カミサマ
ガタン。
どこかで閉まった扉は、関係のない私の部屋すら大きく軋ませる。
眠る気になれなくてただ扉を見つめた。見つめていれば、何かが起こってすべてが解決するような気がしたからだ。
大人はどうして夜に喧嘩をするのだろう。
騒がしくすれば誰かに聞かれることは間違いないのに、示し合わせたように決まって夜に争う。
それなのに、誰かが二人の間に割って入ると急に喧嘩をやめる。
しおらしくなり、喧嘩をしていることを悟らせまいと話を切り替えて、あからさまにご機嫌な声を出す。
そういう二人を見ていると「私たちが喧嘩をしているところを見ないでください」と言われているようだ。それなのに、人々が寝静まった夜中に喧嘩をしている二人は、「見つけてください」と叫んでいるようだ。
音のしなくなった扉の先。今日は随分と短かったな、と肩透かしを食らったような気持ちでため息をついた。息を吐きだした時、初めて両肩に力が入っていたことに気が付いた。寝帰りをうち、ちらりと押し入れを見遣る。
そこには、最後の希望が眠っている。
「俺は東京へ逃げるからな。フミ、お前も辛なったら逃げたらええ。東京来たら、兄ちゃんが面倒見たるからな」
記憶の中の兄さんが笑う。ああ、逃げたろ。絶対に。いつか絶対に逃げたろ。そう思って既に2年ほど経っていた。記憶の中の兄さんは、今も鮮やかに笑っている。
。
「平野さんちょっと、一緒に来てくれへんか?」
フジくんが帰り支度中の私に声をかけてきた。
入り口付近で屯していたコジヤンが「なんやフジ!告白か!」と茶化す。幼稚な声にフジくんはいたって冷静に「ちゃう。平野さんに失礼やろ。やめんか」なんて。全く動揺もせず淡々と否定した。
「わかった、ちょっと待ってな」
必要な教科書を取って急いでカバンに詰め込んだ。そばで友達のカノが「あとで色々教えてな」と耳打ちして来て、斜め後ろのカナミからは強烈な視線を感じる。振り返るものか。というか、二人ともやかましいわ。
この瞬間クラスのすべての視線が自分に集まっているみたいに感じた。
向けられる無遠慮な視線がすべて可視化出来たとしたら、私は突き刺さって穴だらけになっているかもしれない。誰にも焦っているようには見られたくない。だからできるだけ動きは遅く、極力無表情に努めた。クスっと誰かが笑う声がして体が震える。上っ面はなんとかなっても、生理現象はどうにもならないらしい。手は汗でベタベタで、教科書をつかむと光沢紙の表紙が白く曇った。
私とフジくんはクラスメイトだから認識があるのは当たり前だ。
だけど、クラスの中心人物であるフジくんが私を認識していて、剰え私に声をかけてくることなんて、いままで一度もなかった。こんな日が来て嬉しいと思う反面、なんかこの後罰でも当たるんじゃないかって怯えてしまう。こういう後ろ向きの思考になるのは、私が根暗なのと日頃の行いが悪いからかもしれない。
私って、同じクラスの男子にも、おそらく他のクラスの男子にも多分ほとんど認識されていない、地味で印象が薄い。そんな私を学年の中でも目立っているフジくんが声をかけてくれた。それだけでなんだか、夢みたいだった。見てもらえている、と言う久々の感覚は、私をちょっとだけふらふらさせる。
フジくんは私のクラスのシュッとした男の子筆頭で、なんとなくみんなに一目を置かれている。
先生も頼りにしてるぞ、的なことをよくフジくんに口にしていた。おまけに野球部のエースらしい。そのことはそれとなくカナミから教えてもらった。
同じクラスに安藤さんという女の子がいる。
安藤さんはイケイケな女の子で、マニキュアとかをして学校に来て、よく生徒指導に連れて行かれている。おしゃれで可愛い安藤さんはクラスで男子の話をするのも全く気にしませんって感じの子だ。そんな安藤さんが、購買からフジくんがいつ帰ってきてもおかしくない昼食中に、大きな声で言っていた。
「フジくんって、大人びててかっこいいやん。この前駅のホームでフジくん見つけたんやけど、文庫本読んでて、シュッとしてたわ!」
その様子が妙にかっこよくて、安藤さんはその日からフジくんへの視線が変わったらしい。フジくんはまだ芽ばかりの花壇の中、一足先に花を咲かせてしまったチューリップみたいに、凛と目立っている。そんな、どこか大人びてるフジくんに片想いしてる子はちらほらいるらしい。
そんなフジくんと私はずっと話してみたかった。
できれば二人っきりで。だから、今日はもうほんとに記念日だと思う。
私はフジくんと二人っきりになって、聞いてみたかったことがある。
「フジくん、なんでいっつもカミサマ描くのん?」
何度も何度も頭の中で練習した言葉。フジくんは、いつもプリントや机に、至る所に「カミサマ」を描く。
今日こそ、この疑問を解消する日かもしれへん!いつもより重たい鞄を背負ってフジくんと一緒に教室を出る。動揺して不要な教科書も入れてしまったと気づいた頃にはもうフジくんは廊下に踏み出していた。
フジくんはポケットに両手を突っ込んで、私の数歩前を進んだ。その大きな背中を見て不思議と安心感を感じてしまう。
黄色い声が、私たちを包んで、私たちが動くたびに周囲の生徒の視線が追ってきているのが嫌でも分かった。ああ、これは明日には背鰭も尾鰭もついた噂話が教室を徘徊していることだろう。
そんなことをぼんやりと思った。
しばらく二人で歩いて私たちはやっと二人っきりになれる場所を見つけた。
そこは駅とは逆側に位置する公園で、ここらへんを通る学生は少ない。フジくんは公園に着くと、しばらく視線を彷徨わせた、私も同じようにあたりを見渡す。
この公園にはベンチがない。というか何もない。私たちが小学校ぐらいの頃はいろんな遊具があってお手頃に遊べる公園だったのだが、最近になって変な輩に屯されたら困る、と言ってベンチが消えて、遊具も危険だということで消えていった。
みんなが大好きだった滑り台は砂場だけ残して跡形もなくなっている。結局、最後に残った砂場も野良猫がトイレに使うから、とか言って近々撤去になるらしい。
しばらくぼんやりと立っていた私たちは、お互いそれとなく公園に唯一残っているブランコの柵に腰をかけた。ブランコはもちろんもうないので、柵だけ砂地の公園に突き出ている。
「平野さん、付き合うてもらって悪いな。この後用事ある?」
「なんもない、家帰るだけやったし。それより、どうしたん?」
どうしたん?と聞いてから、クラスの男子が「告白か!」と茶化していた声が蘇った。
「お願いしたいことがあってな…恥ずかしい話やねんけど」
まさかまさか。いやどうしよう。どんな顔して、聞いたらいいんやろうこれ。
フジくんの顔を見たい、と思うのになんとなくフジくんを見るのが怖くて、足元のローファー見つめた。右足の側面が白くなってる。いつも友達のカノに「どないして歩いたらここが剥げんねん」と言われる理由が、今ならわかる。
どないしたらここが剥げんねん。私もわからへん。
「好きな人に、手紙書くの、手伝ってほしいねん」
すぐにくだらない自分のローファーから視線を外して、フジくんを見た。フジくんは、頬をちょっと染めて自分の足元を見ている。さっきの私みたいに。
「…え、なんでわたし」
全然目論見違いの答えに思わず突っ込んでしまった。やっぱり私は日頃の行いが悪いんだなぁ、と妙に感心してしまう。変に期待してしまったけど、傷ついたり、落ち込んだりはしてなかった。ただなんか、拍子抜けというか。
「その人に手紙書きたくて、紙とペンと封筒は用意したんやけど。なんて書けばええんかわからんくて、それで卒業文集でみんなの文集眺めてたら、平野さんの文集見つけてな…お願いするなら平野さんや!って思ってん」
「素人の文集見る前に小説とか読めばええやん。夏目漱石とか、教科書にあるし。『こころ』も手紙やで」
「いや、素人がプロの真似できんやろ、まずは手の届きそうなところから…」
「理屈はわかるけど、なんか言い方がむかつく」
そのまま誉めそやしてくれればええものを。フジくんは変に正直だ。自分でも失態に気がついたのか、フジくんは慌てて続けた。
「ちゃうねん。平野さんの文集読んで、あ、この人に、この人に書いてもらったら、手伝ってもらったら、って思ってん。オレ、国語は得意ちゃうし…相手の人はめっちゃ賢い…わけちゃうけど、なんというか、大人やから。陳腐な手紙は、送れへんねん」
「…どんなこと書いたかも覚えてへんねんけど、文集」
ぼそっとつぶやくとフジくんは驚いた顔をした。それから一度口を開いて、また閉じて、ちょっと間をおいて続けた。
「ほら、お母さんの話。お母さんが、自分のこと見てくれへん、わかってくれへんってやつ」
「そんなこと文集に書いた覚えないんやけど」
「でも、なんで気づいてくれへんのやろう、って書いてたやん。オレは、平野さんの文章読んで痛いぐらい、気持ちがわかったよ。平野さんの気持ちが。そんだけ文才がある平野さんに、オレの気持ちが伝わるように書いて欲しいねん」
一生懸命フジくんが私の文集を誉めてくれた。ふつふつ、と何かがお腹の底から湧き上がってくる。それを受け止めるのも引き留めるのもできなくて、私はブランコの柵から飛び上がってフジくんの前に仁王立ちした。
「わかった、その代筆私がやったるわ」
「ほんまに?」
「うん、ほな、契約の証に」
ずい、っと私はフジくんの前に手を出す。フジくんはしばらく私の右手を眺めて、「よろしく」って恐ろしく小さな声で囁くと、私の手をハイタッチするみたいに弾いた。握手を求めていただけに、私はしばらく自分の弾かれた手を呆然と見つめてしまった。すると、フジくんが「部活行かなあかんから」と言って去っていったから、その背中も呆然と眺めるしかなかった。
なんとなく拒絶されたような気がして、早々に代筆を受け入れたことを後悔しながら歩き出す。
まだ青い空は薄暗く、夕暮れの気配がして少し寂しそうだ。
何もない公園を出て学校の前を通り過ぎ、帰路に就いた。
いつもはカノとカナミ、その他大勢の生徒と下校するので、ひとりぼっちの今日は少し心細かった。
かわいいわけでもおしゃれなわけでもない制服はみんなで着ているとスイミーの赤い魚みたいに、強くて大きく感じる。なのに一人きりになった途端、すべてに狙われている小さな的みたいになる。カノとカナミに挟まれている時、周りの誰かに見られていても気にもしない。でもたった一人で歩いていると、行きかう大人全員に怒鳴られるんじゃないかって怖くなる。
学校を通り抜け、十字路を東に進んで、大通りを渡って、スイスイと進む。こうしていると自分は歩いているんじゃなくて、逃げているんじゃないかとすら思った。
町は大きな口を開けて、私の個性を奪っていく気がする。
だから一分でも一秒でも、歩いていたくない。学校や家ではそんな風に思うことはないのに、不思議だ。カノとカナミに挟まれている私は、世界にたった一人の私で、誰かが私を間違いなく識別できると思える。それなのに、町で制服を着て歩いているとき、自分は取って変えられる、何者でもない存在なのだと思わされた。
そんなことを当てもなく考えているとあっという間に集合住宅にたどり着いた。一人の時、私は心底後ろ向きだから、私は私と過ごす時間が嫌いだ。
カバンの中から鍵を探す。それはいつもカバンの外側のファスナー付きのポケットに抜き身でしまっているので、毎回ドアの前でポケットの中身を引っ掻き回さなくてはいけない。
私は決してファンシーで丁寧な女子ではないので、いつだって抜身のキーで、なかなか見つからない時は「無くしたんちゃうか」ってちょっとひやっとする。友達の中でもカノなんかは、かわいいキャラクターの描かれたキーホルダーに鍵を閉まっている。
前にお家に招いてもらった時なんか、玄関でアタフタする時間もなく、スッとキーホルダーを出して、スッと扉を開けた。カノは私みたいにアパートに住んでいなくて、2階建てで小さな庭のついた一軒家に住んでいる。そういうのカノを見ていると、無意識にでも自分の「家」というものを、大切にしている感じがして、なんかちょっと鼻につく。おまけにカノのお母さんは、帰ってくると早々「手洗ったー?」と聞いてくるのだ。カノが当たり前みたいな顔をして、私たちを洗面所に連れていく時も、「いまおやつ用意するからね」とカノのお母さんが笑った時も、私は居心地が悪くて帰りたくなっていた。
がさがさ、とそんなに大きくもないポケットの中を弄って、キーを探す。冷たい感触を指先に感じて、急いで鍵を引っ張り出した。片手に鍵をもち、ドアノブに差し込み、大きく深呼吸をする。
玄関前は不思議と気を張ってしまう。
今日この玄関ドアを開けたら、全く知らない家族の元に繋がってるような気がする。いや、またいつもの、自分の家族の元に帰るほうが、怖いかもしれない。
玄関前でなにをぐずぐずしとんねん。アホみたい。深呼吸をしてできるだけ大きな声を上げた。
「ただいまぁー」
勢いよくドアを開けた。私はいつも「ただいま」のタイミングがわかない。ドアを開けてから言うのか、ドアを開けて玄関に入ってから言うのか。靴を脱ぎ始めてから言うのか。何が正解なのか全くわからない。
すぐに部屋の奥からおかんの足音がして、玄関におかんが現れた。
「おかえり、学校どうやった?」
「普通やで。お父さんは?」
「まだ帰ってきてへん。お腹は?空いとる?今日、餃子やで」
「…まだあんまり空いてへん」
おかんは私の返事を聞くと「そう」と短く切り返し、そのまま素足でドスドス音を立てながら、台所へ戻っていった。おかんの背中は暗くて、窓のない暗い廊下の中に消えていくように思えた。
さっきのは実は嘘。ほんまはめっちゃ空いてた。どれだけお昼ご飯を食べても、放課後には不思議と腹が減る。だから、ほんとはなんでもいいからなんか食べたくて仕方ない。家に帰ってきてまず真っ先に「おやつあるよ」と言われたら間違いなくがっついていただろう。だからカノはちょっとぽっちゃりしているのかもしれない。
うちのおかんは「手を洗っておいで」も「おやつあるよ」も言わない。家に帰ってくると、真っ先に「今日の晩御飯は○○です」と宣言してくる。食べたきゃ食べてけ、食べたくなけりゃ我慢するんだな、とでも言いたげな不遜な態度で告げていく。何が出てくるかは事前に報告されるのに、何時から準備され、何時から食べ始めるのかは告知されないのでいつもおかんのタイミングで「ご飯やで」と招集される。
それは19時の時もあれば21時の時もあり、本当に予測不能だ。
でもどんなにお腹が減っていても、ご飯が餃子の時は不思議と食欲が失せる。餃子は兄さんの好物。お父さんも私も別に餃子は好物ではないから、母さんは今日も兄さんのために晩飯を作ったらしい。この献立ではお父さんも今日は外でご飯を食べてくるんだろうか。あるいは帰ってこないかもしれない。
別に親に手ひどく殴られたり、暴言を吐かれたりしてるわけじゃない。
おかんは毎日ちゃんとご飯を作ってくれるし、ほしいものはほどほどに買い与えてもらっている。
それでも私は、家族が嫌いだ。
ああ、誰か助けだしてくれへんかな。兄さんは2年前、家を出ていった。それっきり連絡も寄越さなければ顔すら見せない。それでも、おかんは晩飯にときどき餃子を作る。
それはお供えものみたいで、ちょっと不気味だ。
。
「好きです、付き合ってください。そう書いたらええやん」
「あかん。目標は付き合ってもらうことやなくて、俺の気持ちを持っててほしいってことやん」
「恋文なんて書いたことないから用途なんてわからんし」
「用途は告白やで」
「やったら好きです、付き合って、でええやんけ」
「ちゃうちゃう、どこが好きなんか、なんですきになったか。例え告白してダメになっても、あなたは素敵な人なんですよ、って知っててほしいから、持っててほしいから、手紙を送るんやん?」
次の日から私たちは昼休みに誰も使ってへん旧校舎の階段の踊り場に集まって、ひたすら恋文を練った。
「そんなん、私その人と会うたこともないのに、書くん無理や。フジくんが思い出話してくれへんと」
「思い出話なんて…!こう言うんはうちに秘めて大切にするんがセオリーやろ!」
「恋文やって自分で書くんがセオリーやで。おら、自分でかくか?」
「…わかった、話す。話すから、書いてくれ平野」
もう恋文書かへんよ、と言うとフジくんは明らかに塩らしくなり、従順になった。尻尾を垂らした犬のように項垂れて、フジくんがぽつり、ぽつり、と好きな人の話をする。
フジくんの坊主の頭は刈りたてて気持ちいのか、フジくんは何度も自分の頭を大きな角ばった手で撫でた。
フジくんの好きな人は「優子さん」というらしい。
優子さんは、いつも囁くように話すそうだ。喉で想いを砕きながら少しずつ少しずつ、ゆっくりと、囁く。例えばこんなふうに、優子さんは話す。
「別に鼻がな、ええわけやないのに、時々駅のホームとか電車の中とか、道で誰かとすれ違った時に、その人の匂いを強く感じることがあるねん。
その人のシャンプーの匂いかも知れへんし、その人の香水かもしれへんし、汗の匂いとか、ただの体臭かもしれへんねんけど、なんか誰かの自分とは違う人の匂いがするやん?そう言う時に、もう強烈に切なくなるねん。
その人の匂いすら知っとるのにその人と……赤の他人であることが悲しくて仕方なくなる。
時々な、通りすぎる人の手を無差別に握って、愛してるよ!って言いたくなる。その人のことぎゅっと抱きしめて、もう大丈夫やでって言いたくなるねん。
むっちゃ臭い人でもええねん。
とにかく、私と一瞬通り過ぎた人の手を握って、引き寄せて抱きしめて、愛してるよ、って伝えたなるねん。
でも、もしかしたらそう考えてるのは、私がそうしてほしすぎるからかもしれへんな。うちなぁ、寂しがり屋やねん。フジくん」
優子さんとフジくんがどうやって出会ったかは知らない。
でも、優子さんはいつもタバコを吸っていることは知っている。吸っている銘柄だって知ってる。それは「あかのまるぼろ」と呼ばれるブランドで、優子さん曰く…。いや、フジくんから聞いた優子さん曰く、「あかのまるぼろ」を吸った後「セブンイレブンのソフトクリーム」を食べると「メロンソーダの味がする」らしい。
「そんならメロンソーダ飲めばええのに、アホな人やなぁ」
フジくんと別れたあと、教室への帰り道で、私はそう呟いた。ひとりぼっちで。
。
家に帰ると、おかんが泣いていた。
滋賀の実家に電話をしながら泣いているようで、か細く何度も「おかあさん」と囁いているのが聞こえた。
優子さんもこんなふうにフジくんに囁くのだろうか、ってふと思った。
おかんの囁き声は、私の柔らかいところを、何度も深く刺していく。
「お母さん、私もうあかんわ。この家にいると苦しくて苦しくて…」
喉元で気持ちが潰れてしまうのかもしれない。
粉々になった想いは、息も言葉も捕らえて、うまく音にできなくするのだろう。
おかんは「お兄ちゃんもう帰ってこーへん」と私に教えてくれた時も、今日みたいな掠れた囁き声を出していた。
私はおかんを通して初めて、人は本当に大切な話をするとき、とても小さな声を出すのだと知った。
そしてその声は怒鳴られたり、平手打ちされたりするよりもずっと深い傷をつける。私の、柔らかくて、誰も触れていないところを。
その日は晩ごはんがなかったので、お母さんとピザをオーダーした。お父さんは深夜ごろに帰ってきて、お母さんと言い合いを始めたので、私は音楽を聴いた。
家族の諍いは軽いJ-POPじゃ防ぎきれないから、私はメタルを聴くようになった。
私がメタルを聴いていると知ると、おかんは「不良の音楽やで」と顔を顰める。
。
その日フジから聞いた話はこんな内容だった。
優子さんはその日も「あかのまるぼろ」を吸っていたらしい。赤いドレスにはお酒のシミなのか、そういうデザインなのか、胸元の一部の色が濃くなっていた。
乱れた髪の毛をかき上げて、優子さんはフジくんに疲れた笑顔を見せて、話した。
「最近、オフィスで仕事をしている時、ふと立ち止まって窓の外を見て唖然としちゃうねん。
外は結構天気が良くて、あったかそうで、キラキラしてるのに、私は外に出れへんねん。
オフィスの中で、寒かったり暑かったりしながら黙々と液晶画面を眺めて仕事すんねん。そういえば学生の頃も、明るい窓の外を眺めて早くあそこで遊びたいって思いながら、我慢して勉強してたなぁって思いだしたんよ。
気がついたらまた学生の時と同じように我慢してんねん。
そう言う時、もう我慢ならんくなる。
明るい日差しの中で、のんびりと体を温められながら散歩したり、空を眺めたり、誰かと話したりするために、生きてるんちゃうんか、って。誰かに、これは間違ってるやろ!って怒鳴りつけたくなるねん。違うやろ!間違ってるやろ!って叫びたくなるねん。
ずーっと頑張って働いてる係長とか、手際いい先輩とか、最近入ってきた新卒の子とかに対しても思うねん。
今のお店のママとか、他の女の子たちにも思うねん。
夜の蝶とか、華やかとか言われてるけど、そんなことより、私ら太陽の下で仲良くあったかい日差しを浴びて生きるべきやろって。
どうしても、どうしても、そうやろ!って訴えかけたくなるねん」
その日は、授業中全く集中できなくて、私はぼんやりと外を眺めて過ごした。
校庭は太陽の光を受けて、キラキラと光っている。外は確かに暖かそうで、輝いていて、私は優子さんのことを思わず考えた。
オフィスの中から、窓の外を眺めて「違うやろ!」と心の中で叫んでいる、優子さんのことを。そして、ふとフジは何をしているのだろう、と気になった。
フジも案の定、外を眺めていた。その横顔からは感情を読み取れないけれど、やっぱり優子さんのことを考えているのだろうと思った。
じわっと突然心臓あたりに火をつけられたみたいな痛みが走った。近頃この手の痛みには慣れてしまった。
フジはいつものように表情が読めなくて、絵が描かれる前の画用紙みたいだ。
あなたの思い通りですよ、というような澄ました表情で鎮座している。こちらの様子を明らかに伺いながら、でも流れに身を任せている感じがする。
突然心臓の辺りに火をつけられても、私は悲鳴一つ上げない。
もうこんな痛みには慣れっこなのだ。私は選ばれない、私は見てもらえない、私は「誰かの」代わりにしかならないのに…結局その代わりにすらなりきれない。
その事実は生きている限り毎日突きつけられる。
カノとカナミが先に帰ってしまった時。ひとりぼっちの帰り道の時。玄関でただいまを言うのに躊躇する時。家に帰って晩ごはんが餃子の時。メタルを爆音で流す時。それでも怒られない時。夜中の両親の喧嘩の声に耳を澄ます時。フジが他の誰かを好きなのだと実感する時。
それとなく事実として突きつけられる。
「お前じゃない」と言うことを。
だからなんとなく諦めてしまったのだ。何かに対してぬか喜びするのも、状況を自分の都合の良いように変えようとするのも、全部無駄だと感じる。
諦めた態度というのは生活の節々に現れた。
答えがわかっていても手を上げない。遊びに誰かを誘うことなんて滅多にない。好かれているのに、それ以上好かれようとしない。帰宅時、前もって一緒に帰ろうと言われなければ一人で帰る。いつも受け身で、誰かに流されるのを待っている。
フジも同じだと思った。
フジも「求めても意味がない」と思っているように見えた。求めたらなんでも掴める両腕を持っていて、それでもなお「意味がない」と思っていそうなフジは、なんかムカつく。
もしも、フジがそう思う理由が優子さんにあるのだとしたら、私は、優子さんのことをこれっぽっちも好きにはなれない。もし、本当に優子さんのせいでフジが、好かれることを諦めてしまっているのだとしたら、今までの「この人いい人だな」と思った気持ちも全面撤回させてもらおう。
そして優子さんを、世界で一番嫌いになってやる。
。
その日聞いた、優子さんの話はこんなものだ。
優子さんはその日もいつも通り、お酒の匂いのする声で話した。
か細くて、フジが顔を寄せなければ、その声は聞こえなかったと言う。それで、フジは初めて優子さんの唇の柔らかさを知ったらしい。
「この前なお客さんに電話かけたら、お子さんが出てん。
私てっきり大人が出ると思ってたから、突然小さな子どもの声で話されて、ほんまにびっくりした。
知ってた?フジくん。
子供の声ってな、電話越しに聞くと、ほんまにまあるい響きすんねん。ほんまにまあるくて、優しい響きやねん。
私がな『お電話口にいらっしゃるのは大谷さんでしょうか?』って聞いたら、その子な『あなた誰ですか?』やって!
そんな口の聞き方を社会人がしてたら怒られるで!って思ったんやけど。でもその子は子どもやから。愛されてるから、だから、大丈夫やねん。
そう思った時、ほんまにほんまのほんまに、ああ、よかったって思った。その子に『お父様呼んでいただけますか?』って聞いたら、保留にもせーへんで『ぱぱー!知らん人―でんわー』って叫んでて、あんまり声大きいから鼓膜壊れるんちゃうかと思った。
でもな、ほんまにその子が愛おしくて、愛おしくて仕方なくて。
お客さんが電話を取る前に切ってもうてん。
もう涙が、だらだら溢れて、止まらんかったから、受け答えなんて、できへんねんもん。
私な、その時ほんまに思ってん。
その子がずっと誰にも怒られへんでほしいって。その子が大人になっても、仕事かなんかで粗相をした時も、言葉遣いがなってなくても、うまいこと生きていかれへんくても、誰も絶対に怒らんといてって、思った。
ほんまの、ほんまの、ほんまに、そう思ってん」
。
2冊目の惚気ノートを取り出し、シャープペンシルを握り、汗を拭った。
最近私とフジは交互にお菓子を持ってきている。ほんまはお菓子を学校に持ってくるのはあかんけど、筆箱の中までは見られへんから。細長いお菓子を無理やり筆箱に押し込んで持っていく。
今日は私がお菓子を持ってきた。
ルマンドだ。小さな筆箱に押し込んだせいでルマンドは例の如くボロボロやった。しかも、この暑さのせいで若干溶けとる。それでもフジは「やった、ルマンドや。豪華やな」と喜んでくれた。
「そういえば、フジって、優子さんとどうやって出会ったん?」
「その話、俺まだしてへんかったっけ?」
「うん、全く聞いてない」
「そうかぁー」
お昼に集まって優子さんの話をするのが、すでにいつもの流れになり始めている。夏休みが空けて、久しぶりに登校してきた学校は暑くて仕方ない。クーラーもない古い校舎はただでさえ灼熱の地獄だ。
その上、風の流れない踊り場はレンジの中のようで、流石に死んでしまうという。そんなわけで、私たちは珍しく校舎裏の小さなベンチに移動していた。蚊の気配がして、ずっと気が気じゃない。
「夜遅くにコンビニ行ったら、毎回喫煙スペースにおんねん、優子さん」
「夜遅くってどれぐらい?」
「2時とか3時」
「ほんまに夜遅くやな」
パタパタ、と制服を仰ぎながら受け応えると、同じように制服を仰ぐフジが、首に巻いたタオルで汗を拭った。
「優子さん、どっかの夜のお店で働いているらしいねん。行ったことないけど、いつもめっちゃメイク濃くて、綺麗な服とハイヒール履いとる」
フジから優子さんの話を聞けば聞くほど、私も優子さんのこと「ええ人やな」「好きやな」って思っていく。だけど、同時にフジが優子さんを語る時の表情や言葉選びに触れるうちに、墓穴を掘っているような気持ちにもなった。
その上、ちょっとした受け答えの楽しさや、一緒にいる居心地の良さを感じるものだから、楽しさと同じ分痛みが伴った。
内側から握りつぶされるような痛みだ。
体が誰かの力で折り曲げられそうになっているような、強い痛み。いや、むしろ内側から心臓を焼かれてしまう感覚に似ているかも。どちらにせよ、ひどい痛みだった。
そういう痛みに駆られてうまく返事ができなくなることが、最近はちらほらあった。
けれど、どんなに痛いのも苦しいのも、顔に出にくいみたいで、フジは全く気づいていない。この痛みに音をつけるとしたら、どうなるだろうか。じくじく。ちくちく。ぐらぐら。ぐつぐつ。色々考えてみたけれど、思いつかなかった。結局本当に痛い時の感覚を、私はうまく説明することができない。最適な音も見つからなければ、どこが傷んでいるのかもピンポイントで指摘できなかった。
痛みは不明瞭なのに、いつだって他のどんな感情よりも明瞭に私を痛めつける。
「ほんであかのまるぼろ、吸うてんの?」
「そう。ときどきコンビニにおらんこともあるけど。大体おんねん」
「それってお店繁盛してへんのちゃう?」
「さぁ?よく知らん。…優子さん、元々お店でタバコ吸ってたらしいんやけど」
「そうなん?」
「うん、最近やってきた新人の子がな、タバコ嫌いやねんって。やから、優子さんお店で吸いづらくてコンビニやってきたらしい」
「追い出されてるやん」
「まぁ、期待の新人らしいねん。その女の子。あ、新人のことな?その子、めっちゃお客さんを連れて来てくれるんやって。シャンパンもばかすか入れるらしいわ。やから、頭上がらへんって言ってた」
「えー優子さんなんか、全然あかん感じやん」
「そう、でもそれでええと思ってる俺は」
「なんでよ、困るやん。優子さんの収入源やねんで、夜のお仕事」
「俺が大人になったらたくさん稼いで幸せにすんねん、優子さん」
「大人っていつ?」
「高校卒業したら、どっかに就職して、優子さんと二人暮らしすんねん」
フジのいきなりの告白に「えっ」とあからさまに驚いた声を出してしまった。フジは本気も本気なのか、握りしめた自分の拳を眺めて、決心するように深く頷いている。こんなところで、そんな決心するな。
蚊がまとわりついている気がして、私は足を適当にパチンと叩いた。
「ええの、そんなん?親とか納得するん?」
「俺の人生やん、構わんって」
あれ。
フジは意外にもそこらへんの子と同じように、あからさまな反発心を持って親と対峙しているのか。
言い放ったフジの言葉には、確かな熱を感じた。あの諦め切った、「二番手でいいですよ」というようなフジのいつもの態度からは信じられない熱を。「俺の人生やん、構わん」という言葉は無責任で、無鉄砲で、少し私を傷つけた。
フジも案外普通の男の子なのかも。私が期待していただけで。
すーっと、心の中が冷えていく。私ってほんまにアホみたい。もう期待なんかしてへんって思っていたけど、やっぱり期待していた。自分がほんまに情けないと思った。
「遅くまで出歩いて、親心配せーへんの?」
「せーへんよ。絶対。」
その声は断固とした響きがあった。
。
「お母さんのために、お父さんを止めて」
メソメソ大の大人が泣いているのを、見慣れている子供が世の中にいてもいいのだろうか。
私はじっとお母さんを見つめる。あなたならできるから、と背中を押されても、両足は固まったみたいに動かない。
「お兄ちゃんが可哀想じゃないの!?」
ヒステリックなお母さんの声で責め立てられて、やっとのことで両足が少しだけ前へ進む。
進むべき場所はリビング。
リビングってあったかい響きなのに、私にとっての「リビング」は「リング」だった。
リビングは、お父さんが兄さんを殴っている場所だ。
お父さんはお母さんや私には手を出さないのに、兄さんのことはすこぶる殴った。
兄さんが赤い血を鼻や眉頭から出しているのを見るたびに、私は「自分が悪いんや」って思った。
私が、女の子に生まれてきたから、お父さんは殴ってくれへんのや。
私も男の子やったら、兄さんと一緒に殴られて、痛みを分かち合えたのに。私が女の子なのがいけないんや。
お母さんが私に「お父さんを止めて」と叫ぶ。
「お兄ちゃんがかわいそうじゃないの?」って責め立てる。
その声を聞いて、私はいつも混乱する。
止めたいよ。
兄さんがかわいそうやって思ってるよ。
わかってほしかった。お母さん、私ほんまにかわいそうやって思っとるよ、お父さんのこと止めようって思っとるよ。やけど、お父さんは大きくて、怖くて、殴られるのは痛そうで、私は怖かってん。
ほんまのほんまに、怖かってん。
「あっち行ってろ!!」
椅子がぶん投げられる。私のすぐ脇を木製の椅子がすり抜けて、壁に激突する。ダイニングテーブル用にと購入された、家族4人分の木製の椅子の一つ。家族一人一人の椅子が決まっていた。
投げられたのは私の椅子だった。
それは、お父さんが私に向かって投げたせいで立て付けが悪くなってしまって、今ではもう使われていない。私はもともと兄さんの定位置だった椅子を使っている。
椅子を投げられて私はまた動けなくなった。お父さんは喚いて怒鳴って、あっちいけ!というけど、私は動けない。怖くて動けない、足が動かない、だから私は腹を括った。
一緒に殴られない代わりに、ここで兄さんが殴られているのを見るのが自分の使命だ、となぜか漠然と思ったのだ。
「あっちいってろ!何度も言わせるな!」
呻いて床に倒れていた兄さんが私を見上げて、視線が合った。それだけでわかった気がする。不思議だけど、ときどき兄さんに対して私はそう思うことがあった。
わかった、わかったよ、と。
何も言葉はないけれど、空気感や目線でわかってしまうのだ。何を理解したの?と聞かれたらうまく答えられないけれど。
でも、私はわかった、と思う。
同じ親の元、子供として生まれてきて、私たちは兄弟以上の何かの繋がりがあったように思う。「二人でこの戦場を生き延びよう」というような、強い価値観の共有。
お父さんの癇癪を、母さんのヒステリックを、不足する愛情や優しさを二人で補い合って、なんとしてでも生き延びて、耐え抜こう。
私たちは兄弟である前に多分同志だった。
必死に戦っていた、二人で。二人きりで世界全部と戦っている気がした。
だから、私は兄さんが私を置いて家を出ていってしまったのが、本当に許せなかった。
。
期末テストがもうすぐということで、部活動は自粛となり、夜遅くまで部活に徹する生徒たちもみんな定時帰宅が求められている。
その報告を受けて、普段フジと連んでいる坊主の野球部たちは「放課後遊びに行こうや!」とはしゃいでいた。
期末テストの勉強のための自粛だというのに、すでにその情報は頭から抜けてるらしかった。
「あーすまん。俺、用事あんねん放課後」
「なんやフジ、ノリが悪い!」
「俺らよりも大事な用事ってなんやねん!」
「女か!」
「お前最近彼女できたんちゃうか!お昼もおらんし」
「ちゃうちゃう、そんなんちゃうって」
用事ってなんやろう。1限目の準備をしながら片耳でフジたちの会話を聞いた。お昼休みに聞いてみよう、と心に留めておきながら。
その日もフジは、優子さんの話をした。
「優子さんはお水が大嫌いやねん。飲むと喉乾くねんって。うんなアホな!って思うやろ?けどな、優子さんはほんまにお水には一切手ェ出さへんねん。お水は喉乾く言うのに、ビールも、焼酎も、日本酒も、ワインも喉潤うらしい。常識的に考えて、ぜったいありえへんやろ。優子さんお酒飲む時はな、チェイサー頼まへんねんって」
「チェイサーってなんなん?」
「お水のこと。お酒と一緒についてくる時、チェイサー言うねんって」
「へーそうなんや。フジのせいで私いらん知識ばっかり増えんねんけど」
笑いながら書いていたからか、「酒」の漢字を間違えてしまった。消して改めて「日本酒」と書いた。ワイン、焼酎…と書きながらそれらがどんな味のする飲み物なのだろう、と想像する。
お父さんがよく飲んでいるビールを、何かのお祝いの時に飲ませてもらったことがあるけれど、ひどい味だった。ビール以外のお酒はどんな味がするのだろう。
どれもビールぐらい酷い味なのだとしたら優子さんは、自分のことが嫌いなのだろうか。わざわざ不味いものを飲んで、体に悪いタバコを吸って、楽しそうでもなければうまく行ってもいない仕事をして、フジとコンビニの前で話す。
その人生を、優子さんはどう思っているんだろう。
私の人生を、優子さんがもし目の当たりにしたら、なんと言うだろう。
どんな感想を言ってくれるのだろう。
シャープペンシルを筆箱にしまった。昼の時間もあと少しで終わりだ。
「なぁ、フジ今日なんか用事あるん?」
「放課後か?そうやねん」
「どこいくん?」
「お墓参り」
言葉を確かめるように一度間を置いてからフジは続けた。
「弟の」
そのあと日常に戻るのはとても大変だった。
私はフジの告白を上手に受け止めることができなくて、そのまま無言になってしまった。フジは私の沈黙をそっと守って、予鈴が鳴る前に「先クラス戻るわ」と言って去ってしまった。
本当は止めたかった。フジ待って、ちゃんと話を聞きたいよ。
ごめんね、大丈夫なの?と色々聞きたかった。
弟って?一人っ子じゃないの?いろんなことを聞きたかったけれど、何を聞いても傷つけてしまう気がした。
お墓参りの話をしている時、フジはすでに傷ついたような顔をしていたから。私は全て間違えてしまったのだと思った。
優子さんなら、フジの欲しい言葉が言えたんだろうか。
あ、ああ。あああ!
思いっきり叫んでしまいたい!
わぁ!!!!
私は立ち上がったり座り直したり、また飛び上がったりしてジタバタ悶えた。思いっきり手に持っていたノートを地面に叩きつけて、砂まみれになったノートを取り上げて胸に抱えた。
ああ、あああ!私ってバカだ!大馬鹿だ!私はフジを傷つけた!
わぁーわぁー!としばらく一人で悶絶していると突然何かが視界に入った。
「カミサマ」だ。フジくんが描く、歪で薄くて変なカミサマだ。
それを目に留めた瞬間ボロボロと涙がこぼれた。
。
「前にワークシート回収して提出頼むでー」
適当な教師の声が教室に響く。私は前から2番目だからワークシートが届くまで時間がかかる。その間にもう一度一通り解答に目を通してミスがないかチェックしていた。
「平野さん」
振り返ったらワークシートがもう私の元までやってきていた。後ろの席に座るフジくんからワークシートを受け取り、自分のシートを重ねる。その時に、目に入ってきた。
「なんじゃこりゃ」
思わず声に出てしまった。
振り返ってフジくんを見つめたが、フジくんはぼんやりと外を眺めていて、私の独り言には気づいていないようだ。
私は今一度渡ってきたワークシートを確かめる。
「カミサマ」
その「カミサマ」は歪で、本当にかろうじて「人間」だとわかる程度のへたくそな絵だった。目つきは悪そうで、アホそうで、交番に乗ってる指名手配犯の似顔絵みたいだと思った。私が時々教科書に描く落書きの方がよっぽど上手だ。
「平野さんワークシート」
「あ、ごめん」
前の席の安藤さんに促されて私は慌てて自分のシートを重ねて束を手渡した。
なんやったんやあれ。
初めて「カミサマ」と出会った時、そう思った。なんじゃこりゃ、なんでこんなもんプリントの裏側に描いてあんねん。
そのプリントは一学期の時、私の後ろに座っていたフジくんのものに間違いなかった。最初はフジくんが誰かに悪戯されたのかとおもっていたけれど、フジくんを観察するうちにわかった。
あれはフジくん本人が描いている。
フジくん、絵が下手なんだ。驚きだった。なんでも完璧にこなしている印象があったから。
そもそも「カミサマ」がかろうじて人を模した何かだとわかったのは、フジくんが律儀にイラストの下に「カミサマ」と描くからだ。
裏返したプリントの右下に描かれた歪な「カミサマ」は、一度見つけると至る所にあることに気づいた。
渡り廊下の壁、男子トイレと女子トイレの間の柱、用具箱の端、フジくんの机の上。
本当に薄く描かれたそれは、ちょっと人が擦ればすぐに消えてしまう。よくこんなところに、と思うぐらいありとあらゆる場所に「カミサマ」は、ひっそりと存在していた。
なんでこんな絵を描くのだろう。
フジくんは絵が好きなわけではなさそうだ。実際、「カミサマ」以外の絵を描いているところは見かけない。
絵を描くのが好きな子は日誌にも、ワークシートにも、自分のノートにも落書きを描いているけれど、フジくんの「カミサマ」はそういった落書きとは違って見えた。
正直、お経のようだったし、敬虔なクリスチャンが手に握る十字架のようにも感じた。
それは「助けて」といっているようでもあって、「どうか助けないで」と言っているようでもあった。
。
「カミサマ」「弟」「お墓参り」点と点がつながっていく。
けれども、その線は全く見当違いで、実は全くつながっていないとも考えられた。
私は「わかった」と思うことがあるけれど、「わからない」と思うこともたくさんあった。
それは例えば、今日、フジに対して思う時もそうだし、両親に対してもそうだ。わからない、と思う。でも、わかったよ、全部わかったの、とも思う。でもやっぱり最終的にはやっぱり何もわからない。
私がフジと出会うまでの時間があった。
その時間をフジは生きて来た。
私がお父さんとお母さんのもとに生まれる前の時間があった。
その時間を、二人は生きて来た。
兄さんには、一人息子として生きた時間があった。
ひとりぼっちで戦ってきた時間が合った。
友達のカノやカナミにも時間があった、人生があった。
安藤さんにもコジヤンにも、優子さんにだって、時間があって各々の人生があった。
私の知らない時間が流れ、私の知らない人生がある。みんな生きていた。
それが時々ゾッとするぐらい怖かった。
フジには、弟がいて、その弟は今お墓に眠っている。
そんな経験を経て、フジには世界がどんなふうに見えるんだろうか。
優子さんは?優子さんはどうして夜の仕事をしているの?
そして、どうして、水が飲めなくなったの?どんな暗くて、切なくて、大切な"いままで"があったんだろう?
知りたいと思う反面知りたくないとも思う。
一緒に過ごさなかった過去は、私がどうやっても知ることのできない。その事実を伝えられることは、「あなたと私は違う」と言われているようで怖かった。
制服で町を駆け抜ける。
その街にはたくさんの、たくさんの人が住んで、生きていた。
私は優子さんの惚気ノートだけを丸めて握ったまま走った。
走って走って走った。
口の中が血の味がしても、ノートが風に煽られてぐちゃぐちゃになっても走り続けた。
気がついたら集合住宅の前にいて、私はポストの裏に貼ってある、緊急用の隠し鍵を使って家に入った。
お母さんは運良く家にいなくて、アパートの中はがらんとしている。
自分が何をしたいのか、全くわからない。気が動転していて、家に着いてから「しまった」と、焦り始めていた。もうすぐ大学受験を控えていて、内申点はかなり重要なのに、我に身を任せてこんなことをしでかしてしまった。
体の底が冷えて、胸あたりに穴が開いているような気持ちだ。
けれど、ここまで来てしまったのだから、最後まで行かなくては。
変な責任感が私をまだ突き動かした。
なんだか悲しくて、寂しくて、心細くて、体の内側から破けちゃうんじゃないかと思った。
心は実体がないくせに、体のいたるところを痛ませることができる。
それとも私が特殊なだけなんだろうか。
悲しくて張り裂けそうになる女なんて、後にも先にも私だけでいて欲しい。
だけど、どうしてだろう。優子さんだけは、わかってくれる気がした。
なんたって「あかのまるぼろ」を吸った後に「ソフトクリーム」を食べると「メロンソーダ」の味がすると言う、水の飲めない女の人なんだから。
「ちゃうちゃう、どこが好きなんか、なんですきになったか。例え、告白して、ダメになっても、あなたは素敵な人なんですよ、って知っててほしいから、持っててほしいから、手紙を送るんや」
そうか。恋文とはこう言う時のためにあるのか。
気がついたら手にペンを持っていた。
ペン先は濡れていて、今にも言葉が溢れて来そうだ。
私は黙ってそれを真っ白な画用紙に滑らせた。
私がフジと出会うまでの時間があった。
その時間をフジは生きて来た。
いま、私とフジが出会った時間がある。
その時間を私たちは生きている。
これが愛おしいということなんだと、私ははっきりと「分かった」気がした。
。
「俺な、3年生になったら髪の毛伸ばすねん、ずーっと坊主やったから、めっちゃ楽しみ。最近なんてな、ワカメ大量に食べるようにしてんねん」
目を輝かしてフジは話す。
どんな髪型がええやろうか、と男性のファッション誌まで持ってきた。
フジは22ページのマッシュヘアーに赤丸つけていたから、私は「今の坊主のままでかっこいいと思うよ」って、なけなしの根性使って言った。
それは大学受験のためにとっておいた根性だったというのに。
私が学校を自主早退した次の日、フジは他のクラスメイトのように不自然に私を問い詰めたりしなかった。
結局あの日、家に帰ってきたおかんに見つかりこっぴどく怒られ、学校に連れ戻され、反省文原稿用紙5枚の刑に処された。
「大事な時期なのに!!」とカンカンに怒っているおかんを見るのは、少し気分がよかった。おかんはその後、仕事から家に帰って来たお父さんにことのあらましを語って、お父さんからも小言を授かった。
それも、よかった。
それに学校もなんだかよかった。
イケイケ女子の安藤さんには「フミちゃん、やるやーん」となんだか誇らしげにされた。カノとカナミは「どないしたーん!?ほんま大丈夫―?」と心配され放題で、コジヤンには「腹痛かったんか?」と不躾な質問をされた。他にも何人か「大丈夫だった?」と声をかけてくれる人たちがいて、その小っ恥ずかしくて、でも暖かい声に私は何度も泣きそうになった。
「カミサマ」
なんとなく声に出してみる。か細くて、ほとんど小さな咳のような声。
いつもの通り昼休みに踊り場へ行けばフジがいた。
まだまだ暑い日が続くが、結局踊り場が落ち着くのだ。先日蚊に噛まれ放題になったので、結局蒸し暑くても踊り場の方がマシ。
フジは私に「昨日どうしたん?」とは聞かない。それはフジなりの優しさなのだろう、と思う。
それも、なんだかよかった。
「これ、原稿」
「え?優子さんへの恋文?」
「うん。長いこと待たせてごめんな。やっとできたからこれ、どうぞ」
フジは混乱した様子だったが、それでも恋文を受け取ってくれた。その時点で心臓がバクバクと高鳴っていて、いつ口から飛び出てもおかしくない。
私は、フジへ、私の思いを綴った。フジへ恋文を書いた。
出会った時から好きだと書いた。正直に全てを書いた。馬鹿みたいに恥ずかしい事実を、真っ直ぐに書き綴った。
「あ、でもここで読むのは堪忍して。流石に恥ずかしいから」
「おう、わかった。ほんまに平野ありがとうな!こんな長い間付き合ってもらって」
「私こそぐずぐずして、ほんまにごめんな」
気がついたら半年近く経ってる。それは一人で過ごすにはあんまりにも長い時間で、二人で過ごすには短すぎる時間だ。
「手紙やったら、一生残るから、優子さんの手元に。捨てへん限り」
「そうやな、物理的にあるからな」
「そしたら、優子さんと俺がもし別れても、優子さんの手元に残るやろ?俺、優子さんが素敵な人なんやで、って伝えたい、伝え続けたいねん。優子さん、ちょっと自分に自信がないところがあるから…この手紙がな、そういう自信蓄える要因になったらええなって。思うねん」
フジが嬉しそうに笑う。フジの言葉一つ一つに「わかる」って思った。それがうれしくて、鼻がツーンと痛む。
原稿用紙は4ページも必要だった。
昨日徹夜で書いた反省文よりも短いけれど、反省文なんかよりもずっと私の思いがしみ込んでいる。原稿を受け取ったフジは感動すらして「やっぱり平野に頼んでよかった…ほんまにありがとう!」と歯を見せて笑った。そこで私はなんとなく初日に拒絶された握手を、もう一度求めてみた。
フジは私の右手をすぐに掴んで、握ってくれた。強く。
その手は大きくて、豆だらけなせいで握られるとちょっと痛い。
「……振られても私のせいちゃうからな」
「そんなん承知の上やって。それに恋愛っていうのは、告白してからが勝負やねんで」
「玉砕する気満々やん」
「まぁな…優子さんが、俺なんかを好きになるとは思えへん。でも、それでも伝えたいねん。すきやって」
「フジって一途やな」
分かるって思ったけれど、やっぱり口にはしなかった。
気づいたら、もう秋が近くなっている。
フジは原稿用紙の枚数を確認して「書いてて手が痛くなりそうや」とか「期末の勉強もしてへんのに、大丈夫なんかな俺」とか一人でチャカチャカ喋っている。
一緒にいてわかったけど、フジってリラックスするとめっちゃおしゃべりだ。最初の寡黙な様子に騙されて「大人びとる」とか思っていたけれど、身長があって威圧感があるからそう感じてしまうだけだ。
ありがとな!ほんまにありがとな!とフジはしつこく感謝を述べた。踊り場には時計がないから、あと何分でお昼が終わってしまうのかはわからない。
けれど、きっともうすぐ、終わりが来るだろう。
私は踊り場に隠していた、最後の希望を手繰り寄せる。
それを握った瞬間どこかとてつもなく勇気があふれた気がした。
「なぁ、フジ。ずっと聞きたいことがあんねんけど」
ずっとずっと聞きたいことがあった。
フジはすぐ「なんや?」と、条件反射みたいに答えた。
私が何か怖い質問をするだとか、踏み入った質問をするだとか。そんなことは全く想定していないように、あっさりと受け入れる。
「なんでいっつも『カミサマ』描いてるん?」
手元の原稿を気にして俯いていた顔が勢いよく上げられ、フジは目を見開いた。そのまま叫ぶかと思ったけれど、フジは案外冷静で、驚いた表情から一気に微笑みに変わる。
そしてそのままゆっくり話した。
「弟が居たんやけど、6年前に亡くなってん」
「昨日お墓参り行ってた弟さん?」
「そう。あ、関係ないやんと思ったやろ?そんなことないで、ちゃんと繋がってくるから、聞いてや。誰にも話したことないから、うまく説明できるかわからへんけど」
「うん」
学生の集まる校舎からは離れた旧校舎には、学校の喧騒が本当にささやきのように響く。脆い窓を風が叩き、どこかで木が軋む音がした。
「私たち、今ふたりぼっちやん」と思って目の奥が熱くなる。
「事故死やってん。最初はただただショックで。親もショックで、しばらく家はずーっとお通夜みたいやったし。
俺が何をしても弟が透けるんか、家族も俺とどうやって接したらいいかわからんみたいで、ほんまに困ってた。
それでも最近は受け入れられてきて。ずっと悲しいみたいなことはなくなったんや。でもときどきな、どうしようもなく受け入れられへん時があんねん。
たとえば俺がお腹いっぱい食べて午後眠くなってる時、教室にあったかい日差しが当たってる時とか。
なんか友達と楽しく喋ってて、ずーっとこんな時間続けばええのに!とか思ってる時。
決まって嬉しくて楽しくて、優しい時にな『弟の時間はもう止まってしまっとるのに、俺はなんでこんないい思いしてるんや』って思うことがあるねん。
嬉しかったこと受け入れられへん時があんねん」
うん、と話を促すために相槌を打ちたかったのに、気軽に「うん」と言えなくて私は無言で話を聞いた。
フジは徐に天井を仰いだ。
「そう言う時にな、カミサマ居ったらええなって思うねん。
カミサマが居って、死んだ弟にいい思いさせてくれてたらなって。
俺が幸せやと思う時に、弟もどこかで幸せな時を過ごしてたらええなって思うねん。
それで、カミサマ頼むでって時に描くようにしてるねん」
「頼むで!って感じの『カミサマ』なんや」
「うん、カミサマ頼むで。弟のこと、頼むで、っていう、カミサマ」
裏返したプリントの右下に描かれた歪な「カミサマ」。
それは日差しが当たってあったかくて幸せで描いたのか。
一度「カミサマ」を見つけると至る所にあることに気づいた。
渡り廊下の壁、友達と遊んで楽しくて描いたんだろうか。男子トイレと女子トイレの間の柱、ふとした瞬間に生きてることに感謝して描いたんだろうか。
用具箱の端、なんでこんなところに。
フジくんの机の上に、どうしようもなく幸せで悲しくて、描いたんだろうか。
予鈴がなって、フジが立ち上がった。
やばい行かな!とフジが言うので「私、ちょっと体調悪いから先帰ってて」と頼んだ。大丈夫か?と珍しく顔色を窺ってくるフジに「女の子の日やから」と押し切る。フジは「そ、そうなんや」とちょっと居心地悪そうに囁いた。
右手にはあの原稿用紙が握られている。
フジはすぐに早足で教室へ戻った。肩越しにフジが「気づいてやれへんくてごめん!」と、律儀に叫んだ。
そして、小さく「話聞いてくれてありがとう!」と続けた。
めちゃくちゃ薄く描かれた「カミサマ」はちょっと人が擦ればすぐに消えてしまう。
よくこんなところに、と思うぐらいありとあらゆる場所に「カミサマ」はひっそりと存在していた。
気づいたら私は呼吸困難になっていて、目の前は海の中だった。
目から落ちる涙はしょっぱくて、甘ったるい惚気話ばかり聞いていた私には、ちょうどよかった。
みんな自分の時間を生きていた。
それが嬉しくて、悲しくて、でもやっぱり本当に愛おしかった。
私は自分の時間をこれから過ごすために、最後の希望を背負う。
「最後の希望」と私が呼ぶのは、ただのリュックサックだ。
一週間分の着替え、初めてのバイトで得た一ヶ月分の給料と多少の食料を入れた家出用のリュックサック。
それは、兄さんがまだ家にいた時、二人で作ったものだった。お互いの分を一つずつ。
家をどうしても出たくなった時のための、最終兵器。
行き先はまだ決まっていないけれど、おそらく東京にはいかない。行ってやるものか。
「カミサマ」
なんとなく声に出してみる。
か細くて、ほとんど小さな咳のような小声で囁く。
声というのはやっぱり大切な時ほど掠れるものらしい。
「カミサマ」
ほんまに頼むでって気持ちを込めて囁く。
カミサマ、頼むで。頼むから、ほんまに。頼んだで。フジを幸せにしてね。優子さんを幸せにして。カノとカナミもよろしくやで。お父さんとおかんを、頼むで。兄さんのことも、託すからな。頼んだ。ほんまに。
そのほか、みんなを、絶対みんなを幸せにしてね、頼むでって気持ちで。囁いた。
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