第2話
冷えた廊下に立つ私と舞香の背後を学生の集団が騒がしく通り過ぎる。びくりと肩を震わせる舞香を横目に、私は目の前の扉を手の甲でノックした。
「はい」
扉越しの声。ちら、と舞香を見るも相変わらず硬い表情のまま首を横に振るわけで、仕方なく「失礼しまぁす」と声を出し、流れのままにドアノブを引いた。
「……やぁ、君たちはさっきの講義に出ていた学生だね」
「はい。鷺沢と西野です」
眩しそうに目を細めながら勧修寺教授が言って、それで私たちはおずおずと客員教授用の部屋の中へと足を踏み入れる。
こざっぱりと片付いた室内は机の上に数冊の本が積み上げてあるくらいで余計なものが何もなく、本当に、教授が今日の講義の為だけにここへ来たのだろうと思わせる。
室内の空気はトロトロと温まっている。肌寒い廊下から移動してきた体を暖房のぬくもりが心地良く包み込むはずなのに、一瞬、ヒヤリと悪寒が駆け抜けた。隙間風でも入るんだろうか。舞香がコホ、と空咳をする。埃っぽいというわけでもないのに、なんだか少し、呼吸がし難い。
それで、早いところレポートの提出期限の交渉をして部屋の外へ出てしまおうという気持ちになる。
「あのっ、」
だから、このタイミングで、ついさっきまで私の影で身を固くしていた舞香が声をあげたことに、私はとても驚いた。
入学してすぐに知り合って(と言うか、私が一方的に話し相手としてロック・オンしていたら、さすがの舞香も私の存在に慣れてくれたのだ)からこっち、舞香が自分から他の誰かに話しかける所なんて、初めて見たのだ。
眼鏡の奥で静かにこちらを見据えた教授が、ほろりと柔らかく微笑みながら発言の先を促す。
「さ、さっきの……獏、の話、なんですけど」
「うん、どうかしたかい?」
「あのプリント、……その……頂けたり、しないでしょうか?」
舞香の言う「あのプリント」はさっきの勧修寺教授の講義の中で出てきた「獏」に間違いなさそうだ。でも、どうして。そう思ったのは私だけではなくって、教授はほんの少しだけ目を見開くと、すぐまた授業中と同じアルカイックスマイルに戻って「聞かせてくれるかな」と小首を傾げた。
「あのプリントを必要とするってことは。君は、悪夢に悩まされているのかな」
*
さっきの講義の時間中、私は勧修寺教授の動きに合わせて癖のある長い髪が背中でふかふかと揺れ動くのに気を取られていた。
端正な顔立ち。心地の良い音程の声。なんで髪伸ばしてるのかな。教授っぽくない……いや、浮世離れしてるってことは逆にそれっぽいのか? まぁ、つまりは変な人なんだよね。
そんな事をぼんやり思っていると勧修寺教授が振り返り、一瞬だけ目線が合ったように感じて気まずくなる。
ちっとも意に介さない表情のまま、教授はつらつらと立板に水のごとく語り続ける。
古来中国の文献に登場した「獏」は実際の生き物の「バク」とは似て非なるもので、その辺りは、キリンと同じような流れになる。想像で描かれた麒麟と実際のキリンが全く異なるように、今回のテーマに出てくる悪夢を食べる「獏」と実際の「バク」は全然ちがう生き物なのだ。
クリアファイルから取り出した二枚のプリントを黒板に貼り付けて示す。
「なので、もし悪夢を食べて欲しいと思っている人がこの中にいるとしたら、枕の下に置くべきは白黒の体をしたバクではなくて、こちらの獏にしておいて下さい」
おどろおどろしいラインで描かれた、いかにも「妖怪」という感じがする、想像上の生き物の獏。
あれを枕の下に置いたら逆に夢見が悪くなるのでは。むしろ、あの意地悪そうな顔は自分が食べるための悪夢を量産していそうな気さえする。
舞香を肘で突こうとした時、真横に座った舞香は不思議と真剣な顔で勧修寺教授の話に聞き入っているようだった。それで、私は緩み始めていた口元をすぼめて、静かに前を向いたのだった。
*
「つまり、その夢を見始めたのは、君のお祖母さんが亡くなってから、という訳だね?」
「そ、そういう事に、なります……」
舞香がしどろもどろになりながらも語った内容はこうだった。
今年の初め頃にお祖母さんが亡くなり、西野一家はそれまで暮らしていた家を引き払って、新しく分譲マンションを購入して引越しをした。
引っ越しの話が出た当初は、それまで介護に献身的だったお母さんは難しい顔をしていたらしい。お祖母さん逝去後すぐの引っ越しというのに抵抗があったからだ。でも、家族で生活を仕切り直したいというお父さんと舞香の説得に最終的には同意してくれて、新しいマンションのピカピカの部屋で、気持ちを新たに穏やかな生活が始まった。
ところが、新居での生活に慣れてきた矢先にそれは始まった。
「最初に母が、うなされるようになりました。次に私が夢をみるようになって、それから、最近は父も……」
「その夢というのは、具体的に言うとどんなものかな」
舞香は少し口籠もって、何度か開いた口を閉じて、意を決したように顔をあげる。
「そ、祖母の、夢です。……祖母は、亡くなる少し前は特に……酷い有り様でした」
お祖母さん、ねぇ。
そう呟くと勧修寺教授は何かを考え込むように黙ってしまったし、発言を終えた舞香は気の抜けたような表情になってぼんやりと壁の辺りを見ている。うん。レポートの、話は?
手持ち無沙汰になった私の耳が、足音をキャッチする。廊下を歩いてくるのは、スニーカー? 学生……かな。ややこしい場面を見られるのは少し嫌だという私の思いを丸切り無視して、返事を待たない形だけのノックのあと、遠慮なくドアが開けられる。
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