第4話

 翌日、私たちは改めて西野家に集合することになった。冷静に考えたら私は参加しなくても良い話なんだけど、舞香がチワワみたいなつぶらな瞳をウルウルさせて「鷺沢ちゃん……」と私の腕にしがみつくもので、その時点で私に拒否権はなくなる。それに、私だって舞香のことが心配なのだ。あと、まぁ……あの人たちに興味があるって言うのも無くはない。

 当の勧修寺教授と烏丸は私たちの前を並んで歩いている。

 梅小路さんの姿が見えないのは途中で買い物をしてから合流するのだそうで、昨日はあんなにギャアギャアやっていた教授と烏丸が何やら真剣に話し込む様子は「対等」って感じがして、こんなのを「バディ」って呼ぶのかなと思ったりもする。きっと物語の主役になるのって、こんな人達なのかも知れない。

 舞香の家はマンションの高層階で外の景色がよく見えた。何も置いていないベランダは少し殺風景だけど、この高さのベランダに出るのは慣れないと少し勇気がいりそう。


 勧修寺教授が西野家に今回の件を説明している間、烏丸の方はポケットに両手を突っ込んだ怠そうなポーズのままで家の中をゆっくりと見回している。まるで警戒心の強い猫みたい。


「おいアンタ」


 その烏丸が不意に舞香に呼びかける。


「花瓶、あるだろ」

「か……花瓶……」

「白い……あー、陶器っての? 細長くて下の方が丸くて、表面にレースみたいな模様がある」


 烏丸が宙を見ながら言葉を重ねるに連れて、舞香の顔色が白くなっていく。下を向いてしまった舞香を見兼ねてか、舞香のお母さんがクローゼットから花瓶を取り出して私達の前に置いた。白いほっそりした花瓶は、言われた通りに下側が丸くて、レースみたいな模様がついている。

 それで、これがどうかしたんだろうか。

 不思議に思っていると舞香が震える声を絞り出す。


「わたしの、せい……」


 指先が白く変わるほど強く、手を握りしめているのが分かる。恐怖に歪んだように掠れた声。極度の緊張から小刻みに震える肩。


「わたしが、この花瓶で……」


 夢の中で、舞香はお祖母さんのそばに立っている。寝たきりのお祖母さんが舞香に暴言を吐く。舞香は耐えて、耐えて、それでも暴言は止まなくて。それで、もうたくさんだ、と思う。


「そ、それで、私はその花瓶を持って……花瓶で祖母を……」


 ……それ以上言わないで。あまりに辛くて耳を塞ぎそうになる。でも、舞香の言葉を遮ったのは私ではなくて烏丸だった。


「それは夢の中の出来事だ。現実にアンタの婆さんはきっちりと天寿をまっとうしてるだろ」


 弾かれたように顔をあげた舞香は、蒼白な顔のままで烏丸を見上げる。


「うん、西野さんのお祖母さんは認知症の不穏症状が夜に顕著になるタイプだったんだね」


 それまでことの成り行きを見守っていた勧修寺教授が口を挟んだ。私たちの視線が一斉に集まっていることを全く気にしていない穏やかな口調が、のんびりと続きを告げる。


「一言で認知症と言っても、タイプは様々なんだよ。オーソドックスな物忘れを含む健忘症から始まって、自分が何者か、今居る場所がどこなのか、時間と空間が分からなくなる見当識障害、さらに進行するとそれらが複合的に合わさって混乱し、人によっては無気力になったり、疑心暗鬼になったり、暴れて手が付けられない状態になることもある。

 ただ、それが一日中持続するわけではなくて、何かのきっかけで引き起こされる事例は多い。例えば食事のタイミングだとか、夕方から夜間にかけての気圧や気温の変化がトリガーになる事も多いね」


 教授はゆっくり舞香に向き直ると、顔を覗き込んだ。


「だからね、西野さんのお祖母さんがご家族の前だけでそんな状態になったのも、全てはご家族やお祖母さん自身ではなくて、病気のせいだったんだ」

「……病気?」

「そう。残念ながら自分の意思では制御できないもの、なのだよ。ご家族も西野さんも大変だったろうに、とてもよく頑張ったね」


 舞香の目に大きな涙の粒が膨らんで、キラキラ光りながら転がり落ちた。私もつい涙腺が緩む。勧修寺教授は少し変わった人だなんて思っていたけれど、必要な時に必要な言葉をかけられるって、とても尊くて優しい心の持ち主だ。

 玄関の扉が開く音がした。慌てて廊下を歩いて来るのは梅小路さんで、両手には大きな花束を抱えている。


「すみません、遅くなりました!」

「その花……」

「ロサ・ダマスケナ、だね」


 どこかで嗅いだことのある香りが部屋の中を通りすぎる。花束を抱えたままの梅小路さんは迷うことなく花瓶に向かい、花束と一緒に抱え直すと「洗面所をお借りします」と再び姿を消す。


「ダマスク?」

「うん。薔薇の原種に近い品種で、ダマスクローズって呼び方が一般的かな。薔薇の中でも香りのよい品種だよ」


 ダマスクローズ。それなら聞いたことがある。ちょっと良い化粧品なんかに香料として書いてあるのを見かけることがある。

 舞香のお母さんが、懐かしそうに目を細めた。


「舞香の名前、その花に因んでつけたのよ」

「……私の、名前?」

「そうよ。ダマスクローズってとっても良い香りだし、お花も、まるでドレスを着たお姫様が舞っているみたいでしょう?」

「……そ、そんな可愛いの、似合わな」

「お祖母ちゃんがつけたのよ」

「え?」

「だからほら、お庭で育てていたでしょう」


 その時だった。


 さっき少しだけ香ったダマスクローズの香りが、ふんわりと部屋中に広がり始める。そうか、あれはいつも舞香から香っている匂いだ。いつの間にか戻って来ていた梅小路さんが、花瓶いっぱいに生けられたダマスクローズを持っているのが見えて。それから……


 不思議なことが起きた。


 気がつくと、私たちは真っ白なダマスクローズの咲き乱れる小さなお庭の中に立っている。

 お庭の中心には背を屈めてせっせと薔薇の世話をする老婆の姿。どこからか小さな女の子が駆け込んできて、嬉しそうに老婆の手を握る。その手をさすりながら老婆が呼びかけた。


「ごめんね、舞香ちゃん。おばあちゃん、辛い想いをさせてしまったよね。ごめんなさいね」


 ごめんね。ごめんなさいね。ごめんね。ごめんね。ごめん。


「……お婆ちゃん……っ!」


 こんなにもハッキリした大きな舞香の声を初めて聞いた。ふわふわの花に囲まれたお婆ちゃんがわずかに微笑んでこちらに目を向ける。


「…………あ、」


 隣で舞香が小さく何かを言ったようだったけど、それは眩しくて、ささやかで、私の耳までは届かなかった。ただひとつだけ分かったのは、舞香がすっかりと包み込まれてしまうような大きな愛情が確かにそこにあったのだ、という事だった。

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