2-6 竜公主
白檀と白桃の匂いが薄らいで、水の冷たくも清らかな匂いと気配とが周囲にあって、辺りは真っ暗闇に染まっている。
穏やかな温もりではなく、夜の山の冷たさに触れて、私が生きている現実に舞い戻っている。
(還ってきた)
そう思った瞬間にぞっと怖気が奔る。
春先の空気の冷たさでも、水辺特有の気温の低さにでもなく。
幽世で過ごした時間がこの世界ではどれだけの時間になるのか。その答えを持たないことに気がついてしまって。
辺りはすっかりと陽が落ちてしまっている。だから時間の経過は間違いがない。それがほんの数日なのか数週間なのか、それとも何年も経っているのかが分からない。
心臓が早鐘を打って焦りばかりが募り始める。
最悪、を想定すると手の指先から氷の様に冷たくなろうとする。
あの、桜の怪異の様なことは起きない筈だったのに。
「清春様」
ぽつりと言葉が溢れる。そうだ、清春様ならまだ此処に居て下さるかもしれない。そんなことを思う。
二週間という時間を待っていてくださった方だから、もしかしたら今回も待っていて下さるかもしれない。そんな期待が募る。
星灯りも無い闇の中で、懸命に彼の姿を探す。
もしも何年も時間が経っているかもしれないなんて考えない。考えると、お腹の奥から重くなって動けなくなってしまうから。懸命に、ただ彼の姿だけを求める。
岩場に足を取られ、水辺に何度も転んでしまいながら。それでもずっとあの人を探す。きっと居てくださると信じて探す。
桜の怪異とは比較にならないほど、古くからこの地に棲まうもの。そんな存在の元で流れる時間はどれだけ人の世とは隔絶した時間なのだろうか。
考えない。思考をとにかくあの人を捜すことだけに費やして。この暗闇を、藪を、水の傍を、石がむき出しに転がる滝の傍を走った。
そして。
巧妙に隠された焚き火の灯りに辿り着いた。
「清春様!」
炎に照らされて揺れる影に、確かめもせずそんな声をかけていた。
ゆっくりと振り返る人影は、驚いた顔を浮かべている。
驚愕の表情を浮かべている人影は間違いなく清春様だった。年も、背格好も、装いもそのままで。何も変わっていない、そんな様子。でもそのお姿に問題があった。
焚き火に濡れた服を乾かしながら、暖を取っているお姿は下着以外を身に着けていない裸でいらして。思わず見てはいけないと羞恥が働いて目を両の手で覆ってしまって、それでも指の隙間から覗く姿に目が向いてしまう。
逞しい、発達した筋骨の見事な体躯。私の知る父様の身体とは、そもそもの造りが異なるような戦士の身体。ただ、その体に刻まれた傷跡にどうしても目が向かう。古傷の様にぼやけたものから、生々しく残る右肩から腹部にまで伸びた刀傷に、銃弾の痕と思われる抉れた傷も幾つも刻まれている。
幕末の動乱と維新後の内乱とを戦場で過ごされた方なのだと言葉もなく告げられる。
そんな数多の傷だらけのお姿に、畏怖と敬意と、悲しさと。様々な感情が胸中に渦巻く。
「す、すみません。私ったら」
「……いえ、こちらこそこんな格好で申し訳ない」
「恥ずかしがることないのよ。貴女の年頃なら男の裸に興味があって当然だもの」
「だからそういう茶化しはやめてください!」
背後から耳打ちするような、川の主の言葉に言い返してしまう。その間に清春様は該当を羽織られていて、くすくすと笑っている彼女の他は気まずい沈黙だけが漂っている。
居てくださった。そんな安堵に胸がはち切れそうになる。傍に元凶がいることは一度置いておく。
この沈黙をどうにかしなくてはと思って、それでどれだけの時間が経ったのかを聞かなければならないことを思い出して。清春様に尋ねようとするはずが、喉の奥に引っかかているかのように、音にならない。
もしこれが、先の怪異の様に何週間も時間が乖離していたならば、今度こそ見限られてしまうのは間違いがなくて。そうでなくとも、忌避の視線を向けられる筈で。それが堪らなく怖くて、動けなくなってしまった。
ずっと、ずっと昔に、妖に拐かされたことがある。
本当に幼い頃、自分ではとても時の移ろいを信じられなかった頃、還ってきた私に向けた両親たちのあの瞳は忘れられない。悍ましいものを見る蔑視の視線。想い出のほとんどがぼやけてしまっているのに、あの瞳だけは忘れられない。誰にも、清春様には、あの瞳は向けられたくない。
たっぷりと時間が過ぎる。何かを言わなくてはいけないのに、何も言葉にならない。そんなもどかしい時間が続く。
「ほんの数時間ですよ。陽は暮れてしまいましたが」
私が何か言葉にする代わりに、清春様が静かに仰られた。焚き火の炎の中に拾ってこられたであろう薪を放り込まえれると、ぱぁっと火の粉が舞い上がる。
「当分の野宿は覚悟していたのですがね。短くて助かりました」
爆ぜて、揺れる炎に照らされながら、清春様が笑われる。
優しいこの方は、なんでもないことの様に仰られるけれど。それがどんなに嬉しくて仕方のないことか、私にしかわからないのだろうな、なんて思う。
「いい男じゃない。離しなさんな」
背後から彼女のそんな言葉が聞こえて振り返ってみたのだけれど、もうそこに川の主の姿はないのだった。
服を乾かされているのは、先の川の主の悪戯で水に濡れてしまったからで。乾くのにまだこんなに時間がかかっているのは、薪にする乾いた木や食べられるものを探すのに苦慮されたからのようで。本当にごく僅かの時間だけが流れていたようだった。
焚き火には食事の準備がなされていた。
清春様に促されて、焚き火を挟んで彼の向かいに座らされる。
竹の水筒を割いて釜と蓋にして。お供え用のお餅を小さく切ったものを炊いて、柔らかいあられのようなご飯にする。竹の水筒に水や山菜の若芽を入れたものに焼いた石を放り込んで、汁物にされて。そして温かな食事を振る舞って下さる。
ありあわせどころか、何も無いところからのお食事なのに何よりも美味しくて。その手際の良さや慣れた様子に、清春様の過ごされてきた時間を想う。
日ノ本中を回られるお仕事は、きっとこの様な宿のない夜も多くて。もっと昔の動乱の時代にも、こうして焚き火にあたる人生を送られた方なのだと思う。静かに食事をなさるその姿に、優しいこの人に、ぼうっと熱に浮かされて、目を離すことは出来なかった。
食事が終わる頃には夜も随分と更けていた。幽世から還ってきたときの動悸とこの社に来るまでの疲れとが顔を出して、うつらうつらとする私を見兼ねて清春様が寝床につくように仰られた。
木と植物の葉で拵えた簡易的な寝床。それでも十分に暖かくて、横になるとすぐに睡魔が押し寄せてくる。
”火の番をする”、そう静かに告げられて、清春様は焚き火に向かっている。
滝壺から離れた場所なのに、まだ少し水の叩きつけられる音が聞こえる。火の爆ぜる音と、身動ぎをしたり何か支度をする清春様の衣擦れがすぐ近くにある。
見上げれば夜空は満天の星空が広がっている。そんなものに目を奪われながら、もう少し傍に居たいと思っているのに。
何だかとても暖かで安心があって。
睡魔はそっと、私の意識を奪っていった。
幽世にさらわれた。
そんな大事件が嘘の様に穏やかな。そんな睡魔だった。
簡易的な寝床に横になると、すぐに寝息を立て始めた彼女の寝顔を眺めている。
静かに、それでも確かに上下する体は、生者のもので。ここに確かに彼女が存在している。
目の前から彼女が消えた光景は、恐怖以外の言葉では言い表せない。先の季節外れの桜の怪異よりも唐突に、確かに横に存在したはずの彼女が消えてしまっていた。
俺の他に誰もいなくなった世界に、滝が勢いよく水面に打ち付ける音以外に何も存在しない。
忽然と、唐突に。
まるで最初から幻だったかのように。塵ひとつ痕跡を残すこと無く、消えてしまっていた。
またか、という思いは僅かにしか湧かなかった。
もう二度と逢えないかもしれない。そんな恐怖の方がずっと大きかった。
舞香さんは随分楽しげに、親しげに会話に興じていたけれど。相手は川の主。それもこの地方を代表するような、巨大な川のカミ。この地に人が住まうよりもずっと古からこの地に在る存在に、人の理などは通用する筈がない。
たかだか数百年の樹齢の妖気を帯びた存在とは根本から異なる存在。俺には妖達の世界など想像も付かないが、子どもと老人との時間感覚が異なるように、川の主と桜の怪異とでは、乖離する時間に違いがあることは容易に想像が付いた。
”あるいはとびっきり呪われた子なのかもね”
いつか、義姉が呟いた言葉が頭を過る。
人ならざるものにあれだけ好かれる少女は、異なる世界に棲まうものに愛され誘われるような存在は、人の世界で生きていけるものなのだろうか。そんなことまで思った。
滝の音がうるさいのに、ひどく静かな場所に取り残されていた。
最初から幻だったらどんなに良かったか。
彼女の息遣いや佇まい、その確かな存在が本の数瞬前まで確かにあった。掌に残っている彼女の手の暖かさを、嘘と断じることは出来なかった。
この世の中に、決して触れてはいけない神秘が存在することを、そうして2度も体感した。
それがたったこれだけの時間で還ってきたのは、僥倖という他ないだろう。
カミが気を利かせたのか、彼女の奮闘の賜物なのか。彼女は還ってきた。こちらの心配などに気付くこともなく、静かに穏やかに眠っている。そんな光景に、彼女がこうして静かに寝息を立てていることに安堵のため息が漏れる。
幸せそうに、眠っているように見える。まるで幸せな夢でも見ているように、眠っているように見える。
どこかで、まだ疑っていたような部分があった。
彼女が語る妖たちは、まるで普通の人のような存在たちだ。あの桜の怪異ですら、少し困った友人のように彼女は語る。
妖と呼ばれる類の存在が、ただただ得体のしれないものたちではないのかもしれないと、彼女の傍にいると思えてくる。
俺の家族だった人たちが見ている景色とは、ずっと別の景色を彼女は見ている。
妖が視えるが故に、彼らを使役して。そうして妖からの復讐を恐れて滅びていった人たちとは、根本から異なる景色を彼女は視ている。
羨ましさと尊敬と、そして不憫さも思う。
普通の娘として生まれれば、あんな顔を浮かべることも無かった筈だ。野営地に突然飛び込んできた彼女の姿は、敵中で孤立し夜通し駆け回りそして仲間のもとに出会った時の俺のようだった。
生きるのか、死ぬのか。
そんな危うい峰の上に、彼女も立っている。
それでも今は、こうして僅かな時間だけで彼女を還してくれた川の主に、深く頭を下げるのだった。
見も出来ず、感ずることも出来ない俺の感謝など、伝わるかすら定かでなくとも。彼女を還してくれた、超常の存在に礼を尽くすのだった。
翌日。朝露の冷たさに目を覚ます。清春様はもう起きていらして、と言うよりもずっと火の番をされていた様子で。熾火になった炎の前に静かに座っていらした。
寝ずの番をさせてしまったことを申し訳なく思っていると、徹夜はなれていますから、と仰られ。妖の怪異を巡る旅でも、武士としてかつての動乱に赴かれていた時も、ずっとこんな生活をなされていたのだと気付いた。
傍らに携えた刀を決して手放すこと無く、横になることもなく仮眠だけを取られている。ある種の職業病だと、笑われるけれど。決して笑い事ではない在り方だった。
顔を洗う水の冷たさに辟易としながらも支度を進めて、昨日の残り物を温めて頂いて。そうして陽が山間の足元をも照らす頃合いになって、私達は山を降りることになった。
滝の音がずっと遠くになって、不意に後ろ髪を引かれるような思いが強く募って振り返ってみると。姿を消していた川の主がそっと佇んでいた。
「もう行くの?」
短な言葉に、無感情な筈の声音に、少しだけ惜別を感じる。彼女ほどの存在が、と思いながら、此処には滅多に人が来ないという言葉も思い返しながら。私にとんでもない恐怖を与えてくれたくせにと毒づきながら。
「えぇ、長居出来るような準備がありませんから。もう降りなくては」
「……そう」
音もなく、地面を滑るように優雅に彼女は私の前にやってくる。
「貴女の事を気に入ったわ。来年も、その次の年も、その次も。また貴女が来なさい」
「え…………」
「ここまで来るのを渋っていたようだけれど、それ以上の見返りも用意したわ」
私の戸惑いなんて意に介すこと無く、彼女が何かを押し付けてくる。
跳ね除ける、訳にもいかなくて。そうして、淡い光を宿した宝玉を両手の中に納めている。
「まだ不完全だけど、それでも幾らかの価値はあるでしょう。だから約束よ。次は何日も遊ぶんだから、お酒を沢山持ってきなさいよ」
そう言い放って彼女は川の中に飛び込んでいき、小さな波紋だけを残して姿を消してしまった。
「どうしました?」
背中から清春様の声がする。そんな心配する様子の声に、どんな顔を浮かべるべきなのかと戸惑いながら振り返る。
「お土産をいただいてしまいました。来年も、その次もずっと来るようにって。……どうしましょうか」
私が両手を差し出すようにして、宝玉を見せると。先の怪異から託されたびら簪の様に、清春様の目にも映る確かな品の様だった。
だからこそ、顔を見合わせて驚きを隠せないでいる。
「これは……。またとんでもないものを手に入れましたね」
「やっぱり、そうですよね」
「このことは絶対に誰にも他言はしないで下さい。義姉さんに……、春香さんにも内密に。素人目にもとんでもない貴覯品だと分かりますから、これ程の品なら人を殺めてでも手に入れたいと思う人間が幾らでもいます、特に鴉宮というところには」
普段驚きを表に出されない清春様が目を見開いて驚いておられる。
先の、桜の怪異からたくされた、びら簪とは比べ物にならないほどの貴重なもの。私の手にはどうしたって余る代物。
それに、そうしたいと自然に思えた。
「これ、清春様に差し上げます」
「はい? 何を言っているんですか、貴女は」
「だって手に余るほど貴重なものですもの。使い方も使い道も分からないし、いつ落として壊してしまうかなんてビクビクするのは嫌なんです」
「いやだからと言ってですね」
そんな押し問答をしていると、背後に何か気配がした。思わず振り返ると共に、大きな水柱が立ち上って大粒の雨を辺りに降らせた。
「うわっ、また!」
清春様のそんな驚嘆の声。今度は私も一緒に雨に振られながら、立ち上っていた水柱の中に巨大な蛇の様な面影を見た。
水柱が止んで、雨も振り終えた後も、その影は雲一つ無い青空の中を高く昇っていく。
一筋の細長い雲の様にあっという間に高く昇って、体をくゆらせるように蛇行しながら天高く消えていく影は、体をくゆらせる度に陽の光に揺れて。きらきらと鮮やかで、それでいて雲のかけらの様にも淡い、極彩色の光を放つのだった。
「……朝の虹は吉兆と聞きますが、折角乾かしたのにまたずぶ濡れですね」
清春様も空を見上げながら言う。
呆れの中に、苦笑いを浮かべられながら。
おそらく、私とこの方とでは見ているものが違うのだと思う。この大粒の雨達が、彼女が空に昇る為に巻き上げた滝壺の水達で。彼女が悪戯にわざと巻き上げたものと知ったらどんな顔をされるのだろうか。
それでも何だか清しくて晴れやかな気持ちになるのだった。
見えているものが違っても、肩を並べて空を見上げながら美しいと言い合えることに。悪戯が好きな友人が出来たと、そんなことに。
「川の主もそうした方がいいって言ってます」
「本当ですか? というか、この雨もそのモノの仕業ですか」
「さて。どうなんでしょうかね」
そうして私達は、仕事を終えて、この滝壺を後にすることにした。
来たときのような、新しいことに期待と不安とを抱えるのではなくて。本の少し後ろ髪を引かれながらも、どこか足取りは軽く誇らしげな思いで。
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