第10話

第二十五章:口が臭い


慶一は、青年の言葉が胸に重くのしかかる中で、無意識に顔をしかめた。母親が残したもの、そしてその背後に潜む暗い力。彼の全てが次第に崩れ落ちていくのを感じていた。


だが、それと同時に、何か奇妙な感覚が湧き上がってきた。それは、身体的な違和感だった。慶一は手を口元に当て、何度も呼吸を深くしてみた。しかし、その度に、口の中に広がる異常な感覚に気づかざるを得なかった。


「口が臭い…?」


慶一は驚き、再び自分の息を確かめるように深呼吸をした。確かに、普段感じることのないような、強い異臭が漂っていた。それは、ただの口臭ではなかった。口の中から発せられるそれは、異常な腐敗臭のような、重く、そして不快な匂いだった。


慶一は慌てて鏡を探し、近くにあった小さなポケットミラーで自分の顔を確認した。しかし、そこに映ったのは、変わりない自分の顔だった。それでも、どうしても感じるその嫌な匂いに、慶一はますます不安を募らせた。


「これは…一体、何なんだ?」慶一は、自分の口臭に困惑しながら呟いた。だが、すぐにその原因がわからないことに焦燥感を覚えた。口の中に腐敗したような味が広がり、呼吸をするたびにその臭いが強くなる。普通の体調不良とは明らかに違う感覚だった。


その時、青年が不意に口を開いた。


「それは、『バァバ』が残したものだ。」


慶一は青年を見つめ、まるでその言葉が冗談のように思えた。「『バァバ』が…? それがどういうことだ?」


青年は冷静に答える。「君が口臭を感じるのは、君の体内に、母親が残した成分がまだ影響を与えているからだ。あの鯨肉の実験で使われた成分は、身体に異常を引き起こす。君がその影響を受けている証拠だ。」


慶一は驚き、思わず口元に手を当てた。「それが…母親の実験の一環だって?」


青年は再び静かに頷いた。「はい。あの鯨肉の成分は、身体に強い依存性を引き起こす物質を含んでいる。最初はただの口臭のように感じるかもしれないが、時間が経つにつれて、その影響は全身に広がっていく。君の体は今、母親が遺したものを宿している。」


慶一はその言葉を信じるしかなかった。どこか頭の片隅で、それが現実だとは認めたくない自分がいた。しかし、口から発せられるその異常な臭い、そして身体の中に広がる不安定な感覚は、確実に彼を追い詰めていた。


「それを治す方法は?」慶一は必死に尋ねた。


青年は少しだけため息をついた後、慎重に答えた。「治す方法はあるが、簡単ではない。君がその成分を排除するためには、まず体内のバランスを戻さなければならない。しかし、そのためには…君が持っている力を正しく使うことが必要だ。」


慶一は、その言葉に戸惑いを覚えた。「力…?」


「はい。」青年は続けた。「君の母親が残したもの、その成分を完全に排除するためには、君自身がその力を解放し、身体の中からその毒を浄化しなければならない。ただし、その方法は危険を伴う。君の体がその力を受け入れる準備ができていないと、逆に取り返しのつかないことになる。」


慶一はその説明に驚き、しばらく黙って考え込んだ。自分の体内に残された「力」を解放し、そして母親が残した成分を排除する…それがどういうことなのか、すぐには理解できなかった。それにしても、口の中に広がる不快な腐敗臭が、まるで自分の体が侵されていくような感覚を強調していた。


「じゃあ、どうすれば…?」慶一は息を呑みながら問いかけた。


青年は少し間を空け、厳しい目で慶一を見た。「君が選ぶべき道は、もう一つしかない。君の母親が遺したこの力を完全に引き継ぐのか、それともこの世界からその影響を断ち切り、全てを終わらせるのか。だが、どちらを選んでも、君の体にはその影響が残り続ける。それを受け入れる覚悟があるなら、今すぐにでもその力を解放することができる。」


慶一は息を呑んだ。自分の体が、母親の遺したものに支配されつつあることを感じると同時に、その力を解放することが本当に正しいのかが分からなかった。しかし、もしそれが自分にとって唯一の道だとしたら…。


「俺には、もう選択肢がないのか?」慶一は震える声で言った。


青年は冷徹に答えた。「君には選択肢がある。ただし、その代償を払い続ける覚悟があるかどうか、それを決めるのは君だけだ。」


慶一はその言葉を胸に、深く息を吐いた。彼の中で何かが決まりかけていた。口の中の異常な臭いが、彼に何かを告げているようだった。それが彼の未来を決定づける何かの兆しであるなら、もう後戻りはできないのだろう。


そして、彼は心の中で固く決意した。彼の選択が、どんな結末を迎えるにせよ、もう逃げることはできなかった。



---


(続く)


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