第13話
第二十八章:ドッチボール
慶一がその瓶を手にしたまま、しばらく静かな空間に漂う重い空気を感じていると、突然、背後でドアが開く音が響いた。振り返ると、男ではなく、別の人物が現れていた。若い男性で、どこか馴染みのある顔だった。
慶一は思わずその人物を見つめた。その男性は、慶一の記憶の中でも一度だけ見たことがあるような気がしたが、すぐには思い出せなかった。
「君が慶一か?」男性は軽く声をかけながら、ゆっくりと歩み寄った。
慶一は一瞬戸惑ったが、無意識に頷いた。「はい、そうです。あなたは…?」
その男性はにやりと笑い、手を差し出してきた。「僕の名前は千葉翔太。君の母親の研究に関わっていた者だ。実は、君が来ることを知っていた。」
慶一はその言葉に驚き、しかし何も言わずにその手を握った。千葉の顔には、どこか無邪気な笑みが浮かんでいたが、慶一はその笑顔の裏に何か不安を感じた。
「君の母親が目指していたこと、すべて知っているんだろう?」千葉は言葉を続けた。
慶一は黙って頷いた。「はい…でも、母親がしたこと、ローカルフードの実験、すべてが理解できません。どうしてこんなことを?」
千葉は、少し考えるように目を伏せた後、ゆっくりと言った。「君の母親は、結局、食べ物そのものに対してある考え方を持っていた。それは、単に生物としての栄養を補給するためのものではなかったんだ。」
慶一はその言葉を反芻しながら、さらに尋ねた。「でも、どうして池袋で…?」
千葉は苦笑しながら言った。「池袋での実験、君がまだ理解していないのは、あの場所に隠された真の意味だ。君がそれを見つけ出す時が来る、そう信じていたんだ。」
慶一はその答えに納得がいかなかったが、今はその説明を聞いている場合ではないという気がした。頭の中で複数の考えが交錯し、混乱が募っていた。
突然、千葉が立ち上がり、手を叩いた。「さて、話はこれくらいにして、ちょっと遊ぼうか。」
慶一は驚いて彼を見つめた。「遊ぶ? ここで?」
千葉は肩をすくめ、にっこりと笑った。「そう。ドッチボールだ。君がこれを持ってきた理由がわかるだろう?」
慶一は思わず瓶を手にしたまま固まった。「ドッチボール…?」
「はい、ドッチボール。」千葉は軽く手を振り、慶一に向かって一歩踏み出した。「君の母親が目指していたのは、ただ食べ物を与えることではない。彼女が関わっていた研究の中には、心と体を一体化させる試みもあったんだ。」
慶一はますます混乱した。「一体、どういう意味なんですか?」
千葉は微笑んだ。「ドッチボールというのは、単なる遊びに見えるだろう? でも、君の母親は、あれが持つ力を見逃さなかった。対人関係、そして身体的な反応を引き出す過程こそが、心と体を完全にリンクさせるためのカギだと考えていたんだ。」
慶一はますます理解できなかったが、千葉が示す方向に目を向けると、そこには懐かしい遊具が並べられていた。小さなボールが転がるコートが準備されていた。
「君の母親は、ドッチボールのような瞬発力を要する遊びが、人間の心理と身体にどう作用するかを研究していたんだ。」千葉は言いながら、ボールを拾い上げ、慶一に手渡した。
慶一はそのボールを手に取り、千葉が指示した場所に立つように言われた。どうしても納得がいかない気持ちを抱えながらも、彼はボールを握りしめ、相手の動きを注視した。
「君の母親が目指していたのは、単に実験データを取ることではない。彼女はこのような簡単なゲームを通じて、人々の反応を計測していたんだ。ドッチボールのような競技で、最も重要なのは心の動きだ。そして、その心の動きこそが、後の研究に必要なデータを得るためのものだった。」千葉は、慶一の腕を軽く叩きながら言った。
慶一はその言葉を聞き、やや戸惑ったが、すぐにその背後にある意図が少しずつわかってきた。ドッチボールのような競技は、瞬時の判断力や反射神経を要し、感情や身体の反応を直接的に引き出す。母親がその中に、どんな心理的な変化や身体的な変化を見出したのか、その一端が見えてきたような気がした。
そして、慶一はボールを投げるタイミングを見計らった。ボールを手に取り、数秒の静寂の後、一気に相手に向かって投げた。
その瞬間、ボールが空気を切り裂く音が響き、慶一の体の中に不思議な感覚が広がった。ドッチボールを投げるその動作に、母親が求めていた「反応」が確かにあったのだと感じた。
「君がその感覚を理解できるとき、すべてが繋がる。」千葉はにやりと笑い、ボールを受け止めた。
慶一はその言葉に再び深い疑問を感じながらも、次の瞬間に備えて体を構えた。ドッチボール――その中に、すべての答えが隠されているのかもしれない。
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(続く)
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