第7話

 26年前の秋。この時、永則と糸はまだ吉田に住んでいなかった。永則は忠次に仕え、妻の糸と共に福谷城うきがいじょうの家臣屋敷に暮らしていた。


 この日、二人は並んで山道を下りていた。先の方では荷物をのせた馬とそれを引く者、後ろについて歩く者が何人か。皆、高揚した表情で荷物を見つめては笑っている。


 いくつもある籠の中にはイガを取り除いた大量の栗。保存食にできるので城に住む者総出で収穫しに来たのだ。今年は帰りの荷物がいつもより重い。


 糸は人一倍はしゃいでいる弟の姿にほほえんだ。


「忠次は相変わらず子どもみたいに無邪気ね。いつか祝言をあげる奥さんに呆られないかしら」


「いいじゃないか、殿のよい所なのだから」


 家臣たちも護衛を忘れるくらい楽しかったようで、誰が一番多く栗を拾えるか勝負していた。


「特に今年はお正月早々、攻め入れられて大変だったものね……。こういう楽しみがなくちゃいけないわよね」


 秋の涼しい風を感じながら木々を見つめる。葉は日当たりのいい場所からあたたかい色に変わっている。一本の木に黄、赤、緑の葉が並んでいる姿は豪華な打掛をまとっているようで美しい。


「……何か言ったか」


「え?」


 葉のとばり越しに見える空を眺め歩いていたら、永則が声を潜めた。


「どうしたの?」


「何か泣き声が……」


「なんですって?」


 糸は高貴な者らしからぬ表情で辺りを見渡した。


 不思議な話は昔から好きだ。幼い頃は地元にある山の九尾の狐の伝説を聞いて育った。


「鹿か……。私たちに驚いて逃げたか……」


 残念ながらなんの気配も感じられない。風で葉のこすれ合う音がするだけ。


 永則はかすかにうなると立ち止まった。


「うわぁぁん!」


 子どもの泣き声だ。今度は糸にもはっきりと聞こえた。


 顔を見合わせた二人は忠次たちとは違う方向へ駆け出す。


「お糸!」


 茂みをかきわけた永則が声を上げ、糸は彼の背中越しに茂みをのぞきこんだ。


 そこには大きな声で泣く少年が座り込んでいた。黒い着物はまるでおろしたてのよう。随分立派な生地だ。首の後ろで束ねた髪も綺麗に整えられているのが分かる。


 こんな山道に幼い少年が一人でいるなんて。嫌な予感がよぎる。


「親は? 一緒にここに来たのか?」


 しかし彼は何も答えなかった。泣き続けるばかり。まだ二、三歳だろうか。膝をついた糸たちより小さい。


 少年が袖口で乱暴に目元をこすろうとしたので糸は止めた。懐から手ぬぐいを取り出し、優しく目元を押さえた。


「ダメよ。あとでひりひりするわ」


 やがて少年はおとなしくなり、しゃくり上げていたが涙は止まった。再び同じことを聞いたが少年は首を振る。


「一旦ウチで預かりましょう」


「それがいい。坊や、おいで」


 永則は少年のことを軽々と抱き上げた。少年は警戒することなく、彼の首元を掴んだ。






 少年を屋敷に上がらせると、もの珍しそうに周りを見つめた。


 テテ……と走った彼から一枚の紙が落ちた。永則が拾い上げて声をかけるも、少年は部屋の隅へ走っていってしまった。


「坊や落としたぞ」


「村の子かしら? 興味津々ね」 


 二人はこの屋敷に初めて訪れた子どもの姿にほほえんだ。


「ところでそれは?」


「黒木……吉高?」


 何気なく視線を落として紙を見ると、そこには四文字。


 名前のようだ。おそらく少年の。彼の親が持たせたものだろうか。


「 苗字があるからそれなりの身分を持った者の子どもかもしれんな……」


「黒木なんて聞いたことあったかしら? 忠次に協力してもらいましょうか」


「今日はお疲れだろうから明日にもお願いしに参ろう。早く帰れるといいな、吉高」


 いつの間にかそばにいた少年────吉高の頭を、永則は優しくなでた。






「姉上、申し訳ありません……。この辺りで黒木という苗字を持つ者はいないようです」


 忠次は例の紙を下ろすと頭を下げた。


「あなたが気にすることじゃないわ。家臣たちにも申し訳ないことをしてしまったわね」


 当の本人はここでも周りのものに次から次へと目を移している。正座をしておとなしくしているが、視線は忙しそうだ。


 すると彼は立ち上がり、床の間の刀掛けに向かって一直線。


 吉高の身長よりずっと大きな得物に手を伸ばした彼を、永則がすかさず持ち上げた。


「まだお前には早い。大きくなってからな」


 ジタバタとしていた吉高は遠い所で着地させられ、頬を膨らませた。


 その様子に忠次は大笑い。


「はっはっは! 刀が気になるのか。吉高よ、侍になるか?」


「さむらい?」


 舌足らずな声だ。初めてまともに声を発した瞬間だった。目を丸くした永則と糸は顔を見合わせた。


「あぁ、侍だ」


 忠次は立ち上がり、太刀を持ち上げて吉高の小さな手にふれさせる。


 その瞬間、子どもらしい目が飄々とした大人のものに変わった。ように糸には見えた。


 結局、吉高は二人が引き取ることになった。











 吉高に物心ついた頃、剣術の特訓が始まった。


 汗だくになりながら木刀を懸命に振り下ろす姿は誰から見てもまぶしい。


 師範は忠次の家臣。剣術と言ったらこの男、と誰もが言うほどの腕前の持ち主だ。


 彼のおかげで吉高の実力はメキメキと上がっていった。


 糸と永則の背を追い越し、棒切れのようだった手足は木の幹のように頑丈になっていく。


 そんなある日。朝、糸は目覚めて腰を抜かした。


 我が家の床の間に見慣れぬ太刀と脇差が増えていたからだ。永則があつらえたとは聞いていないので、突然ふってあらわれたようにしか見えない。


 太刀の柄は青く、脇差は赤い。鞘はどちらとも黒。生き物のように気を放っているような刀だった。


 なんとも不思議な贈り物を吉高は疑うことなく自分のものにした。


「俺のための刀じゃないかと思う」


 彼は柄を握りしめると、初めて刀にふれた時と同じ顔つきをしていた。


 この時の吉高は15歳に成長していた。年齢はこの屋敷にやってきた日を一歳にし、秋が来るたびに年齢を重ねていった。


 そろそろ初陣を、と誰もが考えていた頃でもある。


 それは吉高の別人格を生み出すきっかけとなった。






 吉高が15歳になってから起きた戦は、彼の初陣になった。


「本当に平気なの? 怖くない?」


 糸は吉高が籠手こてをつけるのを手伝いながら眉を下げた。


 彼はますます凛々しくなった顔を真正面に向けている。


 近頃は忠次の美男甥として他国の武将に知られ、”ぜひ我が娘の婿に”と声をかけられることが多い。しかし、彼はどれも断っている。


「あぁ。この日のために鍛錬を積んできたから」


「戦は鍛錬と違って見ず知らずの相手と戦うのよ。命の取り合いよ……」


「お糸。心配なのは分かるが吉高の好きにさせてやれ。こいつはもう、立派な大人だ」


 永則は吉高の太刀と脇差を手にしている。彼は数年前に足を悪くし、戦からは退いていた。


 吉高は視線を落とすと、困ったように頬をかいた。


「……あまり心配されると自信をなくす」


「そうね、ごめんなさい。武運を祈ってます。必ず……生きて帰ってくるのよ」


 目元を押さえた糸は、自分を納得させるようにうなずいた。


 戦の出発前だというのに、吉高は晴れやかな笑みを浮かべた。











 これだけ家から離れて過ごすのは初めてだった。


 辺りは暗く、焚火が煌々と輝いている。その周りを兜を外した男たちが酒を片手に騒いでいた。


 吉高はその輪から外れ、まだ慣れない酒を舐めるように呑んだ。


「吉高やったな? やるやん!」


「それは……どうも」


 酔っぱらったガタイのいい足軽に背中を叩かれた。彼は西の生まれで、聞き慣れない言葉を使う。


 遠慮のない力に咳き込むと他の足軽たちが笑った。その痛みに苦笑いしながら、吉高は心の中では全く笑えないことに気づいた。


「今日は呑んで騒ぐで~!」


 酔っ払いの音頭に足軽たちは盃を一斉に上げた。吉高も控えめに腕を上げ、盃を下ろした。波打つ水面に写った、瑠璃色の瞳と目が合う。


 鼻の頭には一本の切り傷。彼はそれをなでると、膝の上で拳を作った。


 殺気を持った槍の穂先が鼻先をかすめた時、自分の中でおぞましいものが生まれたのを感じた。


 それは吉高の中で暴れ、彼自身も無我夢中で刀を振るっていた。気づけば目の前には敵の死体の山。付近の川は血の海に変わり果てていた。


「鬼神っちゃーおめぇみたいなヤツのことを言うんだな。鬼もおったまげて逃げちまう勢いだったぜ」


「普段は優男なのによぉ。やっぱり人は見かけに寄らねぇってか?」


「金の目なんて縁起ええやん。どうなってるん?」


 吉高の周りを足軽たちが囲い、彼の無双ぶりについて語り合っていた。吉高は一人、それを聞きながら体と心が重くなるのを感じた。


(俺がやったことは人ではない……。なぜあんなにも人を斬れた? 戦だから、だけではない……)


 楽しんでいた。自分の中に生まれたおぞましいもの────悪鬼あっきが、人を斬り殺すことを楽しんでいた。


 剣を交えている間、つぶてや矢が勢いをつけてとんできたが、避けるどころか斬ることすらできた。


(俺は……人ではないのか……?)


 いつしかそんな疑問が生まれた。


 だが、周りに"鬼神"と呼ばれ頼りにされていたので戦う他なかった。


 こうして吉高の名は隣国に轟き、敵からは何よりも恐れられる存在となった。


 戦が起きる度に呼ばれたが、大きな傷を作ることはないので甲冑を身に着けたのは最初の二、三回だけだ。鉄砲が普及してからも小袖と袴だけで参戦した。











「吉高さんが武神ではなく鬼神と呼ばれるのはその残忍さから……。ただ、本人が言うには"血を流すと何かに取り憑かれる気がする"って。本人の意思じゃないのよ」


 糸と永則から聞いた吉高の過去と素性は壮絶で現実離れしており、戦国時代を取り扱ったアニメや小説にふれている気分になりそうだった。


 だが、これは目の前で起きている出来事だ。テレビの電源を切ったり、本を閉じて目をそらすことはできない。


 レイコは正座をした膝の上で手を握りしめ、唾を飲み込んだ。


 あの後、倒れた吉高をレイコと玉彦で運んだ。力が入ってない男を、まして長身の吉高を運ぶのには骨が折れた。


 返り血を浴びた吉高の姿に糸と永則は息を呑んだ。二人はすぐに彼の体を清め、衣も替えて布団に寝かせた。


「姉御、大丈夫か?」


「ごめん……。まだ戸惑ってるかも」


「すまんな、レイコちゃん。……こんな形で話すことになるとは」


「ううん」


 レイコは未だ眠る吉高の顔を見つめた。


 いつもの涼しげな表情で縁側に腰掛けてお茶をすする彼と、凶刃を振るって返り血を浴びても動じない彼。


(どっちが吉高さんなの……? どっちも吉高さんなの……?)


 思わず手が伸びる。目覚めない吉高のまぶたにふれそうになるが、寸前で止めた。


 彼の周りだけ固い空気が覆っているような気がした。






 永則と泊まることにした玉彦が眠りについた頃、レイコは糸の部屋で針仕事をしていた。


 朝から針を走らせ、あともう少しで完成する小袖。生地はあらかじめ糸が裁ったものだ。


「焦らなくていいのよ。今日はもう寝たら?」


「なんか……頭がごちゃごちゃして寝れそうになくて」


「そうよね……」


 糸はレイコの隣でに腰を下ろすと、小袖の端をなでた。端処理は我ながらうまくできるようになった、と自負している。事実、糸にも褒められた。


「吉高のこと、嫌になった……?」


「そんなわけない!」


 思わず大きな声を出してしまい、レイコはうつむいた。


 突然瞳の色が変わったことには驚いたが、飴のように透き通っていて綺麗だった。


 目の前で惨殺を繰り広げられても彼のことを拒絶できない。肝が据わっているというか、自分自身も残忍さを秘めているのか。


 きっと理由はそうではない。


 柔らかな火の光が照らす部屋。ゆらめく火のように、レイコの視界もにじんでいく。


「お糸さん……。あたしやっぱり、吉高さんのことが」


 本音を口にするとお糸は黙ってうなずき、レイコの手を包み込んだ。


「あなたはもう、私たちにとって娘同然よ。好いた男と幸せになりなさい」


 顔を上げると燭台の火が彼女の瞳に写り込む。


「戻った方がいいと思うけど、やっぱり私たちはレイコちゃんにいて欲しいのよね……。一緒にいて楽しいし、何より吉高も楽しそうだし」


「吉高さん楽しそうなの?」


 半信半疑で聞くと、糸はいつものようにからかわなかった。優しい瞳で口を開く。


「えぇ。あなたが来るまで、戦以外ではぼんやりしてることが多かったわ。でも最近はいきいきしててなんでもない生活を楽しんでるように見える。戦を知らなかった頃の彼みたいよ」


 レイコの目頭が熱くなる。


 吉高はおだやかでクールで。一緒にいて毎日楽しかった。きっと本人には言えないけど、新婚夫婦のような生活を送ることができてこそばゆかった。


 糸はレイコにとっていつの間にか母親のような存在になっていた。


 好きになってしまった男のことを素直に話せるくらい。


「あの人ね……。あたしがいる時代の男よりずっといいの。社会人になってからは出会い厨しか寄って来なかった。本当にいい人は皆、彼女がいるかもう結婚してる……」


 この時代に来てから初めて人前で泣いた。静かに涙を流していると、心のわだかまりが少しずつなくなっていくようだった。


 この時代ではまだ生まれてない言葉を使っているのに、糸はだまって聞いてくれた。


 彼女はレイコの背中をさすると、自身も目の端を拭って何度もうなずく。


 ワケありでも彼を支えたい。


 自分が元いた時代なんていいから、彼に添い遂げたい。


 ここまでの恋慕を抱いたのは彼が初めてだった。

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