第14話

第二十九章:ルンバ


慶一はドッチボールを投げた瞬間、身体の中に何かが動き出すのを感じていた。まるで、ボールが空気を切り裂く瞬間に、自分の意識が新たな次元に引き込まれるような感覚があった。だが、すぐにその感覚を振り払うかのように、もう一度ボールを握りしめた。


千葉はその反応に満足げに微笑み、「いい反応だ。」とつぶやいた。しかし、慶一は次に何をすればいいのか、完全には理解できていなかった。ドッチボールという遊びが、母親の研究にどんな意味を持つのかが、まだはっきりとわからない。


「母親の目指していたもの、君がその全貌を理解する時が来たんだ。」千葉は言いながら、ふと部屋の隅を指さした。「あそこにあるものを見てごらん。」


慶一はその方向に目を向けると、思わず目を見開いた。部屋の隅には、今まで気づかなかった一台の小さな機械が置かれていた。それは、見覚えのある形をしていた――おそらく、家庭用の掃除機だろう。しかし、他の掃除機とは違って、その形状は異様にコンパクトで、動きが滑らかだった。


「ルンバ…?」慶一は呟いた。


千葉はにやりと笑った。「そう、ルンバ。あれが君の母親が最終的にたどり着いた研究の一部だ。」


慶一はさらに驚き、近づいてその機械をじっと見つめた。普通の掃除機と何が違うのか、直感的にその異常さを感じ取った。ルンバは、ただの掃除機ではない。それが、どこか不気味な存在に思えた。


「君の母親は、家電や日常的な道具が持つ“働き”を、身体と心にどう影響を与えるかを研究していた。」千葉は話を続けた。「掃除機や他の家庭用機器が、どう人間の感覚を変化させるのか。ルンバのような自動化された機械には、特に注目していたんだ。」


慶一はその言葉を呑み込みながら、ルンバがどんな働きをするのか考えた。自動で部屋を掃除するというシンプルな役割を持ちながら、その存在が一体どうして重要な意味を持つのだろう?


「母親が目指していたのは、生活の中で無意識的に触れるものが、人間の反応や感情をどう変化させるか、だった。」千葉は続けた。「ルンバが動くたびに、部屋の空気が少しずつ変わる。掃除をしている最中に、人々の感情や心がどう変わるのか、彼女はその微細な変化を追い求めていたんだ。」


慶一はまだ完全に理解できないが、少しずつその輪郭が見え始めていた。人間は日常生活の中で、無意識にさまざまな刺激を受けている。そして、その中でも家電製品、特にルンバのような「自動化された動き」を通じて、感情や反応が変わることを母親は観察していた。


「ルンバの動き、それに合わせて人々の体がどう反応するのか。無意識のうちに、それが人間の脳波やストレスレベルに影響を与えるという仮説を立てたんだ。」千葉は、ルンバを指差しながら説明した。


慶一は、その考えが想像以上に深いものだと感じた。確かに、ルンバはただの掃除機以上のものだった。あの無機質な動き、その音、そして何も言わずに部屋を掃除し続けることが、どんな感覚を人間に与えるのか。自動化された機械が、無意識のうちに人間の行動や心を変える可能性があるという考え方は、非常に興味深かった。


「君がこれを理解できることが、全てを知るための第一歩だ。」千葉は言った。「君の母親が目指していたのは、機械や道具がどれだけ人間の行動に影響を与えるか、ということだった。そして、その影響力を使って、人間をより良い方向に導こうとしていた。」


慶一は深いため息をつきながら、ルンバの動きを見つめた。部屋をゆっくりと進んでいくその小さな機械は、まるで何かを運ぶように、静かに床を掃除していた。その無駄のない動き、一定のリズム、すべてが計算されているように思えた。


「だが、それが何を意味するのか、まだ分からない。」慶一は呟いた。「母親が目指していた“もっと良い方向”って、一体何だ?」


千葉は静かにルンバを見つめた後、こう言った。「それは、君が自分で見つけなければならない答えだ。」


慶一はその言葉を反芻しながら、もう一度ルンバを見つめた。日常の中に溶け込む小さな機械が、母親の研究の中でいかに重要な役割を果たしていたのか。その背後には、まだ解明されていない秘密が隠されている。


慶一は、心の中で決意を固めた。今、目の前にあるすべてを理解し、母親が残した足跡を辿ることで、彼自身の運命を切り開かなければならない。


そして、静かな部屋の中で、ルンバが再び動き出すのを見守りながら、慶一はその「新しい世界」に一歩踏み出す覚悟を決めた。



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(続く)


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