4

 目の前の現実が受け止めきれなくて、僕は咄嗟に視線を下に向ける。それでも目を向けられていることをびりびりと感じて、萎縮してしまう。



 (早く……、早くこの場から立ち去りたい)


 僕なんかを見つめないで。

 貴方の目に映るつもりはなかったんだ。


 律に届くわけないって思ってたから、あんなに気持ちを込めて歌えたのに。それを聞かれただなんて、最悪だ。律の耳を穢してしまった。


 だけど、今の状況は逃げ出すことを許してくれない。そっとバレないうちに涙を拭えば、タイミングよく司会者が声をかけてくる。



 「お疲れ様でした。いや、すごい歌声でしたね」

 「……緊張、しました」

 「歌い終わると一気に別人みたいですね」



 はは、と愛想笑いを返すことしかできない。放送事故になる前に審査員が一斉に話し出す。

 


 「俺のイチオシだからね。歌うと人が変わる、そういうところも魅力的だよ」

 「トレーニング無しでこれでしょう? これからがすごく楽しみだわ」



 興奮した様子で口々に褒め称えてくれる。身に余るほど光栄だ。


 それなのに、ちっとも頭に入ってこない。唯一無二の存在の前から早く姿を消したい、頭の中はそればかり。


 だから、どうか律にだけは話を振らないでほしい。



 「スペシャル審査員の東雲さん、いかがでしたか?」



 そんな願いも虚しく、司会者は楽しそうに律に声をかけた。暫くの逡巡の後、律は口を開いた。



 「…………生で聴けるのを楽しみにしてました、今日は来てよかったです」



 唇に弧を描いた神さまは、まるで僕の存在を知っていたかのような口ぶりで話している。そんなこと、ありえないのに……。


 これまで媒体を通して聴いていた律の声が直接耳に入る。その事実だけで死んでしまいそう。


 もう何も聴きたくない。この声だけを聴いていたい。オタクが顔を出すけれど、夢の時間は終わらない。



 「俺の大事な曲を歌ってくれてありがとう」



 嗚呼、神さま。

 僕は律が好きすぎて夢でも見ているのでしょうか。


 そんな言葉をかけてもらえたのが信じられなくて前を向けば、目の合った律がウインクを飛ばしてきた。もうカメラに抜かれていないそれは、僕だけに向けられたもの。



 「ッ!」



 当たり前に息が止まった。ファンサービスが過ぎる。もうこの記憶だけで明日から何だって頑張れそう。


 全身が熱くなったまま、まるで夢を見ているかのような気分で僕はスタジオを後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る