父からの文

 四日後、準備を終えた俺は、師 天桂 玄長てんけい げんちょうのいる下諏訪すわ 慈雲寺じうんじを訪ねる。そこで俺は、思わぬ人物と面会する形となった。


室住むろずみ様、どうして慈雲寺へ?」


「御屋形様の使いでな。文を四郎坊主に渡せと命を受けたのよ。それと、今のままでは四郎坊主が寂しかろうて。この爺が話し相手として、美濃みの 高山たかやま城に付いて行ってやろうと思うてな」


「私が高山城に向かう前に、慈雲寺に立ち寄るのを予想していたとは……。それが何よりの驚きです」


「今の四郎坊主には頼れる者が少ないからの。まずは師の天桂玄長様を頼ろうとするだろうと御屋形様は言っておったわ。その通りになったの」


 父からの使いとして慈雲寺にいたのは、甲斐武田かいたけだ家の最長老である室住 虎光むろずみ とらみつ様であった。この方は齢七〇を超える高齢でありながらも、今なお現役の将として軍勢を率いるパワフルお爺ちゃんだ。足腰もしっかりしていて、持病の一つもない元気さ。現在は、美濃国からの侵攻に備える役割だと聞いている。


 そんな室住 虎光様が俺を四郎坊主と気安く呼んでくれるのは、同じ甲斐武田一族の庶子という生まれが主な理由であろう。小さい頃から、何かにつけて可愛がってくれている。第二の祖父とも言って良い方であった。


 父からの使い。室住様の派遣。何となく今回の左遷の全体像が見えたような気がする。その考えを確信に変えようと、俺は父上からの文を読み進めた。


「ああ、父上には気苦労を掛けてしまったか。自業自得だな、これは」


 文には俺の予想通り、いや予想以上の内容が書かれていた。


 端的に言えば俺の東濃への左遷は、俺の身を守るための措置となる。まだ一〇歳のガキに飯富 兵部達は何を怯えているんだと思わないでもないが、理由が理由だけに致し方ないかもしれない。


 甲斐武田家はとても貧乏である。甲斐国は海に面しておらず山地が多い。その上頻繁に河川が氾濫するため、耕作可能な土地は限られている。しかもその限られた耕作可能な土地で作られた作物は、他国よりも収穫量が少ない。どんな罰ゲームかと言いたくなる土地柄だ。


 だからこそ甲斐国は人口が少ない。天文てんぶんの飢饉によって、多くの餓死者が出た影響が未だに尾を引いている。人口イコール国力のこの時代、北信濃の村上 義清むらかみ よしきよと争った際には、甲斐武田家の国力がその三分の一しかなかったというのだから、これだけで甲斐国の人口の少なさが分かるというもの。過疎化二歩手前辺りが妥当な表現と言える。


 そのお陰か、この甲斐国で日本住血吸虫症の患者を未だ見た事が無いのは、不幸中の幸いであろう。


 また甲斐国は貧しいだけでなく人口も少ないので、人頭税はたかが知れている。そもそも民が人頭税を払いたくないので、住民登録をしない。人頭税は現代の住民税の強化版であり、所得が少なくても支払い義務が生じる税だ。税を支払えない場合は、借財して支払うか奴隷落ちするかの二択となる。


 そのため甲斐武田家は、人頭税収入を諦めた。代わりに、現代の固定資産税に相当する棟別銭むねべつせんを強化する。それも他国の二倍という恐ろしい額に。当然ながら、別途年貢も徴収する。


 この時代の甲斐国は貧しい。それなのに甲斐武田家は、貧しい民からも税を無理矢理徴収する。棟別銭を安定財源と言えば聞こえは良いが、その実民の可処分所得をごっそり削る税だ。可処分所得が減れば、経済活動は頭打ちとなる。これでは貧しい甲斐国が豊かになれる筈がない。


 だからこそ俺は、父上に棟別銭の減税をお願いしていた。期間限定でも良いとして。その傍ら、新たな産物開発や鉄砲製造への助言を行っていた。


 そう、父上からの文には、この減税のお願いが原因で飯富 兵部達を怒らせたと書かれていたのだ。


 飯富 兵部達に経済は分からない。減税すれば経済活動が盛んになって、結果的には税収が増える理屈が理解できない。そうなれば俺の行動によって万が一減税がされてしまえば、自分達の収入を減らす。つまりは飯富 兵部達の力を奪おうとする行動に映ってしまった。事実減税への不満が、甲斐府中のあちこちで話されていたという。


 そこで父上は密かに重臣達を集めて、俺の東濃への左遷を伝える。余計な行動をする庶子は、甲斐から追い出せば良いと説得をした。


 母上が亡くなるまで正式な通達が出なかったのは、武士の情けのようなものであろう。病に臥せっていた母上は、余命いくばくもない状態であった。


 父上の甲斐武田家当主就任は、重臣達による一斉反乱の側面が強い。そうした経緯があるだけに父上は、いつ不満の矛先を俺に向けるか気が気でなかったらしい。


 とは言え、ここからが父上の凄い所と言えよう。飯富 兵部達に同調するフリをして、俺には東濃で減税によって領内が発展する実績を出すようにと文に記す。要は飯富 兵部達が手を出せない地で、俺に好き放題させるのが真の狙いであった。正しくは実験と言った方が良いだろうか。更にはその実験のために協力もすると。


 実は父上自身も減税によって税収が増える理論には懐疑的ではある。それでも本当にそうなら、甲斐国で導入したいと考えられる頭の柔軟さを持っていた。ここが飯富 兵部達山猿との違いである。


「室住様、内容を理解しました。そうすると今回慈雲寺に来られたのは、私の客将として高山城に来て下さるという意味ですね」


「さっきも言った通り、表向きは話し相手としておくようにな。後日儂の護衛目的で、義理の息子や家中の者、兵達も高山城入りする手筈となっておる。それと信龍のぶたつ信実のぶざねもだな。儂の役目は美濃方面の備えゆえ、待機する城が高山城になっても問題にはなるまい」


「お心遣い感謝します」


「そう言えば御屋形様から、四郎坊主に家臣を派遣するとも聞いておったわ。これで少しは賑やかになろう」


「さすがは父上。そこまで気を回して頂けるとは思いませんでしたよ」


「但し、銭は一切出さんと言うておったぞ」


「はっはは……まあ私は表面上厄介払いですから、それは仕方ないでしょう」


 加えて室住様達の滞在費や家臣の給金は、全て俺持ちであると言う。世の中そうそう上手い話は無いらしい。


 それでもこうした父上の力添えによって、俺には希望の光が見えてきた。



▲ ▽ ▲ ▽ ▲ ▽



 続いて俺は、師 天桂 玄長と面会をする。


「師よ、お願いです。私に力を貸してください」


「突然訪ねてきたかと思うと、いきなりそれか。相変わらずよの。初めてこの慈雲寺に来たのだから、例えばこの庭の松を話題にするなりの余裕を持った方が良いぞ。急がずとも拙僧は逃げはせん」


「失礼しました。では改めて、私に力を貸してください」


「……この、馬鹿弟子が」


「師よ、今何か言いましたか?」


「気にするでない。風のささやきだ」


 下諏訪 慈雲寺の住職を務める天桂 玄長様は、父上も一目置く高僧である。そんな方に俺は月に一度の割合で学問を習っていた。


 最初は前世で義務教育を終え、高等教育も受けている俺に今更学ぶ内容があるだろうかと思ったものである。だがいざ実際に習ってみると、この時代の僧の凄さに感心した。前世で習った比叡山延暦寺の生臭坊主の話は、極一部の悪例でしかない。多くの僧は真面目に学び、修行しているのが実態だと言えよう。


 師が属する臨済宗妙心りんざいしゅうみょうしん寺派の特徴は、算術であった。人々からは算盤面と呼ばれるその実力は、経理面にある。無駄を無くした合理的な組織運営を行い、ついには臨済宗の最大派閥にまで成長した実績を持つ程だ。


 驚いたのは、臨済宗妙心寺派には複式簿記が採用されている点にある。貸借対照表を見せてもらった時には目が点となったものだ。アラビア数字ではないために数値が読み辛い。現代ほどの完成度は無いと足りない部分はあるものの、この時代の学問は馬鹿にはできない。


 とは言え、これが逆に仇となっているのが臨済宗妙心寺派の面白い所でもある。帳簿がきっちりしているために使途不明金は許されない。京にある大本山への上納金が既定の額に届いていなければ、即取り立てに来る。合理的な組織運営の成果が、借財塗れの末寺という有様であった。


 俺が今回師を頼ろうとしたのは、ここにある。名目を借財で苦しんでいる臨済宗妙心寺派の僧を救うとして、財務を任せられる人材を確保するのが目的であった。高山城良い所一度はおいで。酒は美味いし、姉ちゃんは綺麗と……いや、酒や姉ちゃんは自腹で頼む。


「何だ。そういう話か。てっきり拙僧を高山城に招こうとしていたのかと早合点してしもうたわ」


「勿論、師にお出で頂けるのが一番ではあります。ですがこの慈雲寺は、甲斐武田家からの支援が入っておりますので空にする訳にはいかないでしょう。ですので師の伝手で借財に苦しんでいる末寺の僧を、美濃 高山城へと派遣ください」


「それなら任せておけ。住職になったは良いが、生来の生真面目さゆえ帳簿に手加減ができぬ僧が多くてな。きちんと俸禄を出してくれると約束するなら、二、三人はすぐにでも派遣できるぞ」


「それは楽しみです」


「こういう所だな。四郎殿の面白き所は。着眼点が他の者と違う。武家にしておくのが惜しい」


「他にも作物栽培の指導ができる方や医術の心得のある方等々、才をお持ちの方がおられましたら是非ご紹介ください。新生高遠諏訪家は、多くの才ある方を求めておりますので」


 また臨済宗の僧は、知識階級でもある。そのため、様々な学問を修めている。こういった人材は何が役立つか分からないため、突出する何かがあれば是非召し抱えたい。


 特に農学を修めている僧は貴重だ。この時代の僧の民への影響力を考えれば、農業指導の人材としてうってつけである。


「それと……」


 加えて師には父との連絡役をお願いした。


 文を読む限り、父上は俺の味方である。なら連絡の取れる手段を確保しておいて損はない。


 今回の一件によって、俺は更に甲斐武田家内での立場を悪くした。重臣は全て政敵になったと考えた方が良いだろう。この現状では俺から父上に直接文を送った際、取次に検閲はおろか握り潰されるのもあり得る。それを回避するためにも、間に信用できる人物を介するのが確実と言えよう。


 師 |天桂 玄長からの文となれば、取次も雑な扱いはできない。そうなれば、俺からの文が確実に父上の元へと届く。これで父上との協力体制が構築できる。


 いや、それだけではいずれ見切りを付けられるかも知れないか。早い段階で、父を喜ばせる何らかの成果も出す必要がある。


「まずは、この文を父へとお願い致します」


「内容を聞いても良いか?」


「父の心遣いに対するお礼と、更なる人の派遣の依頼です」


「……人が足りぬのだな。分かった。こちらも各所を当たろう」


「感謝します」


 父からは、高山城で好き放題しても良いとのお墨付きを得た。ならお望み通りそうさせてもらおう。高山城下で新たな産業を興し、その成果を甲斐国へと還元する。この関係が続く限りは、民政家でもある俺の父上は味方でいてくれる筈だ。


 少しずつ、自分のやるべき事が見えてきた気がする。


 そうと決まれば善は急げ。早速、新たな拠点へと向かうとするとしよう。



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補足


室住 虎光 ─ 甲斐武田家一族。武田 信虎の祖父 武田 信昌の庶子だったと言われている。武田 信虎からは飯富 兵部と並ぶ将だと評価されていた。城攻めが得意だったと言われている。1561年の第4次 川中島の戦いには80歳を超える年齢で参戦、討ち死にをした。


天桂 玄長 ─ 臨済宗妙心寺派の高僧。甲斐武田の一族だったとも言われている。武田 勝頼の学問の師。武田 信玄も尊敬する人物だった。多くの弟子を持つ。快川 紹喜を武田 信玄に紹介した人物でもある。慈雲寺には天桂 玄長の植えた天桂松が今も残る。

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