第6話

「名前、なんて読むの?」


 多美子たみこは僕の学ランの上衣についている名札を指さして訊く。整えられた爪がつやつやと光っていた。

 きさらぎです、と返す自分の声がひっくり返りそうになる。


「『きさらぎ』って読むんだ。下の名前は?」


 喉元の唾液を飲み込んでから、「しおんです」と答えた。


「きさらぎしおん、ね。へー、かっこいい名前。でもなんで敬語? 私と同じ新入生だよね?」

「……」


 まじまじと彼女を見下ろした。かつて「チビ」と罵ってきた彼女だが、今では僕の顔を見上げている。現在の彼女の身長は160センチ以下だろう。

 彼女のほうは、僕のことを思い出せないようだった。

 されたほうはずっと覚えているけれど、したほうはすぐに忘れる。それがこの世の摂理だった。潰した蟻の死に様なんて、いちいち覚えていられない。

 悔しくはなったが、むしろこの状況は好都合なのかもしれないと考え直す。体格差のある今、彼女に腕っぷしで負けることは無いだろうけれど復讐なんて考えない。望むのはただただ平穏な高校生活だ。

 口角を上げ、平凡なこの顔を指す。


「顔に似合わない名前でしょ」


 調子に乗って、そんなことを言ってみた。


「うん、似合わない。私は長谷川はせがわ多美子たみこ。ダサい名前でしょ。私も一組だよ。じゃーね」


 目を細め、多美子は廊下の向こうへと消えていく。高校生となった彼女の上履きの踵には、世界的に有名な齧歯類はもうぶら下がっていなかった。






如月きさらぎ紫苑しおんです」


 椅子から立ち上がり、今日から仲間となる一組のクラスメイトたちに自分の名前を告げた。


「アニメが好きで、結構観てます。おすすめがあったら教えてください。よろしくお願いします」


 軽く頭を下げる。「可もなく不可もなかった」と評するような拍手が教室の中に沸いた。

 今日から本格的に使用される新築の校舎の教室は、化学物質のにおいで満ちている。汚れの無い白い壁、ワックスで光る床、明るい照明。

 内装もきれいだし耐久性も上がったらしいが、ただそれだけだ。授業で使用するために高速のWi-Fiが完備されているのだが、生徒たちの私物には自由に接続できないという。

 目新しい設備といえば、バリアフリートイレやスロープ、それから、各教室に取り付けられた間仕切り用のカーテンくらいだろうか。異性の目を気にせず着替えができる優れものだ。裏を返せばこの学校には更衣室が無いということになる。


 無難な自己紹介を終えた僕は椅子に座り直して顔を上げた。

 左斜め前の席の女生徒と目が合う。しかしすぐに逸らされた。彼女は律儀に次の発言者のほうに身体を向け直す。


 つい、その真剣な顔を観察してしまった。

 息を呑むほどに整った容姿だったからだ。


 くっきりした二重瞼で黒目は大きく、小鼻は小さく、海外で活躍中のアイドルたちにどことなく似ていた。

 彼女はこくこくと頷きながら他のクラスメイトたちの自己紹介を聞き、聞き終わった後は白魚のような手で惜しみのない拍手を贈った。一刻も早くこのクラスメイトの名前を知りたかったが、自分の位置からでは名札がよく見えない。


 自己紹介は続き、やっと左斜め前の美少女の番になった。彼女が立ち上がると、椅子の脚が床を擦り、きゅっと鳴る。


能登のと亜衣あいです」


 鈴を転がしたような声だった。声優なら重宝される声質だろう。容姿も申し分ないし、弱小声優事務所のオーディションを受ければすぐにでも預かり所属くらいにはなれそうだ。


「私も」


 彼女はふいに振り返り、視界ではっきりと僕を捉えてからまた前を向く。ダンサーのようにピンと伸びた、面積の少ない背中を眺めた。一度も染めた様子のない黒い髪が真新しいブレザーに垂れている。


「私も、アニメをよく観ます」


「意外~!」と、教室のどこかから声が上がる。僕に横顔を向けた彼女は、「意外かな」とはにかんだ。美しい姿勢が少し崩れる。


「ドラマも映画も好きです。私もおすすめがあったら教えてほしいです。……あ、貧血が酷くてちょこちょこ保健室行ったり休んだりすると思うんですけど、仲良くしてくれると嬉しいです」


 そこかしこから拍手が鳴る。「もちろん仲良くしますよ。むしろ仲良くしてください」という意思表示のような、力強い音だった。


 僕は拍手をすることも忘れ、「私もおすすめがあったら教えてほしいです。」という彼女の台詞をただ噛みしめていた。「私もおすすめがあったら教えてほしいです。如月紫苑くんも言っていたように」という意味だったことは明らかだ。


 ――私も如月紫苑くんのようにアニメ観ます、私も如月紫苑くんのようにおすすめがあったら教えてほしいです……。


「長谷川多美子です」


 わずかに妄想をまじえた回想をしているうちに、多美子の番となった。

 彼女はマスクを外さぬまま立ち上がる。胸元の花のコサージュを指先でいじり緊張している風だった。

 その様子は少し意外だったけれど暴虐非道っぷりを自省し、落ち着きや慎み深さを身につけていたとしても不思議ではない。僕たちはもう小学生ではない。


「多美子って、気軽に呼び捨てしてください。えっと」


 彼女は大まじめに考え込み、「私は、アニメはあんまり観ないですね……」と続けた。アニメを観ないことを、どうしてか申し訳なく思っているような口ぶりにも感じられた。


「中学はバスケ部だったんですけど、高校で続けるかどうかは迷ってます。よろしくお願いします」


 次に立ち上がった生徒も「俺はアニメは観ません」と自己紹介の最後に付け足した。その次の生徒は「観るけど、ワンピとか有名なやつばっかです」。その次は「アスカ派です!」。

 僕のせいだろうか、能登亜衣のせいだろうか、はたまた長谷川多美子のせいだろうか。クラスメイトたちはアニメを観るのか観ないのか、観るとすればどの程度嗜むのかを、なぜかみな打ち明けていくようになってしまった。


 続く一組の仲間たちの自己紹介をおざなりに聞きながら、僕はいつまでも、いつまでも美少女の台詞を頭の中でリピート再生していた。



 ――私も如月紫苑くんのようにアニメ観ます、私も如月紫苑くんのようにおすすめがあったら教えてほしいです……。

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