第9話

「……能登のとさん、貧血が酷いんだっけ? 保健室へ行く?」

「もう大丈夫。よくあることなの。気にしないで。……それから、能登さんじゃなくて亜衣あいって呼んでね」


 彼女は座ったまま後ろを振り返った。


「保健室は大丈夫だけど、屋上へ行ってみたいな。一緒に出てみない? 私、ずっと憧れてたんだ。屋上へ出るの」

「……」


 あまりにも無垢な表情を、瞬きしながら見返した。


「鍵が掛ってるよ」

「鍵が? どうやって開けるの?」

「先生が持っているんじゃないかな。生徒が勝手に出られるわけないじゃん」

「高校の屋上って、自由に出られるんじゃないの?」

「そんなわけない。アニメの見すぎだよ」

「そうなの……?」


 彼女はひどくがっかりした様子だった。


「能登……じゃなかった、亜衣の中学では自由に屋上へ出られたの?」


 僕の質問には答えず、彼女はスカートのポケットからスマフォを取り出し画面をタップする。


「紫苑くんもアニメを観るって言ってたよね? この作品、知ってる?」


 彼女が見せつけるスマフォの画面には、アニメ作品のホームページが表示されていた。学生服を着た女の子の周りをイケメンたちが取り囲んでいる様子のイラストが表示されている。登場人物たちの学生服や髪や目の色はカラフルで、どれも現実離れしていた。


「高校が舞台で、屋上のシーンがよく出てくるの。だから私も高校生になったら屋上に行ってみたかったんだけどな」


 亜衣は肩を落として呟く。


「それ、どういう話なの?」

「主人公は地味で垢ぬけてない女の子なんだけど、ある日突然、美少女になるんだ。それで、イケメンたちにモテモテになるの」

「転生でもしたの?」

「ううん……。何がきっかけで変身するんだったっけなあ。忘れちゃった」

「物語の肝となるところを忘れちゃったの?」

「だって、そのアニメを観ていたのは一年くらい前だもん。……それでね、そのアニメに出てくるモブのうちの一人を演じていたサトウコウタっていう声優が好きなの」

「サトウコウタ……」

「知らないでしょ。全然有名じゃないけど、私たちと同い年くらいの新人声優で、すごくイケメンなの」

「イケメンだから好きなの?」

「それもあるけど、顔だけじゃなくて声もすごく良いんだよ。可愛い系で。サトウコウタ以外だと、七海紗枝とか、りのちーとかが好きかな」


 サトウコウタの後に挙げられた二人の名前は僕も知っている。人気上昇中の若手アイドル声優たちだ。

 能登亜衣は新人声優を青田買いして応援したいタイプなのかもしれない。


「好きな声優たちにファンレターは出さないの?」

「出さないよ。ファンレターなんて出してどうするの」


 彼女は照れたように笑っている。


「出せばいいのに。もらって嬉しくない芸能人なんていないでしょ」

「出さないってば。ねえ、紫苑くんもサトウコウタが出演したアニメ、一緒に観てみない?」

「いいよ」


 僕はついさっき玉砕した男子生徒に申し訳なくなりながらも、クラスメイトの隣に腰を下ろした。


「じゃあ、五限はこのままサボっちゃおうか。たしか、家庭科のオリエンテーションだったし」

「このままサボるって? ……も、もしかして、もうチャイム鳴った?」

「五分前くらいに鳴ったけど?」

「うそっ! 気がつかなかった!」


 彼女は叫び、腰かけていた段差からぱっと立ち上がった。


「私、サボるのが大嫌いなんだ! 紫苑くんも早く教室に戻ろう!」


 能登亜衣は、脇目も振らずに早足になって階段を下りて行ってしまった。

 再び無人になったこの階段の周りはあまりにも静かだった。僕もゆっくり立ち上がり、階段を下りていく。

 踊場の大きな鏡の前で立ち止まる。能登亜衣を見つめていた後に眺める「如月きさらぎ紫苑しおん」の姿は平凡すぎて、つい笑ってしまうほどだった。





 その日の放課後、僕は昇降口で再び長谷川はせがわ多美子たみこに声を掛けられた。


「あ、また忘れた。なんて読むんだっけ? もう一回教えて」


 彼女は僕の名札を指す。名札にひらがなを振っておいたほうがいいだろうか。あきれつつも、「きさらぎだよ、きさらぎ」と答えてやる。


「本当に似合ってないよね。顔が平凡すぎ」


 彼女はクスクス笑い始めた。

 どうやら揶揄いたかっただけらしい。


「うるさいよ」


 僕も一緒になってけらけらと笑った。

 彼女はすっかり丸くなったようだし、僕自身ももう「チビ」だとか「死神」だとか「平凡すぎ」だとか罵られてめそめそするようなヤワな男ではない。


「……なんでそんなこと言うの?」


 後ろから、冷たい声を掛けられた。

 振り返った先にいたのは、指定のスクールバッグを肩に提げた能登亜衣だった。

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