短編

森野 狐

花だよ

 しまった、と思った時にはすでにメールは送信されていた。


 血の気が体から引いて、指先が冷たくなったのを感じた。嫌な汗がジワジワと脇から滲み出ている。その汗は妙に獣臭い。狼に襲われる子鹿も、こんな嫌な汗をかくのだろうか。


「藤久さん、すみません」


 訂正のメールを送ってから、急いで先輩の藤久さんの元へ駆け寄った。藤久さんは私が近寄ると、モニターから視線を逸らし、眉を寄せてあからさまに嫌そうな顔をする。


「どうしたの?」

「モンテノールさんへのメールなんですけど…添付した資料、間違えてしまって」

「…なにと間違えたの?」

「大橋製薬さんへの資料と間違えてしまって…すぐ訂正して正しい資料を送ったんですけど」

「いやいや、他の会社への資料間違えて送ったって、それ完全アウトだって」


 完全アウトがあるなら、ギリギリセーフもあるのだろうか。

 私は藤久さんに「ギリギリセーフ」をもらったことがないけれど。すぐに深く頭を下げて「すみません」と言った。言っただけだった。今は申し訳なさよりも、これからどんな言葉で傷つけられるのかが、心配だった。


 藤久さんは大きなため息を着いた。そのため息ひとつで、私の後頭部の髪の毛が消し飛ぶかと思った。それぐらいなんだか攻撃的なため息だった。


「どうしてちゃんと確認しないわけ」


 確認したんです。確認していたんです。


 叫びそうになって、私は下唇を噛み締めた。幸い、頭を下げているおかげで藤久さんには気づかれていない。悔しさで顎に力が入る。私は今、このオフィスの中で一番般若に似ているかもしれない。


 間違えないようにフォルダーも別々にしていました。わざわざチェック項目だって作っていたんです。それなのに…いや、それでも間違えた。何度もチェックしたんです。本当です。本当なんです。


 心の底から信じてほしいのに、実際間違えてしまっている以上どんな「確認しました」も嘘になってしまう。それが悔しくて情けなかった。それは入社してすぐにわかったことだった。一回の失敗は、どんな努力も無駄にしてしまう。

 できない自分が悪いのだとわかっていても、言い訳がしたかった。違うんです。全然違うんです。アナタが考えているような私ではないんです。分かってほしかったし、私のことを好きでいてほしかった。藤久さん向けられる軽蔑の眼差しからは「好きでいてくれている」なんて、幻想もいいところだとわかっていた。すべての人に好かれるなんて、難しいことも、わかっている。


 それでもやっぱり、私は誰にも嫌われたくなんかなかった。


「ほんとうにすみません。」


 恐る恐る上体を起こして、俯いたまま呟いた。藤久さんがまたため息を吐き出した。そのため息で私の体がひらひらと細かい粒子になり、消し飛ぶんじゃないかと思った。いや、そう願った。そうなった方がいい。


 消えてしまいたかった。


 いますぐ消えちゃいたい。死んじゃいたい。わぁ!と大きな声を出して叫んで、走り出したい。

 本能が今この場を逃げ出そうと必死になっている。心臓はやけに早く、指先が震える。それでも、私は渾身の理性を引き寄せて、必死にその場所にジッと立っていた。


「君さ、本当に社会人としての自覚あるの?こんな初歩的なミス、いつまで繰り返すわけ」

「…申し訳ないです」

「いや、申し訳ないです、じゃなくてさ。改善方法とか考えないわけ?」

「はい…。あの…、えっと。メールが送られてから1分間修正できるよう設定を変更しました」

「それで改善するわけ?というか、どうしてそれを最初からしなかったの」

「…すみません、わかりません」


 藤久さんはきっと、私に「私がバカだからです」と言わせたいのだと思う。


 どうして?なんで?どうして最初からしなかったの?そんな風に詰められると、もう逃げ場が無くなってしまう。そんなの、私が一番私に聞きたいことなのに。


 私がバカだからです。私が至らないからです。私が無責任だからです。あなたの言うとおり、私に社会人としての自覚が足りなくて、バカで間抜けで、何もできないからです。そう言ってほしいのかと、思ってしまう。


 でもきっと藤久さんは、ただわからないだけだ。できない人の気持ちが。


 私だってわからなかった、自分がどうして出来ないのか。

 どれだけチェックを重ねても、どれだけポストイットを増やしても、結局私はどこかで失敗してしまう。どこかで見落として、ミスをして、誰かに迷惑をかけてしまう。誰にも迷惑をかけずにいられる人がうらやましい。


 誠実さを見せるためだけに腹部あたりで交差させた両手に力をいれる。自分を罰したかった。自分がミスしたことが悪いのに、ひたすらに不機嫌を撒き散らし怒る藤久さんに対して私は「でも、こんなミスでどんな損害が出るっていうんですか?」と心の底で思っていた。いつだってそうだった。これで誰か死ぬわけでもないのに、そんなに怒る必要ありますか?と。


そんな穿った考えをしている自分に出会うたびに、自分自身に幻滅する。


「はぁ?なんなのそれわからないって、大人なんだから頭つかえよ。いつまで学生気分なんだよ。ふざけんなよ。まじでほんと。いい加減にしてくれよォ!」


 藤久さんの声がオフィスに響く。だから余計に辛かった。

 みんなの視線が私に投げかけられているような気がして、背中も後頭部もすべてに視線が突き刺さって「痛い」と思った。空気が目に見えない鋭い針で出来ていて、私が動くたびに体中に突き刺さっている。私はできるだけ浅い息を繰り返す。

 藤久さんの口から発せられる言葉よりも、オフィス中に「あいつは使えないらしい」と烙印を付けられてしまうことのほうが、怖い。同僚や、優しくしてくれた先輩たちが「あんな使えないやつとは仲良くするのをやめよう」と、思ってしまったらどうしよう。私と話したり、一緒に歩いたりしているのが恥ずかしいと思われたらどうしよう。私は目の前にいる藤久さんと話しているはずなのに、意識はすでに私たちの様子をうかがっている周りの人たちへ向いていた。


 「このオフィスの中で一番弱くて、取るに足らないやつだ」と誰かに認定されてしまったんじゃないか。明日から誰も一緒にランチに行ってくれなくなるんじゃないか。私のことを「いじめてもいいやつ」なんてレッテルが貼られていないか。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。怖い、恥ずかしい。どうしよう。ぐるぐる、と嫌な気持ちが駆け巡って、またあの匂いがした。


 獣のにおい。私の汗のにおいだ。

 首を押さえつけられ、動脈に牙をあてられた無力な動物の……獣臭いにおい。この匂いが藤久さんの鼻腔にも漂ってしまったら、どうしよう。ぶわっと体中が熱くなった。顔も耳も指先も、すべてじっとりと嫌な熱を持っているのに、不思議と体の芯は冷え切っている。


「あーもういいよ、仕事戻って」


 つかえねぇなぁ…、という文句を残して、藤久さんはやっと私を解放してくれた。私はそろりそろりと自分のデスクへ戻る。あまり速く動くと、汗のにおいをまき散らしてしまう気がして、できるだけゆっくりとした足取りでデスクへ戻る。デスクに戻ると、右隣のみかちゃんが私を心配そうに見つめている。


「どんまい」


 みかちゃんは小声でそう言ってくれたけれど、私は藤久さんにみかちゃんの声が聞こえていないか気が気じゃなかった。どう返事をしていいのかわからなくて曖昧に笑うと、みかちゃんは私にもっと近づいて耳打ちするように言う。


「メールなんてどうでもいいよね」

「藤久さんって、弱い者いじめ好きよね」


 左隣のあかりちゃんが、上体を私の方へ倒し、顔を寄せてささやく。あからさまに藤久さんを睨んで、舌まで出すものだから私は慌ててあかりちゃんの肩を叩いて諌めた。

 嫌なやつ。ほんと嫌なやつ。気にしちゃダメだよ。そんなことを両隣から囁かれていると、藤久さんがデスクから立ち上がり、資料をもってオフィスを出て行った。


 その途端「待ってました!」と言わんばかりに、同僚や新卒の女の子たち、先輩たちがこぞってしゃべり始める。


「ねー気にしない方がいいよ。というか資料送り間違えちゃうなんて、誰にだってあるんだし」

「うん、藤久いま機嫌悪いから、バッドタイミングだったね」

「てか何あの言い方。まじでパワハラ。一回人事に行った方がいい」

「取引先から資料間違って送られたからって、誰かが死ぬ訳でもないのに、大袈裟」

「なんであいつ、あんなに機嫌悪いの?今日」

「先月の成績悪かったって、課長に詰められてたからじゃない?」

「それで、あんなにキレるなんて……パワハラです」

「ほんと最低」

「まぁまぁ、気持ちはわかるけど、落ち着いてよみなさん」

「岸くんは黙ってて」

「すみませーん」

「優しい人ってこういう時損するよねー」

「ねぇ、本気で人事に話した方がいいんじゃない?さすがにあんな風にオフィスで怒鳴られたら見てるこっちだって気分が悪いし」

「あ、はい…すみません」

「別にあなたに怒ってるわけじゃないからね?本当に、あれは藤久が悪いから」


 あきれたようにため息をつきながら、美人で仕事のできる先輩が言う。そのため息が私の自尊心をそっと傷つけて、余計に背中が丸くなっていく。


 じゃあ助けてくれたらよかったのに。


 自分じゃ絶対にしないくせに。優しい言葉を投げかけられるとそう思ってしまう。藤久さんは宥められると逆ギレしてしまうから、ことを荒立てないために誰も介在しないのは、暗黙の了解なのに。他人が怒られている時、私だって聞こえないふりをするのに。それでも、自分の時は、誰かが颯爽と救い出してくれることを求めてしまう。


 藤久さんが帰ってくるまで女性たちは悪口を続けた。途中何度か男性社員が宥めようと会話に参加したが、その度余計に彼女たちの怒りを煽って逆に怒られてしまっている。

 そんな時も、私は藤久さんがいつ帰ってくるかわからなくて、ヒヤヒヤした。帰ってきた藤久さんが、自分の悪口大会を開かれていることを知って悲しくなるんじゃないかと、不安だった。自分だったら、そんな状況に鉢合わせたら、きっともう会社に来れなくなってしまう。それは、どうしても可哀想だと思う。


 女の子たちは幼稚園の頃から変わらず群れている。

 社会人になればそういう群れの意識は無くなるのだと思っていた。だが、男性ばかりが役職に就き、女の子にお茶やプリンㇳを任せるという古風な社内では、自然と女子たちの鬱憤がたまる。文句や恨みが積もれば、その分団結力が強まっていく。

 社会人になって形成された群れは、学校の頃とは違いもっと大きくて確かな縄張り意識があった。その縄張りの中で、私たちは、お互いにお互いをしっかり守ろうと常に神経を研ぎ澄まさせている。

 それはありがたくて、とてもとても申し訳ない。

 「手負いの私なんかは、どうぞ置いて行ってくださいまし」と思ってしまう。群れの中で、役に立てている実感はないし、実際に私は群れのお荷物だろう。群れの足並みに揃えられない、足を怪我した羊。誰かに迷惑をかけるぐらいなら、ひとりぼっちの方が心地いいだろう。けれども、本当にひとりぼっちになってやっていける自信もない。


 オフィスから出て行った藤久さんのことが気になり、また気が重くなる。

 藤久さんだってきっと怒鳴りたかったわけじゃないはずだ。けど、私が失敗するから。しょうもない失敗を何度もするから、イライラして怒鳴ってしまったのだ。私を怒鳴ると社内の女子たちに嫌われる。そして、悪口を言われる。悪口で嫌なところを具現化される所為で、余計に藤久さんへの嫌悪感が助長される。嫌いが大きくなればなるほど、女子の団結力と苛立ちが増長していく。肥大化した群れ意識が、小さな攻撃性に変わり、藤久さんへ嫌がらせ行為が始まる。それにイライラした藤久さんが、また……誰かに怒鳴る。こんな悪循環を作っていることが嫌だった。

 

 それ以上に、恐ろしかった。いま藤久さんへ向いている悪意が、いつ私に向けられるかわからない。悪意は簡単に矛先を変えられることは、学生時代に身をもって知っている。


「もー大丈夫だって。大丈夫」


 みかちゃんがカラッとした明るい声をあげて、私の背中をぽん!と叩いた。そして、「あとで飲もうぜ〜!」なんて、語尾を伸ばしておちゃらけて、どこか男の子っぽい口調で飲みに誘う。

 パッと視線を向ければ、みかちゃんは瞼を閉じて歯を見せて笑っていた。ラメ入りのアイシャドウが輝いて、みかちゃんのシースルーの前髪が揺れる。みかちゃんは同期だ。美人で、仕事ができて、面白い。きっとこの人は、あと数年で私なんかを切り離して、ずっとずっと遠くへ行ってしまうんだろうな。キラキラひかるラメ入りのアイシャドウが塗られた瞼を見て、ふと思い知った。私は、こんなにも派手な色をつけて会社に来ることを、多分許されていない。

 みかちゃんは、私のような凡ミスはしない。理由は「誰にも頭なんか下げたくないから」で、どんなことも完璧にやり尽くす。そんな同僚がいるから、私の肩身がどんどん狭ばっていく。

 「お前が嫌いだ、憎たらしい」なんて思えたらよかったのに。私は、私が失敗した時、おちゃらけたりしてみんなの意識を少しでも私から逸らそうとしてくれる、みかちゃんが好きだ。私に小声で「大丈夫?」と聞いてくれる、みかちゃんの優しい声が好きだ。どんなに夜遅くまで働いていても、次の日はパッと華やかなメイクと服装で酒残りを感じさせないみかちゃんが好きだ。


 でも、すんなりとなんでも完璧にこなせる要領の良さが、憎かった。でも完璧に嫌うには、みかちゃんはいい人すぎる。


「死にたい」


 耳元で誰かが言う。

 それはあまりにもはっきりした声だから、私は自分が言っているのか、それとも他人が私に囁いているのかわからなくなる。


「死んでしまいたい」


 妙にはっきりと、声がする。私の耳の中なのか、耳に直接吹き込まれているのか。わからない、けれど確かにその声はする。


「生きていたくない」


 まだ小さい頃、気になっていた男の子の前でお漏らしをしてしまった時。小学校の体育で、自分だけ大縄跳びに入れなかった時。授業中にお腹がなってしまった時。生理の血が制服についているのに気づかず、1日クスクス笑われていた時。上京して浮かれて、大学生のサークルの飲みで、飲める飲める!と言っていたのに、みんなの前で吐瀉してしまった時。会社の面接で、全く用意していない質問をされて何も言えなくなってしまった時。


 失敗をするたびに、低い感情のない声が私に囁く。


「消えてしまいたい」



「へー関西出身なんだ!全然方言でないね!」

「関西弁ってちょっと恥ずかしくないですか?」

「そんなことないよ!関西弁喋ってる女の子ってオレ結構好み〜!」

「お前新入生からかうなよ!」

「誰もお前のタイプなんて聞いてないってのぉ!」


 あははは、と笑い声が響く。

 みんなが一斉に笑い始めたから、私も慌てて笑いに混じった。


 サークルの飲み会はどれも苦痛だった。なんで笑っているのか、何が面白いのかさっぱりわからなかったから。私は小さい頃からそうだった。頭の回転が悪いものだから、反応が数秒遅れてしまう。私がやっと面白いとか、嫌だとか思った時には、既にみんな数歩先を行っている。私はいつも出遅れて、輪に入れない。今もそう、何が面白いのかわからないまま、とりあえず形だけの笑顔を作っている。最初の数回はそれでやり過ごせるけれど、時間が経てばみんな気づいてしまう。


 私が本当に笑っていないこと、本当の意味で一体になれていないこと。

 そういうい異常者は自然と排除され、おかげで本当の意味で誰とも仲良くなれなかった。


 サークルの歓迎飲み会は、よくある居酒屋のチェーン店で行われていた。堀炬燵とペラペラの座布団があり、横長のテーブルに両端からサークルメンバーが並んで座っている。座り場所は流動的で、みんな頻繁にドリンクを持って立ち上がり、各々好きな場所へ腰を下ろしていく。テーブルの中心では、顔立ちの綺麗な男の子と女の子、話が上手な男の子、派手な女の子たちが集まっている。その輪に一生懸命入ろうとしている野暮ったい上京したての男の子たちと女の子たちがテーブルに身を乗り出したり、膝立ちになったりして自分が入り込める話題を探している。

 私は最初こそ、新入生ということで中心付近に座っていたのに、気がつけば一番端の席へ追いやられていた。末端の席には、届いたばかりのご飯が誰にも手をつけられず、だらしなくお皿の上で油の膜を張って横たわっている。


「私、東京生まれ東京育ちなんだよね」


 いきなり、目の前に座っていた女の子が言った。私はずっと机の中心部へ顔を向けて、すこしでも会話の内容を掴もうとしていた為、今の今まで目の前に誰かが座っていることに気が付かなかった。申し訳なさと、驚きと、困惑で彼女をじっと凝視した。


「そうなんだ」

「私、凪。ナギって呼んでいいよ」


 ナギちゃんは当たり前みたいにビールジョッキを片手で持って、ごくごくと水のように飲み干した。同じ新入生。つまり未成年のはずなのに、様になっている。他の可愛い女の子たちがカルーアミルクとか、カシスオレンジを頼んでいるのに。ナギちゃんはビール。そして、冷めた唐揚げを一口で頬張って、退屈そうにしていた。


 ナギちゃんは、本当におしゃれな女の子だった。


 身長がすらりと高くて、目は重たい一重。睨んだだけで空気をすっぱり切ってしまいそうな、涼やかな目元をしている。そんな、今時珍しいどこもチャラチャラしていない女子大生だった。

 髪の毛は染めたことのないヴァージンブラック。滑らかな髪の毛は無造作に伸ばされて、大体よれよれの輪ゴムでひとつ結びにされていた。ウルフだとか、ピクシーカットだとか、刈り上げだとか、そういうおしゃれなヘアスタイルが、間違いなく似合う顔立ちなのに、ナギちゃんはチャラチャラしたものに見向きもしない。髪の毛を綺麗にするとか、ちゃんと毛先を切り添えるといった最低限のお手入れ以外はなにもしなかった。美容院には半年に一回ぐらいしか行かないのだ。めんどくさいから。

 ナギちゃんには「自分をカッコよくプロデュースしよう!」という意思がなく、ただ「私はかっこいいんだぞ」という確信があるように見えた。自然体でチャラチャラしていないナギちゃんに、私は心底惚れ込んでしまった。


 親しみやすい女の子とか、優しそうな女の子とは全然違う。ナギちゃんは急に刺してきそうな女の子だ。急に刺されても「ああ、そうだよね。君はそういう人だよね」と思えてしまう女の子なのだ。

 そのせいでサークルの人たちに、ナギちゃんはいつも恐れられていた。


「兵庫ってどんなところ?」


 先ほどサークルの人たちには「関西」と一括りにされていたけれど、ナギちゃんはしっかり「兵庫」と言ってくれた。それを聞いて「ああ、嬉しい」と心底思った。


 いままで私の世界には兵庫しかなかった。けれど、上京すると兵庫がどれだけ小さくて、どれだけ魅力に欠けていて、世の中の多くの人にとってどうでもいい場所なのか知った。みんな東京に全神経を向けている。それ以外の場所は、ただの空間程度の扱いだ。それにどうしようもなく傷ついた。東京は「東京以外すべてどうでもいいです」という顔をしている。地元を離れた心細さに、その「地方どうでもいいです」という都会の雰囲気は強すぎた。

 それを、あのナギちゃんが。東京出身東京生まれ東京育ちのナギちゃんが。心底おしゃれなのにまったくチャラチャラしていないナギちゃんが。そんなナギちゃんが、ちゃんと認識してくれたことで「どうでもよくないよ」と言われている、そう思えた。


「私が住んでいたのはさくら夙川の近くなんだけど」

「うん」


 さくら夙川なんて、言ったところでナギちゃんがわかるはずもないのに。私は説明するべきか逡巡した。けれど、ぱっと視線を送った先でナギちゃんが目を逸らさずまっすぐに見つめてくれていたから、あえて説明を省いた。声が震えていることに気づいたのは、続きの言葉がなかなか出てこなかったから。震えないように何度も声帯を調節したけれど、漏れた言葉はどうしようもなく震えていた。慎重に何度も瞬きをした。ナギちゃんは、涙で歪んだ視界の中でもしゃっきりカッコよく、やっぱり一つもチャラチャラしていない。


「地元の有名な川なんだけど、桜の名所なの。長い川の両端にたくさんの大きな桜の木が成っていてね、春になると川が花びらで真っ赤になるんだよ。知ってた?桜ってね、水に濡れると本当に強い赤色になるんだよ」

「へぇ、そりゃあ見物だろうね」

「そんな河岸にたくさんの出店が並ぶから、春はね、本当にお祭りの季節って感じだった」


 思い出せばお祭りは夏も、秋も、冬だってやっていた。どの季節も何らかの理由をつけてお祭り男たちが神輿を担いで歩き回っていた。だから、お祭りの季節は春だけではない。それに、一番大きなお祭りといえば、春ではなく大体花火大会も開催される夏場だっただろう。それでも私の記憶の中では、お祭りといえば「夏」ではなく、春だった。

 桃色の優しい桜の花びらが、水に濡れて強い赤色になった川。大きな桜の下で、大人たちはいつだって酔っ払って、楽しそうで、世界はピンク、真っ赤、強くて、そしてしんどくなるほど優しかった。


「なんで上京しようと思ったの?」

「親元を離れたくて」

「ふーん。あ、わたしタバコ吸ってきていい?」

「私も行く」

「そう?じゃあ行こうか」


 その日、初めてタバコを吸った。それは癖になるぐらいかっこよかった。



 がこん、と大きく揺れて一瞬で意識が戻る。

 車内だ。電車の中だ。会社の最寄り駅は嬉しいことに、始発駅になることが多いため、家の最寄り駅まで座れることが多い。今日のようにみかちゃんと会社近辺で飲んだ帰りでも座れるのだから、本当にありがたい。

 本当はあまり飲みに行く気分ではなかったけれど、みかちゃんの「励ましてあげよう!」という気概を断ることが怖かった。仕事もできない、気も使えないとなれば本格的に嫌われてしまう気がする。


「あんたはねー……怯えすぎなのよ!失敗なんてするもんなんだから、堂々と失敗すればいいの!」

「…そんなこと言って、みかちゃんは全然失敗しないじゃん」

「私は目立たないように失敗してるの!わかる?失敗っていうのはね、超豪速球で訂正すればいいのよ。今日だって、わざわざ藤久に言いに行かなくてよかったのに!」


 みかちゃんは藤久さんがいない時、藤久さんを呼び捨てにする。そういう大胆なところを私は好きで、でも軽蔑もしていた。


 藤久さんが本当に嫌いでそうしているのか、それとも私の警戒心を解きたいのからそうしているのか。嫌いでもない人の悪口を言える人は、好きじゃない。嫌いな人の悪口を言う人だって、好きじゃない。けれど、自分の他に悪口を言ってくれる人がいると、安心する。ああよかった、私も嫌っていいんだ。私もその人を悪く言っていいんだ。そんな風に思ってしまう自分のくだらなさに、やっぱり嫌な気持ちになってしまう。

 みかちゃんは、お酒で頬を赤らめて、大袈裟な身振り手振りで話している。いつもしゃきっとしているみかちゃんが、お酒の入ったグラスを倒しそうになったりしている。お酒のペースが早くて、何もかも大袈裟だ。そんなみかちゃんを見ていると、私が藤久さんの悪口を言わないから、みかちゃんが私の代わりに悪口を言ってくれているんじゃないかと思ってしまう。本当はしたくない汚れ仕事を、私のことを思ってしていて、だから飲まないとやってられなくて、いつもよりペースが早いのかもしれない。

 私は心配になって、お店の人にそっとお冷やを注文した。みかちゃんは、気が付かないまま喋り続けている。

 一通りみかちゃんの意見を聞いて、到着したお冷やをみかちゃんの前へ移動させながら伝えた。


「だって、卑怯な気がするの。間違えたのに言わないで、気づかないでいてくれたらいいのにって思って、隠れているみたいで」


 ただでさえできないのだから、せめて正直でいたい。

 いや、正直でいることこそ、自分の唯一の信頼できるポイントなんだ。みかちゃんは「まじめすぎ!」と、笑った。まじめすぎ。ちゃんと物事をできない人間は、まじめになるしかない。みかちゃんのように仕事ができる人はおちゃらけたり、ハメを外したり、甘えたりすることができる。それは“いつもみんなを助けている”からできることだ。みんなに貸しがある。この人でなければいけないことが、たくさんある。だから多少のことも目を瞑ってもらえるのだ。まぁまぁいいよ、いつも君には助けてもらっているからね。そんな風に対応してもらえる。


 けれど、何もまともにできない私には、その権利がない。


 自宅の最寄り駅までまだ4駅もあった。

 夜の電車は外が真っ暗なのに、車内は不思議なほど明るくてどこか幻想的だ。まだ自分が小学生だった頃、塾からの帰り道に電車を使っていた。その頃は、席が空いていても必ず乗車口の近くに立って、窓の外を眺めていた。暗くなった世界は死んでしまっているようだ。もしかしたら、生き残っているのは車内にいる自分達だけなんじゃないだろうか?そう想像するのが楽しかった。時々現れる人影に、見えないとわかっていながら手を振ってみたり、誰かのベランダを眺めて楽しんだ。あの頃は電車に乗ることも、一つの冒険で、楽しみが確かにあった。


 今は、どうだろう。


 魂を抜かれたように突っ立っているサラリーマンたちが、電車に合わせて揺れている。それは、どことなく風に揺れる雑草のように見えた。窓の外へ顔を向け、すっかり夜の帷を降ろした世界を眺めながら、私はまた大学生の頃のことを思い出す。


「家は山の方にあって、ちょっと歩けば森だった。猪がよく出るから、花壇を荒らされて親がいつも怒ってたよ」

「え、兵庫って猪が出るの?」

「うん、私の住んでいたところは特に!小学校の頃はね、下校中にウリボーが出たら逃げるようにーなんて、校長先生から朝礼で言われるぐらい」

「ウリボーって?」

「子どもの猪のことだよ」

「なんかいいね、ふざけた名前で」


 ナギちゃんは今何をしているんだろう。

 私は結局大学を卒業してからも、東京に住んでいる。ナギちゃんとは卒業してから連絡をしていない。連絡先は確かにもらったはずなのに、忙しくてすっかり忘れてしまっていた。

 東京には猪がいない。山だって、都心にはない。兵庫ならどこにいってもカブトヤマが見えた。カブトヤマと言うのは、本当に丸いなだらかな、それこそ飾りのついていない兜のような山のことだ。とても標高が高いので、本当にどこに行っても見えた。家はカブトヤマの方にあるので、道に迷ってもカブトヤマを目指して歩けばなんとなく見慣れた場所に出たものだ。東京にはそういった目印はなにもない。おかげで私はよく迷子になるようになった。どっちが東で、どっちが南なのか、遮るものが何もない空から判断するのは難しい。

 それに、桜も…。神田川周辺は桜の名所で、私も会社の花見で何度か見たことがある。その桜並木を見て思った。さくら夙川の桜並木には遠く及ばない。そもそもさくら夙川は神田川のように臭くないし、それに河岸を歩くことができて、美しい強い赤色の川を楽しめた。


「ナギちゃんは東京のどういうところが好き?」

「うーん、強いていうならいろんな人が来るところかな」

「まぁたしかにいっぱい人がいるよね」

「45%は地方から来た人なんだって」

「えーそんなに?ほとんど地方人なんだ」


 授業にも出ないで、ナギちゃんと話してばかりいた。

 ふらりと学食や講堂で出会うとおしゃべりに花が咲いた。ぽつ、ポツポツ、ってそれこそ桜が咲く時みたいに。話す内容に困ったことはなかった。気がつけば夜中まで話し込んで、終電を逃して、二人で線路沿いを歩いて帰ったことも、一度や二度の出来事ではない。

 ナギちゃんはあんまり勉学に真剣な人ではなかった。それでも、私に付き合っておしゃべりの合間に勉強をするうちに成績が良くなっていった。ナギちゃんが試験やレポートで良い成績を取ると嬉しくなって、私は頼まれてもいないのによく勉強に誘った。


 とてもとても、楽しかった。


「もうちょっと肩の力抜いてやんなよ、ね?」


 みかちゃんは去り際にそう言って、また私の肩を遠慮がちに叩く。彼女の気遣いが痛くて、痛くて、優しい。

 最寄り駅に降りると、冷たい風が肌を撫でていった。一気に腕のうぶ毛が張りあがり、サブイボが立つ。もう秋になるのか。今年こそ地元へ帰ろうと思っていたのに、この分じゃまた有給を取るのが申し訳なくて実家に帰れなさそうだ。

 ノロノロと人々は改札を目指して歩いて行く。レースでもないのに誰が一番早く階段へ辿り着くか競っているような、そんな足取りで。話し声はない。誰も彼も疲れ果てて声すら出ないというような雰囲気を醸し出している。長蛇の列になっているエスカレーターを諦めて、ゆっくりと階段をのぼる。最近はゆっくり登らないとすぐに息が上がってしまう。そのまま流れに任せてただ歩く。灰色のタイルの上を、擦り切れたヒールの爪先が現れては消える。このヒールを買った時、大人になったと随分胸が躍ったのに。いまはどうだろう。ベージュの爪先にはソールの汚れがついて黒い線があり、草臥れて見えた。


 コツコツ。


 灰色。ベージュ。灰色。ベージュ。


 視界の中に入るのはそれだけ。


 コツコツ。

 灰色、ベージュ。


 赤。


 思わず立ち止まった。


 改札付近のなんの変哲もない灰色のタイルの上に、赤い花が落ちていた。

 その花は幾人に踏まれたのか、ぺちゃんこになっていて、タイルに張り付いている。べったりと押し花のようにタイルに張り付く、赤い、小さな、花。


 それを見て、両目に涙が込み上げた。


「知ってた?桜ってね、水に濡れると本当に強い赤色になるんだよ」


 今よりも5歳は若い、上京したての浮かれて酒と場に酔った私の声が聞こえる。ふわふわと頼りなくて、とても楽しそうで、泣きそうな声だ。


 たくさんの人に踏まれたその花は、本当に美しい赤色をしていた。

 まるで誰かに「気づいて」というように。


 ドンっと、誰かが私にぶつかって舌打ちをした。改札口前は広く空いているけれど、中央に突っ立っている女なんてさぞかし邪魔だろう。けれど、動く気はなかった。動かない私を見る視線も、気にならなかった。私に容赦なく鞄や肩を当てて来る人たちに押されつつも、私はそこで踏ん張っていた。きっと明日の朝にはなくなってしまう。もしかしたら今日の夜で綺麗さっぱり片づけられてしまうかもしれない。その花をもっとちゃんとじっくり、長い間見たかった。誰にどう思われようが、かまわないから、花を、その花をちゃんと見たい。


「花だ、花だよ」


 馬鹿みたいに声に出してみた。誰に言いたかったわけでもない。ただ言葉にしたかった。いや、もしかしたらいつも耳元で囁く「アレ」に、言って聞かせてやりたかったのかもしれない。花だ。花だよ。綺麗な赤色の強い花だよ。よく見たいのに、瞑っても、瞑っても、瞑っても視界がぼやける。


 この花はどうやってここまでやってきたんだろう。


 だれかの花束から落ちたんだろうか。いやこの花は花束に使われるような、華やかな種類じゃない。もしかしたら、誰かの花壇に咲いていた花かもしれない。出かけるときにスカートに絡んで、運悪くここで落ちてしまったのか。いやもしかしたら誰かが、多分きっと子供が、摘んできた花なのだろう。しっかり握っていたのに、どこかで気が緩んで落ちてしまった。そしてここに散った。その子は誰に手を引かれて、どんな気持ちでここを通ったんだろう。いや、どんな気持ちでこの花を摘んできたんだろう。


 愛おしい、とてつもなく愛おしかった。


 なにもかも、本当に全部どうでもいいと思えた。藤久さんのことも、オフィスの私の立場も、みかちゃんのことも、ほかの女の子たちのことも、仕事のことも、なんでもいい、どうでもいい。


 私はそんなことを気にしたり、悔やんだりするために、生きているわけじゃない。

そうであってほしい。ううん、そう思いたかった。


「桜の名所なの。長い川の両端にたくさん大きな桜の木が成っていてね、春には川が真っ赤になるんだよ。知ってた?桜ってね、水に濡れると本当に強い赤色になるんだよ」

「へぇ、そりゃあ見物だろうね」


 どうしようもなくて気がついたらしゃがみこんでいた。周りの人たちが、私を訝しんであからさまに避けて通っている。長い間社会で生きてきた自分の肌身が、自然と他人の不機嫌を感じとる。


 でも、どうでもいいと思った。

 そんなことを感じるためにこの肌を私はまとってるわけじゃない。


 誰かの視線に怯えるために目が見えるわけじゃない。誰かのひどい言葉を聞くために、この耳はあるわけじゃない。この頭は、自分の敵を探したり、他人の悪意を感じとったりするためにあるわけじゃない。

 

 きっとそうじゃない。絶対に、そうじゃないといい。


「そんな河岸にたくさんの出店が並ぶから、春はね、本当にお祭りの季節って感じなの」


 それが、毎年嬉しくて仕方なかったのだ。みんながおおらかな顔をして笑っているのが、嬉しかった。


 そうやってなにかを喜ぶために、きっと生きている。そう思いたい。


 駅前に落ちている、たった一つの赤い花を見て、その喜びを思い出す。ああ、そのために、生きている。そのための脳みそで、そのための目で、そのための耳で、そのための体だと。それを喜ぶための、命だと。


 そうでなければ一寸だって生きていたくないって、そう思った。


「きれい」


 妙にはっきりと。声がする。私の耳の中なのか、耳に直接吹き込まれているのか。わからない。けれど確かにその声はする。


「ああ、花だよ」

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