第8話
「
僕はとっさに「昼寝」と嘘をついた。アニメの世界の住人になるために練習をしていたなんて、口が裂けても言えない。
「一人で教室を抜け出して昼寝? 紫苑って、暗い人?」
マスクを身に着けた
「そういう多美子は何しに来たんだよ」
「べつに」
背を向けた彼女が手にしているのは、ミッキーの柄の保冷バッグだった。中に入っているのは恐らく昼食だろう。
「昼飯を食べる場所を探してたのか? 一人で? 多美子って暗い人?」
「うるさい。じゃあね」
素っ気なく言って彼女は階段を下りていく。
教室でクラスメイトたちと食事ができない事情でもあるのだろうか。会食恐怖症という言葉を耳にしたことがある。元いじめっ子は元いじめっ子なりに色々抱えているのかもしれない。そんなもの、贖罪になんてならないけれど。
気を取り直し、台詞の練習を始めることにした。多美子がいなくなったことを確認するため階段の下をのぞき、はっと息を呑む。階段の下には、元いじめっ子とはまた別の女生徒が現れていた。
「あれ? 紫苑くん? そんなところで何してるの?」
僕に気がついた
「昼寝だよ」
どぎまぎしながら同じ嘘をついた。
「能登さんは? 一人で食事しに来たの?」
「ううん」
手ぶらの美少女はそわそわと階段の下をのぞきこんだ。
「……紫苑くん。悪いんだけど、ちょっとそこに隠れていてくれる?」
「え?」
「今から起こることは、誰にも言わないでね」
彼女は眉を顰め口角を上げた。事情はよくわからないが、言われた通り壁の陰に体を引っ込めた。
「能登さん、お待たせ」
ほどなくして聞こえてきたのは、男子の声だ。誰かまではわからないが、ここで能登亜衣と待ち合わせていたらしい。僕はお邪魔虫ではないだろうかと思っていると、やはり、男子のほうが「カレシはいるの?」と能登亜衣に尋ねた。
「いないよ」
彼女は冷静な様子で返事をする。
棚からぼた餅。僕も彼女に関する情報を一つ得た。
能登亜衣には、カレシがいない。
男子生徒は嬉しそうに「そっか!」と叫んだ。姿は見えないが、きっと破顔しているに違いない。
「カレシがいないなら、よかったら俺と付き合ってみない? 入学式で見かけた時から能登さんのことがすごく気になっててさ……」
他人の告白の現場に居合わせてしまった。申し訳なく思いながらも、耳をそばだてる。告白された彼女は間髪入れずに、
「私のことなんて何も知らないのに、どうしてそんなことが言えるの?」
と返した。
怒っているようにも聞こえた。
思わず「ええ……」と声を漏らしてしまい、慌てて口元を押さえる。
「い、いやあ。だって能登さん、めちゃくちゃ可愛いし……。付き合うのは無理でも、まずは友だちからどう? 連絡先交換しようよ」
「可愛いっていう理由だけで、どうしてつき合おうって思えるの? 見た目と中身が違ったらどうするの?」
「そ、それは……」
第三者である自分も苦しくなるほどの沈黙が階段の下で流れ始める。
男子生徒は不憫だが、彼女の言い分もわかる。見た目が良いからという理由で芽生えた好意なんて信用できない。見た目で判断されるなんて、気分が悪い。
男子生徒はすっかり威勢を失ったらしい。ぼそぼそと何か言ってから去っていく足音が聞こえた。
もうすぐ昼休みも終わる。能登亜衣ももう立ち去るだろうか。階段の下をのぞくと、クラスメイトはまだそこに立っていた。しかしどこか様子がおかしい。
「……っと、……かも? あ、大丈夫……も」
一人でぶつぶつと何か口にしている。台詞の練習を始めただけではないだろう。
どうしたものかと彼女を見下ろしているうちにチャイムが鳴った。昼休みが終わったのだ。
能登さん、と声をかけようとすると、彼女はふらりと揺れ、階段の一番下の段に座り込んだ。
「だ、大丈夫?」
貧血を起こしたのだろうか。立ち上がり、階段を駆け下りた。
階段に腰かけた彼女は真顔で自分の上履きのあたりを見下ろしている。顔色は悪くない。しかし呼びかけに対する反応は無かった。
養護教諭を呼ぶべきかと迷っているうちに、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。
目と目が合い、つい唾を飲み込む。至近距離で見つめ合っているのも恐れ多いと思うような美しい顔だった。
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