第2話
辺り一面が茜色に染まった。西空の細い雲たちも同じ色をしている。すっかり夕刻だ。
この日、吉高は北にある
普段だったら彼がこうして城内やその周りの監視をすることはない。
しかし今日は、忠次の提案によってここに立つことになった。
『久しぶりに皆で集まろう。門番も櫓の見張り番も全員参加だ』
にぎやかな席が好きな彼は時々、日ごろの労いだと言って酒の席を用意する。吉高も元服する前からよく誘われた。
『しかし……殿、それでは敵の侵入に気づくことができませぬ』
『それもそうか……。ならばこうしよう。全員で順番に交代するのはどうであろう』
ということで吉高は、酒の席に参加する前に櫓に上がった。
「吉高殿、城内の様子は?」
普段は門番をしている男が振り向く。彼は城の外に怪しい物陰がないか見張っている。
ここは川沿いにあるので冷えた風が一番に運ばれてくる。お互いにぶるっと体を震わせると、吉高は目を細めた。
「変わりない。ちと夕日が眩しいくらいだ」
「近頃は日が暮れるのが早くなってきましたな。この前月見を終えたと思ったら、もう紅葉の時期が来ますな……」
時々背中越しに会話をし、吉高は本丸を注視した。
本丸のすぐそば、家臣の屋敷の前で砂が舞い上がった。つむじ風が生まれたらしい。
(こんな時期に珍しい……)
つむじ風は春から初夏にかけて起こりやすい。
町の空き地に発生し、子どもたちがおもしろがってつむじ風の中に立つのを見たことがある。
「……うわっ」
「吉高殿?」
一陣の風にあおられたつむじ風が吉高めがけて飛んできた。砂を含んでいるので濁った色をしている。咄嗟に袖で目を覆った。
「おーい、交代に来たぞー」
「もう? ……あ!」
予定よりも早く次の見張り番たちが現れた。彼らは徳利と肴を両手に、早くも赤い顔をしている。
どちらも立派な髭をたくわえている。ふざけてさわった子どもたちが”猪の毛みたい”と痛がっていた。
「何を持ち込んでいるのです!?」
「見りゃ分かるだろ」
男は人の顔ほどある徳利の紐を掴み、勢いよくあおった。
「我々は酒に強いから大して酔わない。それにここは風が酔い覚ましになる。
二人は肩を組み、がっはっはと腹の底から声を出して笑った。向こうの川岸にまで届いているだろう。
「今晩の鉄櫓は我らにまかせろ! この後の者たちには本丸で酔いつぶれろと伝えておいた」
「全くあの御方は……。吉高殿からも何か……あれ?」
「すまない。先に戻る」
吉高は階段にひらりと身を躍らせた。二振りの刀が激しくこすれ合うのも構わず、一気に下っていく。
つむじ風が去った跡に人が倒れていた。南蛮渡来のマントのようなものを羽織っているように見えた。
(誰だあれは……。どうやって入った)
宴会が行われているとは言え、先程の二人をのぞいて酒が入った状態で見張りをする者はいないはずだ。
残念ながら
もしそうだったら、地元の城や旧地名や戦国武将の名前を聞くはずがない。
『ここに放っておくことはできんだろう』
……と、レイコは吉高に連れられて本丸の中へ入ることになった。まるで武家屋敷のような建物の間を通り、辺りをきょろきょろと見渡す。
四つの
「うわ~……。見学に来たみたい……」
一番大きな建物である本丸に近づいた。現代は開けた芝生広場になっている場所だ。
レイコよりも歴史好きな人やその道の専門家だったら垂涎の景色だろう。
「前を見ろ。また転んだら……いや、かえって正気になるやもしれんな」
「あー吉高さん? あたし一応記憶喪失とかじゃないから……」
先を歩いていた吉高が振り返った。知らず内に足取りが遅くなっていたらしい。
「ではどこから来た? どうやって城内に入れた? 俺には突然現れたように見えたのだが」
吉高の鋭い視線に、踏み出そうとした足を持ち上げたまま固まった。
刀のように鋭い切れ長の瞳。危機的状況でもその美しさに心が揺すぶられる。
(美人って何しても綺麗……って違う違う。ちょっと優しそうって思ったけど……侍だもんね……)
レイコは背中に冷や汗をかきながら後ずさった。目線は吉高の腰。気絶している間に斬り捨てられていてもおかしくなかった。
彼女は両手を顔の横に挙げた。
「あ……あたし! 忍び込んだり、何かを盗ったりとかなんて考えてない。気づいたらここにいたんです」
吉高は袖に手を入れて腕を組んでいる。狼の尾のような髪が風になびいた。
「敵でもないけど、この時代の人間でもありません。今から四百年以上先の時代の人間です。吉田城がある富橋公園のコスイベに参加して、転んだらこの時代にいました」
「時を越えたと言うのか……?」
「はい……。あたしも信じられないんですけど」
信じてもらえるだろうか。まるで小説のような展開を。レイコはうつむき、上目遣いで吉高の顔を盗み見た。
(これで信じてもらえなかったら……)
彼は険しい表情を崩した。初めて顔を合わせた時と同じほほえみを浮かべる。
「嘘をつけない目をしておる……」
「へ?」
その柔らかさに緊張がほどけて泣きだしそうになった。
吉高は腕を組むのをやめると、首の後ろをかいた。
「すまない、試したのだ」
「え……。もーやめてよー! 殺されるかと思ったじゃん……」
「怖がらせてしまったのなら謝る」
レイコは脱力してその場に膝をついた。
戦国時代の侍、というだけで現代人は気圧される。相手には伝わらないだろうが、手加減はしてほしい。
柄に手を添え、吉高はレイコのそばにしゃがんだ。
「今から御館様をはじめ、俺の恩人や家族同然の者たちに会わせるのだ。確かめておきたくて」
「気持ちは分かるけど……。心臓止まるかと思ったわ」
「にわかに信じがたいが……お主は他の誰とも違うように見える。時を越えてもおかしくないだろう」
吉高の視線を感じ、レイコはマントの端をつまんで見せた。
「あ、この服のせい? 着物だけどマント羽織ってるもんね……。あれ? この時代には南蛮貿易でマント持ってる武将いるんじゃない?」
「あぁ、見たことある」
レイコは軽くなった心でいよいよ本丸に足を踏み入れた。
玄関のような入口で下駄を脱ぐと、吉高も足袋を履いた足を草履から抜き去った。
(これが戦国時代ファッション……)
吉高は藍色の小袖に灰色の袴。随分シンプルだが、彼の精悍な雰囲気によく似合っている。レイコは彼に怪訝な顔をされるまで頭のてっぺんから爪先までじっくり見つめた。
”本物”を見ると自作レイヤーの血が騒ぐ。この時代はミシンなんてもちろん無い。どうやって縫い上げたのか気になる。
(現代で言う和裁? なんちゃって和服しか作ったことないから詳しくない……)
「吉高? そちらの方は」
凛とした女性の声が響く。
隣の吉高が即座に刀を外し、片膝をついた。
下駄を隅に寄せていたレイコが顔を上げると、きりっとした和風美女がいた。
年齢はレイコの母と同じくらいだろうか。赤みがかった長い髪の毛をゆるく三つ編みにし、後ろに垂らしている。
季節を先取りした紅葉の打掛に身を包み、中の小袖はからし色で秋らしい。身体の前でそろえた手は白くてほっそりとしていた。
彼女のそばには二人の女性が控えている。高貴な人だと一目で分かった。
「お姫様?」
「頭を下げんか、
吉高に小声でたしなまれた。慣れない素振りで正座をし、三つ指をつく。
「お姫様はいい……。それにしても、吉高が客人を連れてくるとは珍しいこともあるの」
再び顔を上げると美女と目が合った。控えている女性たちも”かわいらしい……”と、袖で口元を隠している。
「拾いましてございます。旅人のようで、今晩の宿に困っておりましたゆえ」
「見たところ……異国の方のようじゃな、珍しき瞳と髪じゃ。突発的な参加は殿もお喜びになる。旅の方、のちほどゆっくり話そうぞ」
「はい!」
美女に褒められ、レイコははにかんだ。カラコンとウィッグであるとは言い出せず、吉高にもいつ言おうかとポニーテールをなでた。
彼女の後ろ姿を見送ると、二人は静かに立ち上がった。
「もしかして城主様の奥さん?」
「とよ様だ」
「……よくあんな嘘出てきたね」
「間違ってはおらんだろう。時の旅人殿」
吉高が廊下の先を見た。ところどころに燭台が置かれ、火がゆらめいている。当たり前だがこの時代には電気がない。レイコは薄暗さに慣れない目で吉高の後に続いた。
一室だけやけににぎやかな部屋がある。光と声が漏れ聞こえていた。ここは大広間で、大勢集まる時に使う部屋だと教えられた。
「……失礼致す」
吉高が襖を開け放つと、熱気と歓声が顔に直撃した。
「え? 呑み会?」
「そういえばお主には伝えておらんかったな」
大きな板の間だ。三、四十人ほどの男や女たちが集まっている。中には簡素な格好をした少年少女もいた。彼らは五、六人ほどで輪になり、酒や料理を囲んでいる。
円座を尻に敷き、大口を開けて笑っていたり手を叩いていた。
その輪と輪の間をおどけた調子で歩く、というより踊り抜けていく者がいた。
手を右へ左へ、時には打ち合わせて音を鳴らす。足も前後に左右に、小股に大股に開いて時には飛び跳ねながら。
彼の動きに合わせて手拍子や掛け声があちらこちらから響く。
「忠次様の十八番じゃ!」
「これがなきゃ宴が始まらんわい!」
(じょ、城主自ら余興!?)
レイコは飛んでくる名前に耳を疑った。
額に汗をにじませ、掛け声を上げて湧かしている男を改めて見る。やけに上等な小袖と袴を身に着けているとは思っていた。
鮮やかな赤紫の小袖に、赤みが買った長髪をオールバックでまとめている。他の男たちは髪を無造作に後ろで結んだり、地味な色の小袖だ。
子どもたちの輪に入って踊りに巻き込む忠次は髭も綺麗に整えられていた。
「いよっ! 日の本一!」
酒で焼けた声が飛ぶ。小さな子どもを抱え、ゆりかごの動きを真似ていた忠次が振り返った。
「待てい、日の本一は家康様だ!」
「では我々は日の本一の家康様の家臣団じゃ!」
酔っ払いの声に”おおう!”と杯が掲げられる。それを一気に飲み干した彼らは、お互いの杯に新たな酒を注いだ。
その様子を見ていた女性陣はほほえみ、料理に箸をつけた。
「来たか吉高! ……ん、その者は?」
立ち尽くしていたレイコたちに、ようやく忠次たちは気づいたらしい。何者だ、と耳打ちし合っている者もいる。
吉高越しに視線を集めたレイコは、忠次と吉高の顔を交互に見た。
「えーと? こちらのダンディなおじ様が忠次様だよね?」
「気安く呼ぶでない……!」
またしても小声でたしなめられ、さすがに今回はよろしくないかと反省した。
それに反し、忠次は赤い顔で大笑いした。額に汗が浮かんでいる。全力で場を盛り上げていたのだろう。
「はははは! 構わん構わん。吉高の好い人か?」
「違います。……そういえば名前を聞いていなかった」
静かになった宴会場。レイコは吉高の前に立つと、忠次に向かってお辞儀をした。
「
「随分見目麗しい少年だ。今宵は存分に楽しんでいくがよい」
忠次に褒められ、他の者たちも大きくうなずいた。
その反応にレイコは再び頭を下げた。菊光のメイク研究をした甲斐がある。
レイヤー冥利に尽きるが、誤解を解いておかねばならない。
「あ、こう見えて女でして……」
「男装の麗人か! そなたは上背があるしよく似合っておる」
「そうですか? でへ……」
「新しいお料理をお持ちしましたよ」
レイコたちの後ろから、前掛けをしたふくよかな女性が現れた。手には大きな皿。湯気が上がっている煮物が盛られていた。後ろに続く女性たちも魚や肉を焼いたもの、握り飯を運んでいる。
「またしても美味そうなものばかりだ! レイコ、酒でも酌み交わそう。そなたたちも楽しんでおるか?」
忠次は女性たちの手から皿を受け取って配ろうとしている。その姿に若い女性たちは萎縮しているが、年かさのいった女性たちは子どもが張り切って手伝っているようだと見守っていた。
先ほど忠次が踊っていたのはえびすくいだ、と本人に教えてもらった。
レイコと吉高は部屋の隅の方に腰を下ろし、杯を持ち上げた。二人の前には忠次。張り切って踊り過ぎた、と酒ではなく水をあおっている。
レイコは忠次が注いでくれた杯に口をつけた。
「おいしい……! 呑みやす過ぎてもはや水……!」
20歳を迎え、初めて呑んだ酒は日本酒だった。チューハイやカクテルなど甘い酒も呑むが、彼女は断然日本酒派だった。
「いーい呑みっぷりじゃ。この酒がそなたの時代にも伝わっているとは。日の本の宝だ」
忠次にはレイコがタイムスリップしたことを伝えた。彼は未知の話に目を輝かせ、自分も城内で転んでみようかなどと言い出した。もちろん、吉高が止めたが。
「初代城主、
「え、織田信長みたいですね。本能寺の変で自害したけど遺体が見つかってないとかなんとか」
吉田城の鉄櫓が現代に復元されたことを話したら、忠次は吉田城の歴史について話してくれた。
真面目に学んだことがないので、彼から聞く話はどれも新鮮だった。あまりにも楽しそうに聞く様子に、忠次は嬉しそうに語った。
「そなたの時代でもそう言われておるのか! 信長様と言えば今年、甲斐攻略からお帰りの時に吉田城に宿泊なさったのう……」
「それは初めて聞きました。すごい……!」
「今のレイコのように小白殿の話をお聞かせしたら、随分興味深そうに髭を撫でていらっしゃった」
「うわぁ……! オタクそういう話大好きです!」
もしかしたら信長は影響を受けたのかもしれない。自分も行方をくらませ、別人格として新たな人生を歩んでいるのかもしれない。
(信長と同じ時間軸を過ごしているのかもしれないのか……! なんかわくわくする。オタクの血が滾る……!)
レイコは忠次と吉高が出す武将の名前に、激しくうなずいたり曖昧な表情を浮かべたりした。
「家康はもちろん知ってます!」
「……家康様」
「あと真田幸村とか」
「真田……ゆきむら? 聞いたことない名だな」
今度は二人が首をかしげる番だった。
レイコは大人になってから歴史に興味を持つようになった。しかし高校生までは”昔のこと知ってどうすんのよ……”と、授業に真面目に取り組まなかった。
「あ、もしかしたらまだ生まれてないかも……」
「盛り上がっておるの、旅の方」
「とよ、体はもう大事ないか」
とよは打掛の衿を直しながらレイコの隣に腰かけた。先程部屋を出たのは、熱気に酔ったせいらしい。
彼女はレイコの瞳をのぞき込むと、頬をそっとなでた。
「本当に美しい瞳じゃ……。まるで濁りのない琥珀のようじゃ」
至近距離で見つめられると照れてしまう。レイコははにかむと、指で目にふれた。
「これカラコンなんです。シバシバしてきたから外しちゃお」
「ひっ……」
ペロン、と目からカラコンを抜き取り、とよの悲鳴にレイコは”あ……”と固まった。
この時代には無いものだ。免疫のないとよには気色悪く映ったはずだ。
至近距離で見せてしまったからか、吉高も忠次も杯を持ったまま固まっている。
「い……今のはなんじゃ!? もう一度見せてはくれぬか!?」
とよが頬を紅潮させ、ますますレイコに顔を近づけた。興味津々のようだ。
「あ、あれ? 平気ですか?」
「こう、つるっと取れるのが見ていて気持ちいいのう」
「本当ですか? もしかしたらとよ様、角栓抜きとか耳掃除動画好きそう……」
夜中に見始めると止まらなくなる動画だ。レイコの夜更かしの原因でもある。
「この緑の瞳も美しいのう。他にも色を変えられるのか?」
「いえ、これは裸眼です。これはカラーコンタクトと言って……」
「レイコはどうする。ここに泊まっていってもよいが」
宴会はお開きになった。そこら中に酔いつぶれた者たちが転がっている。会社の呑み会よりひどい光景だ。
彼らを踏みつけないようにレイコは廊下へ出た。
「吉高さんが家に来ていい、って言ってくれたのでお言葉に甘えようと思います」
「さようか。レイコ、また遊びにくるがよい。未来とやらのことも知りたいし、とよの話し相手になってやってくれ」
「もちろんです! ごちそうさまでした~」
ほろ酔いで外に出ると、夜風が衣装を突き刺さった。
衣装用の生地は薄くて軽い化繊。畳んで運んでもシワがつきにくいものだ。
「うぅ~さむ!」
レイコは涼しい顔をした吉高の隣で、マントの前をかき合わせた。
だが、町の灯りがないからこそ見える満天の星空が寒さを忘れさせてくれた。
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