2-5 竜公主

 俺には異界のモノとの交歓は適わない。視ることも聞くことも感じることも出来ない相手と対峙する仕事を生業にしてしまった事に後悔を覚えた時期もある。一度義姉にこの悩みを打ち明けたことがあって、その時は、障りを受ける事のない人間にしか出来ない事がある、と言いくるめられてしまった。

 そんなものかと自分を騙し、そうして怪異の脅威度が分からない調査の仕事を専門をするようになって随分な時間が過ぎた。


 目の前で、舞香さんが虚空に向かって何やら談笑をしている。聞き役に徹して相槌を打つばかりだけれど、時々に虚空に向かって酒を注ぎもする。注いだ先から酒が見えなくなる光景は不可思議としか言いようのない、初めての光景だった。

 けれど、舞香さんには和やかに談笑しながら酌をしている。彼女にとっては至って普通の光景であることを理解する。

 微かに緊張した様子でありながらも、毅然とした姿は堂々としたもの。

 それは舞香さんと俺の視えているものが決定的に違うことの証明に他ならなくて。視えも聞こえも感じも出来ない妖という存在を、認めざるを得ない決定的な光景だった。


 この不可思議な光景の、奇怪な酒席に俺も座らされていて。持たされているお猪口には酒が揺れている。この程度で酔う事はないのだが、先日深酔いし舞香さんに恥ずかしい姿を見られてしまい、いつ舞香さんが危険な目に遭うか分からない状態で酒を嗜む事は出来なかった。

 だが、余りにも呑気な雰囲気に。初めて見る朗らかな舞香さんの様子と大量に持ってきた酒が片っ端から空けられていく光景に、何だか一人気を張り続けているのも馬鹿らしく思えてくるのだった。

 そうして、ついに口を付けてしまった酒は、芳醇な桃の香りが広がる格別のものだった。



 妖というものたちは本当にお酒が好きで。清春様が担いできた酒瓶がもう幾つも空けられてしまって、それでも構わずに彼女は嬉しそうに楽しそうにとしている。

 持ってきた貢物は一頻り眺めた後は、私達に食べるように言う。

 貢物は捧げられることが重要で食べることはないらしい。

 

 それよりも、川の主は話好きで、そして好奇心旺盛で。私達がやってきた武陽の街のこと、維新後の近代化していく世の中の事、何より私の普段の生活に、特に興味を持っている様子だった。


「へー、それじゃあ西洋のどれすと言ってもやってることは着物と変わんないのね」

「そういう部分もありますが、でもやっぱり本物は違いますよ。ひらひらとして華やかとして」


 今はそうして俄仕込みの西洋のドレスについて話している。彼女自身とても優美な衣裳を纏っていて、それでもというか、だからこそというか。自分の知らない服飾にはとても興味津々のようだった。

 普通のお友達とするような、そんな他愛のない話に興じていると、彼女は本当に人間のようで、とても異形のモノとは思えなくなる。


「ふーん。じゃあ今度着てみせてよ。楽しみにしてるから」

「え? また来るんですか?」

「あら? 嫌なの?」


 そんな彼女とのやり取りに、ここに至るまでの道のりの険しさと、”私の代わりにある社に行ってほしい”という春香さんの言葉を思い出す。

 彼女は、実は川の主がこんなにも人好きのする存在だと知っていて、下手に機嫌を損ねる訳にも行かないから、妖が視える私を変わり身に、犠牲にしたのではないかなんて勘ぐってしまう。

 麓なら兎も角、この山の山頂近くまでやってくるのは随分骨が折れる仕事になる。


「嫌、という訳ではないのですが、もう少し麓のお社でお会いできると助かるのですが」

「………………」


 すっと彼女の目が細まって。楽しげな空気がぴたりと終わる。

 滝が水面を叩くごぉおっという強い音だけが響く。

 ただならぬ雰囲気を感じて清春様も脇に置いていた刀を近くに寄せている。

 彼女達はどんなに人の様に思えても、あくまで異形の存在。何がきっかけで豹変するか分からない。

 逆鱗に触れてしまったのだろうかと、冷や汗が伝う。


 細く尖らせた目をゆっくりと閉じて、持っていた盃を乾して。それから低くて、悲しげな声で彼女がぽつりと告げる。


「ずっと昔はそうだったんだけどね」


 その言葉の意味を測りかねて、押し黙ったままでいる私に川の主が続ける。


「ずっと昔は、支流のほうぼうのお祭りに呼んでもらったんだけどね。今はもうそうじゃなくなってしまったのよね」


 感情のない淡々とした声。けれどもそこには幾層もの想いが込められている。


「ねぇ貴女。流し雛っておまつりを知ってる?」


 不意に彼女が問うてきて、私がきょとんと無知を晒すと、ずっと昔の想い出を懐かしむみたいに遠い目を浮かばながら彼女が語りだす。

 ただ、変貌する雰囲気にぞわりと鳥肌を全身を駆ける。

 恐ろしかったり、悲しかったりはしない。ただ目の前の童女が纏う雰囲気が変わる。


「昔、ちゅうなごん様がこられた時に都から伝わったおまつりでね、人形を用意して、厄を移して川に流してむびょうそくさいを願うおまつりなの。このおまつりの時だけはごちそうが用意されてね、中でももち米を焼いて作ったあられが美味しくてね。ほんとうに好きだったなぁ」


 彼女の言葉が、突然幼娘の様な言葉に変わる。違和感に鳥肌が収まらないままでいると、ぶわりと彼女から白檀と白桃の香りとが強く辺りに広がっていく。「あ」なんて、驚愕の声を上げる暇もなく、世界が切り替わる。

 決して閃光のようには眩しくない白い光が、辺りを包んで全てを塗り替えていく。指先から質感の無い水の中に潜っていくような、何かが変わっていく、そんな感触だけを覚える。

 次に目を開けた時は、慣れ親しんでしまった感覚を覚える。別の世界に立ち入ってしまった感覚を、その違和感を全身に感じていた。

 

 見渡す限りの岸壁に囲まれた滝の傍から、何処かの河原らしき場所に移っている。

 ぞっと悪寒が全身を巡って冷や汗が滴る。

 此処に清春様の姿はない。在るのは私と彼女との2人だけ。

 

 妖が見せる幽世の異界に取り込まれてしまっている。

 私のそんな驚愕や震えなんかに目もくれず、彼女はじっと、そうしてずっと昔の過去に浸っている。遠い昔の、彼女の想い出の光景に。

 視線の先に写っているのは一人の幼娘。彼女と良く似た姿の、更に幼くした童女。

 石を拾ったり草を引き抜いてみたり、爛漫に笑顔を浮かべている。


「でもある年からずっと雨が止まなくてね。川が毎日のように暴れて、堤が切れて、たくさんの人が死んでしまったの。そうして誰かをカミ様の遣いに出すことになって、このコが選ばれたの」

 

 映し出される情景で、少女は大層なもてなしを受けている。周囲の人間は粗末な着物を着込む中、彼女は明らかに異なる格式の高い衣裳に身を包んでいる。白衣と赤袴に似た衣装、巫女のような出立。

 彼女はご馳走を振る舞われると、神輿のような台座に乗せられて、川の上流の、山のずっと奥にへと運ばれていく。

 きっと幾度も繰り返し眺めたその光景を、じっと彼女は見つめている。


「……無意味な事なのにね。随分と昔は、こうして人の子を贄にして怒りを鎮めようとする風習があったのよ」


 幼娘のような口調は、この幽世にやってきてからは止んでいる。力なく告げられた彼女の言葉は、やるせなく、虚しさを思わせる無感情なものだった。それでも、この空間に広がっている昔の記憶を愛おしそうに目を細めてもいる。


「彼女を捧げて以来、この川が暴れる事が少なくなって、彼女が好きだった流し雛の祭り事が下流の村々でも行われる様になったのよ。厄を移したり、願いを籠めたり、そうして人の想いが私に入ってくる光景はなかなか壮観だったのよ。私の鱗に陽光がきらめくみたいでね」

「……。では何故、その風習が行われなくなったのでしょうか」

「……………………」


 何が彼女の逆鱗に触れるか分からない。それでも尋ねてしまったのは、私の興味以上に川の主が話したそうに見えたから。

 案の定、再び彼女が口を開く。


「……ほんの少し前、大きな地揺れがあったのよ。幾つもの山滑りが起きて川の流れを変えてしまうほどの、大きな地揺れがね」


 彼女が語った傍から、この空間に広がる光景が姿を変える。そして、凄惨と表現するしかない光景が広がる。

 濁流が巨石を巻き込みながら、人々を、村や田畑を飲み込んでいく。

 数多の命が河川の氾濫に、彼女に飲み込まれて潰えていく。

 それをじっと彼女は見据えている。


「……人の子はたくましいわ。こんな凄惨な災いに見舞われても、ちゃんと命を繋ぎ営みを育むのだもの。でも儚いわ。積み上げた伝統も風習も、廃れてすぐに作り変えて、別のものに変えていってしまう。そうして彼女が好きだった風習は廃れて、私の祀り方も変わってしまったの」


 そしてふっと、また光景が変わっている。何の変哲もない川の傍の原野に景色は戻っていて、私と彼女との間を、幼娘が走り去っていく。その娘の原体験とでも言うべき光景が写しだされている。

 

 彼女が向かう先には白い靄が立ち込めている。ただし影だけは靄に映っていて、その全貌は分からないけれど、大きな蛇の様な存在に無邪気に彼女が話しかけている。

 そんな光景に、彼女は静かに目を細めている。


「もうこんな光景は想い出の中にしかないのよ。人は土地の隅々まで田畑に変えて山も木も切り拓いていく。貴女の話だと、海原を割るような舟が海に浮かぶのだから、この水の路も、流域も、渓流も。そして私の姿も、人の子の手で変えられていくのだろうね」


 幽世に広がる昔の想い出達に目を向けながら、私に語りかけるようにも、自分にも言い聞かせるようにも聞こえる口調だった。


「……さて。ちょっとはしゃぎすぎたみたいね。許しなさいよ」


 こちらに向き直って彼女がそう告げたとき、シャボン玉が割れてしまうかのように唐突に儚く、彼女の視ている想い出達が弾けて消えた。

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