。
最初の三点は俺の知識で何とかなった。銃身には念のため巻き板で覆うようにも書いておいたが、それもしっかりと再現する。これも全ては父上が腕の良い鍛冶職人を多く召し抱えていたからこそ、出せた成果だ。
最も悩んだのは最後のバネの問題である。この時代の火縄銃のバネは真鍮製であり、真鍮自体が明からの輸入品であった。そのため、職人の腕も知識も一切関係無い。海に面していない甲斐国で、要望通りの品をどのようにして手に入れるか。一筋縄ではいかない課題と言えよう。
しかしながらこの問題は意外な形で解決する。実は甲斐武田家には
伊勢国の商家は伊勢神宮の御師制度を利用して、各地から手広く商材を集めている。その中には当然明からの輸入品も含まれる。特にこの時代の真鍮は金と同等の価値を持つだけに、取り扱いを外す訳にはいかないのであろう。父上が好んで食べる砂糖入りの団子も、伊勢国から輸入品の砂糖を手に入れられるからこそであった。
こうして甲斐国製の火縄銃は完成したが、現在はまだ試作品の段階である。大量生産はここから先の話だ。
もう一つの農業改革に付いては、甲斐国が火山灰の堆積した地だと知っていたからこそ、土づくりを行う。豊作はその成果が出たに過ぎない。
それにしても人情に訴えながら、利を得ようとするこの強かさ。さすがは相模北条家の重鎮である。
「まだ儂で良かったと思うが良いぞ。
「ははは……今のは聞かなかった事にします。ですが北条様、そこまでご存じであれば、私が何を成したいかは分かっているでしょうに」
「確か、甲斐武田家の上洛であったな。そう四郎殿が語っておったと聞いた記憶がある。だがそれは無理筋だ。止めておくがよい。儂が武田殿であれば、重臣達を粛清してでも四郎殿を手元に置いておいた。それができぬ辺りが武田殿の限界と言えよう。それよりも、相模北条家が関東に覇を唱える方が現実的だとは思わぬか?」
「それでもやり遂げたいと言えば、どうなさいますか? 私は東濃で甲斐武田家の上洛の足掛かりを作るつもりです。左遷された当初は悲しみもしましたが、今では逆に上洛への距離が短くなったと前向きに捉えているのですよ」
「……決意は固いのか?」
「はい。必ず成し遂げます」
「はぁ……ここが儂の甘い所よな。四郎殿の顔付を見て、どこまで羽ばたくかを見とうなってしまったわ。残念だが養子は諦めよう。但し、儂の娘は娶れ。一族にはなってもらう。それと鉄砲製造と豊作の秘もここで全て明かしてもらうぞ。それまでは絶対に帰さん」
「その程度ならお安い御用ですよ。むしろ北条様と縁続きになるのは願ったり叶ったりです。勿論鉄砲の製造法や土作りのやり方もお教えしますのでご安心ください。ああ……そうか、婚姻は私の一存では決められませんね。まずは父 武田 晴信様に話を通して頂けますでしょうか?」
「良いのか!? それで!」
「相模北条家とは末永くお付き合いしたいですからね。問題ありません。むしろ相模国が豊作になったら、安値で甲斐に米を売ってください。鉄砲は……そうですね。作れるようになっても、玉薬が無ければ役に立ちませんよ。それと鉄と真鍮もですね」
「分かっておる。鉄砲製造はそこが問題よの。米の販売は豊作になってから考えるとしよう」
北条の名と領地、更には北条 幻庵様の後見。やり口は多少強引であるものの、条件だけで見ればこれ程破格な待遇はまずあり得ない。
問題は相模北条家が目を向けているのは関東である点だ。京とは真逆の方向である。これが理由で俺は興味を持てなかった。
しかしながら北条 幻庵様の娘との婚姻は、何はなくとも嬉しい。
現状の甲斐武田家は、
この件だけを見ても、甲斐武田家が歪な状態なのが分かる。
そこで俺が北条 幻庵様の娘を娶ればどうなるか? 北条 幻庵様は相模北条家の重鎮である。それだけに今後は俺を冷遇できなくなるのは確実だ。上手くすれば、俺が甲斐武田家内での相模北条派閥の領袖になれる。目には目を。駿河今川派閥には相模北条派閥を。こうすれば家中での均衡が得られるだろう。
反面派閥争いも激しくなるだろうが、それを見越して俺が東濃の地で力を蓄えれば良い。今のままの流れでは、義信兄上が当主となった際に甲斐武田家が駿河今川家に飲み込まれかねない状況だ。これを俺が何とかしなければならない。
最初は南
俺が火縄銃製造や土づくりの方法を開示するのは、そのお礼のようなものだ。どの道俺が居なくなった事で、甲斐国での農業改革は頓挫する。ならいっそ相模北条家で農業改革を行ってもらい、その成果で米の買取価格を安く抑えてもらった方が遥かに有益である。甲斐の民を一人でも多く飢えから救うには、形振り構ってられない。
勿論俺が北条 幻庵様の娘を正室とするのは、良い面ばかりではない。まず確実に嫁や侍女が相模北条家の間者 (スパイ)となる。今後俺が東濃で行う様々が筒抜けとなるだろう。だが俺は、それでも良いと考えていた。
全ては甲斐武田家による天下取りのために。それを成し遂げられるなら、俺は些細な点には幾らでも目を瞑れる。
「時に四郎殿、帰りはどうするつもりだ。船が必要なら出せる準備をしておこうと思ってな」
「ご配慮感謝致します。ですがしばらく船は懲り懲りです。高山城へは陸路で戻ります」
例え些細な点でも、船酔いだけは目を瞑れそうにない。
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補足
北条 幻庵 ─ 相模北条家の妖怪。スーパーお爺ちゃん。文化人的な人物として認知されているが、実際は諜報部門の責任者。相模北条家の軍事面・政治面・外交面にも数多く関わる重責。本質は武闘派である。相模北条家の家臣の中でも最も広大な所領を持つ。その反面、子供四人には全て先立たれた。
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