第1章 だって、「能登亜衣」は、

第3話


 ――さかのぼること、およそ十年前。




「このぬいぐるみを出したのは誰ですかっ!?」


 らいおん組の保育室で怒っているのは、るな先生だった。杉の子第二こども園のらいおん組の担任だ。

 彼女はアンパンマンの首根っこをつかみ、園児たちを睨みまわしている。


「今はお給食の準備をする時間だよね? ぬいぐるみを出す時間なんかじゃありません。誰が出したのかな? 正直に言ってください!」


 ぬいぐるみを出した人物を知っている僕は、即座に手を上げた。


「あなただったの! どうしてお給食の時間にぬいぐるみを出したの!?」


 挙手した僕が犯人だと勘違いした先生が声を張り上げる。


「ぼくじゃなくて、おじちゃんがやったんだよ」


 あわてて弁明すると、可愛らしいと評判の先生の表情がますます険しくなった。


「おじちゃんなんていないでしょ。ここは、こども園なんだから!」

「ええっ? いるよねぇ? えんちょーせんせーは、おじちゃんだよね~」


 クスクス笑い出した他の園児たちを、彼女は目力のみで黙らせる。部屋の中がまた静かになると、先生は僕に詰め寄った。ぬいぐるみのベージュの布地に彼女の爪先が食い込んでいる。


「嘘をついちゃ、だめでしょう」

「ほうとうだもん!」


 僕は必死だった。


「おじちゃんがやった!」

「だから! おじちゃんはいないの!」

「いるよ。るなせんせーのおじちゃん。あそこにいる」


 ぬいぐるみや玩具を収納するためのロッカーを指さす。これから給食の時間となるので、今は目隠しのカーテンがかけられている。

 隣にいた男児が、「なにもいねえじゃん、うそつき!」と怒鳴り、僕の肩を押してきた。


「うそじゃないよ。しらがのおじちゃん。めがねかけてる」


 先生が、はっと目を見開く。


「『るーちゃん。ぬいぐるみ触っちゃって、ごめん』っていってる。『るーちゃんは、アンパンマンが大好きだったから』……だって!」


 そう言った途端、彼女はぬいぐるみに顔を埋め「わっー!」と声を上げて泣き始めた。

 僕を含むらいおん組の仲間たちは自分たちの担任をぽかんと見上げていた。泣き声は止むどころかますます大きくなり、りす組のみどり先生が駆けつけてくるほどの騒ぎとなってしまった。


 後日、らいおん組の担任のるな先生はお父さんを亡くしたばかりなのだと、園長先生が教えてくれた。





「おじちゃん」こと「るな先生のお父さん」は、らいおん組にしばらく滞在した。アンパンマンの中に入って何をするでもなく、娘である先生の様子を見守っているだけのようだった。

 初老の男性が中に入っているというのに、僕以外の園児たちは躊躇せず棚からアンパンマンを引きずり出し、ままごとの相手をさせ、時には壁に投げつけた。


「いてて! こんのっ……」


 アンパンマンは痛めつけられる度に抗議の声を上げるのだが、みんなは気にも留めない。

 どうやら、おじちゃんは僕以外の人には認識できないらしいのだ。




「おはよう、おじちゃん」


 僕は毎朝、ご用意をするふりをしながらロッカーのおじちゃんに話しかけた。アンパンマンに扮するおじちゃんは「おはよう。ぼうや、元気かい」と返してくれた。

 るな先生には、もうお父さんの話はするまいと心に決めていた。また泣かれたら困ってしまうからだ。




「……俺はどうしてこんなところにいるんだろう」


 日が経つにつれ、おじちゃんがそんなことを言うようになった。


「しんじゃったんだよ。だから、おばけになってアンパンマンにはいってるんだよ」


 教えてあげると、「死んだって、俺がか?」と言って息を呑む。


「うん」

「俺はどうして死んだ? 病気か? 事故か?」

「わかんないけど」


 僕は素直に首を横に振った。

 次の日、「俺はどうしてこんなところにいるんだ」と再び訊かれた。おじちゃんは、自分が死んだことを覚えていられないらしかった。




「るな先生は、優しいかい」


 ある日、おじちゃんはそんなことを訊いてきた。

 この日は自分が死んだことを覚えているようだった。覚えていられる日と、覚えていられない日があるらしい。


「やさしいよ」


 優しくない日もあるよ、怒るとすごく怖いよ、という言葉を飲み込む。おじちゃんは「そうかい」と嬉しそうに呟いた。

 しばらくすると、おじちゃんはいなくなってしまった。アンパンマンに話しかけてみても返事が無い。喋るぬいぐるみより、喋らなくなったぬいぐるみのほうが不気味に感じられた。

 行方が気になって、給食室や遊戯室、園庭のあちこちを探してみたのだが、おじちゃんはどこにも見当たらなかった。


 先生のお父さんが姿をくらましたことは、園長先生にだけ、こっそりと報告した。園長先生は「そろそろ四十九日だね」と頷いて、しわしわの手で僕の頭を撫でてくれたのだった。




 同じようなことは、それからも度々起きた。

 とくに印象に残っているのは、小学一年生の夏休み前のことだ。

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