第4話

「なに泣いてんの? きもっ!」


 一年三組の教室の真ん中で、クラスメイトの長谷川はせがわ多美子たみこが高らかに笑う。

 彼女の一重の目は限界まで見開かれ、上瞼と下瞼の狭間でブラックホールのような瞳がギラギラと光っていた。癖のある髪はおさげに結われ、毛先はピンクに染められている。広いおでこの上で前髪がはねていた。


 掲げられた彼女の手の中には、まだほとんど手擦れていない、「さんすう1年生」の教科書があった。


「返してよぅ……」


 多美子の目の前にいるのはクラス一気弱な男子で、目にいっぱいの涙を溜めていた。教科書を奪われてしまったのだ。


「教科書とられたくらいで泣くとか、マジきめーんだけど!」


 昼休みで担任は不在だった。クラスメイトたちの半分は多美子の暴挙に怯え、残りの半分は彼女を囃した。僕は前者だった。恐ろしすぎて、「やめなよ」の一言さえ出てこなかった。


 見かねた女子の一人が、「先生を呼ぼうよ」と囁く。しかし悪の女王がこれを聞き逃すわけがなかった。


「先生なんかにチクったら、おまえらの教科書もこうだからな!」


 彼女は教科書を開くと両手で端と端をつかみ、ぐっと力を込めた。教室中にどよめきが起こる。彼女は「くううっ」と唸って顔を歪めた。教科書を割こうとしているのは一目瞭然だが、小学一年生の女の子の力では難しいようだ。

 教科書の持ち主が本格的に泣き出すと同時に「やめろっ!」と女の人の声がした。ぎょっとして声の主を探したのは、僕だけだった。


「なんてことしてるんだ!」


 多美子の学校机の脇のフックには、手提げがぶら下がっている。持ち手にはミッキーのぬいぐるみがボールチェーンで吊るされていた。大きく口を開けて笑う齧歯類が、ブンブンとひとりでに揺れている。


「いろは! いや、違う。みほ……じゃなかった、それは孫じゃなくて姪っ子だよ。……多美子っ! 多美子、おまえイジメなんてやってんのかいっ!」


 ミッキーはしがわれた声で怒鳴っている。笑いながら。


「ううっ……!」


 ミッキーから、見知らぬおばあさんがポンととび出てきた。思わず「ひい」と悲鳴を上げた僕に、隣にいたクラスメイトが眉を寄せた。

 床にしゃがむおばあさんの顔は土気色で、具合が良くないということが子どもの僕でも一目でわかった。彼女は顔を歪め、胸をぐっと押さえる。床についた片方の手が、木目を透かしていた。


 ――幽霊だ。


 僕は息を呑んだ。


「う、うう。多美子、助けてくれえ。死、死ぬぅ……」


 僕は小学生になってからも相変わらず幽霊をみることができたのだが、こども園での出来事以来、このことは他人に話さないにしようと心がけていた。気味悪がられるからだ。

 けれど、今は緊急事態だった。幽霊が「死ぬぅ」なんて言って多美子に助けを求めている。


「ね、ねえ」


 多美子に話しかけると、ぎろりと睨まれた。


「んだよ、チビ」


 彼女の言う通り、僕はクラスの中で一番身長が低かった。悔しいが、しかし言い返している場合ではない。


「おばあちゃんが苦しんでる」

「はあ!?」


 彼女の唾が頬にかかる。


「多美子、多美子……。会いたいよぉ……」


 おばあさんが多美子の足にすがりつくが、彼女の手はすり抜けてしまう。


「多美子ちゃんのおばあちゃんが、多美子ちゃんに会いたいって言ってるよ」

「はああ!?」


 多美子は歯茎をむき出しにして僕に詰め寄ってきた。動物園で見たチンパンジーの威嚇を思い出して怯んだが、続ける。


「多美子ちゃんのおばあちゃんが、死んじゃうかもって……」

「ウチのおばあちゃん? なに言ってんだよ、チビが! きめーんだよ! つか勝手に多美子ちゃんとか呼んでんじゃねーし! きっも!」

「多美子さん!」


 教室の扉ががらりと開いたのはそのときだった。

 担任の若い女の先生が「ちょっと」と低い声で言って手招きする。多美子ははっと目を見開き、割こうとしていた教科書を机の上に丁重に置いた。

 教室内が、水を打ったように静まり返る。

 担任の登場によって囃し立てていたやつらはさっと顔を伏せ、押し黙っていた善良なクラスメイトたちはほっと溜息をついた。

 教師が暴君に制裁を下してくれる。誰しもが同じことを考えたはず。

 けれど、実はそうではなかった。


「多美子さんのお父さんからお電話よ。職員室まで来てくれる?」


 担任は切羽詰まっているようだった。多美子にいじめられて泣きじゃくっている男の子が視界に入らないほどに。


「はーい、今行きま~す!」


 別人のように返事して教室を出て行くいじめっ子の後ろを、幽霊のおばあさんがよろよろとついていく。


「……!」


 老いた身体がぎゅうっと圧縮された小さくなったと思うと、多美子の上履きの踵につけられたキャラクターのタグに引き寄せられ、するりと入り込んでしまった。


「……だ、大丈夫ですか?」


 僕はつい、おばあさんが憑依した上履きのタグに声を掛けてしまった。左右の踵にぶら下がるタグも、よく見るとモチーフはミッキーだった。

 話し掛けられたのだと勘違いした多美子が僕を振り返り、怪訝そうな顔を向ける。しかし担任の手前、「きめー!」とも「チビ!」とも言ってこない。


「大丈夫さ。ありがとうね。うちの孫が迷惑かけて悪ぃね……」


 ミッキーのタグから弱弱しい笑い声が聞こえる。


「……わたしゃ、きっと死んだんだろうね。驚かせてすまないねえ」


 孫のほうは自分のおばあちゃんの存在に全く気付かないまま、担任とともに教室を去っていってしまった。


 次の日から、長谷川多美子は学校を数日間休んだ。忌引きだった。彼女の祖母が病院で亡くなったのだと担任が説明した。





「――死神!」


 久々に登校してきた多美子は、校庭のど真ん中で僕をそう呼んだ。彼女はランドセルを背負いながら腕を組み、なぜか勝ち誇ったように笑っている。

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