獏の夢の怪 〜スピンオフ・ 浄化室怪異見聞録〜
野村絽麻子
第1話
高校のそれよりも一段トーンの低い音の連なりがメロディを奏でる。大学に入るまで、こうして授業の合間にチャイムが鳴るものだとは想像もしていなかった。ああいうのは小中高でおしまいで、大学生ってのはもっと、何と言うか、理性的な生き物なのかと思っていたのだ。
講義室の後ろの方に陣取った陽キャっぽい集団から、漫画のようなわざとらしい笑い声があがる。漫画って言うか、むしろ、モブみたいな。それを横目に粛々と歩いていつもの定位置に陣取った。モブみたい、とか言ったって、実際の光景からしたら私の方が十分にモブなわけで。
物語なんか始まってもいないし、始まったとして私が主役に据えられる訳もない。
前から三列目。見上げる程教卓に近くはなくて、それでもそこに立つ人物がしっかりと順光になるこの席からは、講師の姿がよく見える。
「おはよう、
長机に荷物をどかりと置いた舞香こと
「今日は遅刻しなかったんだね」
「そ、そうなの」
「普通でしょ」
「そこは褒めて〜」
「なんで」
「な、何でもだよお〜」
舞香は荷物の多い女の子だ。曰く、強迫神経症なのだそうで、大きな荷物の中にアレもコレもと詰め込んでいる。
いつだったか見せてくれた舞香の荷物の内訳は他愛のないものだ。例えて言うなら旅行の準備をする時に、タオルと、替えのタオルと、替えのタオルの替えと、もし何かあった時に使えるように予備のタオルを持つ感じ。
「舞香、レポートできた?」
「…………レポート……い、いつまでだっけ?」
さっきまでのほやほやは何処へやら、舞香の顔色がさあっと薄くなる。レポートの提出は今日が締め切り。先週メッセージアプリで伝えてたんだけれど、彼女は覚えていなかった模様だ。
心配事が多過ぎるのも大変なんだろうな。こういう時、私は意識して落ち着いた口調で声をかける。大丈夫、大丈夫だよ。
「このコマの教授、けっこう緩いからさぁ」
「……ど、どうしよう……どうしよう……」
「後で一緒に謝りに行こうよ。で、進捗だけ伝えてさ。交渉して、もう少し待って貰お? ね!」
うん、と舞香がやっとのことで頷くのと、教室の前扉から勧修寺教授が入ってくるのはほとんど同時だった。その姿を、目を細めて眺めてしまう。
いかにも「昨日クリーニングから戻ってきました」と言わんばかりにピッシリとラインの入ったスーツ。ぱっと見で黒一色に見える布地には細かな光沢が踊っていて、そういうのってたぶん高価な物なんだろうなと思う。
大学教授らしからぬ癖のある長い髪を背中でひとつに束ね、飄々と伸ばされた背の上には不思議と整った顔。鼻筋には銀縁の丸眼鏡が乗り、口元はいつでも薄らと微笑みを浮かべている。だからって友好的な人物に見えるかと言えばそれはそれで怪しくて。あれは逆に、「アルカイックスマイル」というやつだと私の勘が告げている。
何だか主役っぽい。
そう思ったのが始まりで、今のところ私の中でこの講義はダントツで好きな時間になる。
「こんにちは。授業を始めます」
テノールの声が何の捻りもない言葉で空間を区切ってみせる。
これは週に一度だけ、帝都大学からわざわざやって来て行われる割とレアな授業な訳だけど、鳴物入りで始まった「怪奇現象から紐解く民俗学」は、この三流お嬢様大学の数ある講義の中でも出席確認をしないという理由だけで、既にそこそこの人気を博している。
「だいたい皆さんは、眠っている間に夢をみることがあると思うんですが、では、悪夢を見たことがありますか? まぁ、一定数はありますよね。もちろん僕もあります」
知ってか知らずか、何の因果でこの場に立つことになったのかは知らないけれど、勧修寺教授は今日も微笑を浮かべながら喋り始める。うん、中高年の一人称が「僕」っていうのは一種の癖なんだよね。そんなことを思いながら言葉の先を待つ。
「今日は、その悪夢についての考察になります。バクのお話です。
バクと言われて思いつくのは白と黒の模様のついたあの大きな生き物かなぁと思うんですが、タイだとバクという生き物は混ぜ物であるという認識なんです。
短めの象の鼻にサイの体、皮膚の色もチグハグ、後ろ脚は三本の指なのに前脚に生える指は四本。解剖してみれば牛と類似性のある肺を持ち、馬とそっくりの胃腸を持つ。謎の多い動物です」
前脚だの後ろ脚だの、もっと言えば内蔵のことなんか知ってるはずもないんだけれど、あの白と黒にパーツ分けされた不可思議な模様の静かな生き物が頭の中に思い浮かぶ。確かに、中途半端に長い鼻だった。
「タイでは、神様が急ごしらえで作った寄せ集めのパーツでできた動物なんだとか、そんな風に言われているそうです。
では何故、そのバクが悪夢を食べてくれる生き物だと言われるようになったのか。話は古来中国に遡ります。今日は獏の話になります」
勧修寺教授は、獏、と改めて大きく黒板に書いた。
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