怪異との決着
江戸の町、長屋や屋台が立ち並び、砂埃の舞う中をおれとヨルとタロは立っていた。
時刻は、既に深夜となっている頃だろう。
欠けた月は天へと昇りすぎて小さくなり、反対に、星の主張は強くなっている。
今宵は、月よりも、周りの星の方が輝かしい。
「来るかな?」
ヨルが少し心配そうに言う。
「来てもらわねば、困るな」
おれはそれに答える。
タロも、ワフッと吠えた。
おれたちが少しばかり不安になっているのには、ちゃんと理由がある。
前回は、ヨルの『恋愛』を狙っておれ達の前に妖怪は現れた。
元々狙われていたのを良い事に、呼び寄せていたわけなのだが……もうその手は使えない。
というわけで、あの妖怪に来てもらうように用意を幾つかする事にした。
探し回っても恐らく見つからない。
こちらにはタロがいるが、あの妖怪は追いかけても逃げ回る。朝まで鬼ごっこは御免被りたい。そもそもヨルの体力が保たない。
というわけで反対に、おれたちは、突っ立って待ち呆けることにした。
さて、用意した物についてだ。
まず勝手にあるものとして、おれが持つヨルへの恋心だ。
夫婦愛の時の話では、どちらもが奪られていた。
だが、おれ達の間ではヨルのみだ。
これは恐らくだが、おれへの嫌がらせだな。
腹が立つ。
他に勝手にあるものといえば、タロの持つ、江戸の町人への愛。
それから、ヨルが愛を奪われたというのに、喧嘩もせずにおれと共に行動出来ているこの状況。
この、ヨルとおれが仲違いする事も無く一緒に行動している状況というのは、嬉しい誤算だったわけだ。つまり、妖怪からしたら非常に面白く無い事のはずだ。
良い気味だ。
まんまと手玉に取られてしまったおれへの評価は正当だったが、あの妖怪はヨルを過小評価しすぎたな。
馬鹿者め。ヨルを舐めてもらっては困る。
……おれも不安になっていたわけだが。
まあ、ここら辺のエサに関しては、多少なりとも良い方向に進めば良いな、という程度のものだ。そこまで期待はしていない。
そこまで期待はしていないが、妖怪の思い通りにいかなかったというのはかなり衝撃的だろうとも思っている。
そして、他に妖怪が来る様に仕向けたものは……
「よう色男、お前、相変わらず酷い事をするなあ。以前までは、家屋の少ない外れ道や、壁の多い所にオレを誘き出そうとしていたのに、今回は、長屋の近く。それも、上質な物が揃っている所を選ぶなんてなあ」
まあ、そう言う事だ。
本当にのこのこやって来おったな、この妖怪。
おれが戦いの場所に選んだのは、長屋や家屋のすぐ近く。つまりは、この妖怪が今後狙うであろう人々が多くいる場所だ。
本来ならば、そういった場所こそ避ける為に智略を巡らせねばならぬところ、おれ達は、あえて町の人々が危険に遭ってしまうようなこの場所を、戦いの舞台に選んだのだ。
「おれも、酷い事をしていると思うさ」
おれは不敵に笑いながら、ヨルとタロを背に隠し、そして刀を鞘から抜いた。
「しかし妖怪、何故、誰かを襲う前におれ達の前に姿を現した?」
おれの問いに、妖怪はニタニタ笑いながら答えた。
「オレは、馬鹿じゃあ無い。お前、オレを罠に嵌める為に此処を選んだのだろう。何かを仕込んでいる筈だ。だから先にお前の前に出て来たのさ。それに、お前を動けなくしてから目の前で町人を襲った方が、お前、苦しいだろう。悔しいだろう。その方が、面白い」
随分と、其方が勝つのを当たり前の様に喋るのだな。
一度出し抜いたのが、相当嬉しかったように見える。
「そうか。だが残念だな。今度こそ、おれが勝つ」
「そうだそうだ!今度こそエニシが勝つぞ!」
おれの言葉に、ヨルが続く。さらにそれに、タロが元気良くワンと吠えた。
心強い声援を、後ろから送られる。
背中を叩かれた気分だ。
今度こそ本当に、おれは負けられない。
そんなおれ達を見て、妖怪の上がっていた口角が下がった。笑みが崩れ、驚いたかのような口の形へと変わった。
「……?何故だ、お前達。どういう事だ。何故、喧嘩もせずに、共にいる。応援までしている。恋愛感情は無くなって、何故疑心感に満ちていない」
「妖怪、お前の言う、人間は面白い、ってやつだろうさ」
おれがクツクツ笑うと、妖怪は不機嫌そうに身体をゆすった。
それから、気持ちが悪く腹を膨らませ、次いで苦しそうにしながら嗚咽し、口から何かを吐き出した。
丸い、綺麗な桜色の玉。
「あっ、わたしの『恋愛』!」
ヨルが大きな声を出す。
「そうだ。そうだ。此処にある。そこの女の『恋愛』だ。どういう事だ。此処にあるのに」
妖怪は、ヨルの『恋愛』を手の中で遊びながら、不思議そうに呟いた。
おれはこの時、内心ホッとした。
予想が当たっていた事に、である。
あの妖怪、愛情を奪った後にどうしていたのかわからなかったが、恐らく収集でもして大切に持っていたのだろう。
奪った後に壊されでもしていれば取り返す事は出来なかったが、しっかりと保管しているのであれば別だ。
あの妖怪を倒せば、奪われた愛情は必ず本人の元に戻る事だろう。
希望は、ある。
「返してもらうぞ、妖怪」
「出来るものならやってみろ、意気地無し」
意気地無し、か。
その通りだ。だからこそその汚名、返上させてもらう事にしよう。お前の奪ってきた、数々の愛情と引き換えにな。
○
妖怪は、おれに向かって黒い手を何本も向けて来た。江戸の町に広がる暗くて深い闇から、際限無く生み出され、生者を引き摺り込む為の異形の手。
それをおれは、容易く斬り落とす。
幾ら手を伸ばされようとも、容赦無く刀を振るった。
まるで絹を裂く様に、おれの剣筋は研ぎ澄まされていた。
「吹っ切れたか」
「ああ、二度は無い」
もう動揺しない。
そもそも実力差は圧倒的なのだ。
迷いの無い剣を、妖怪は苦悶の表情で睨んだ。
さぁ、どう出る。
それでも尚、向かい来るならそこを正面斬り伏せる……!
「面倒だな。面倒だ。心が、揺れない。女!何故この酷い男を信じられる!この男、お前を守れなかったのだぞ!」
おれを崩すよりかは、ヨルの方が組みしやすいかと試してみたのか。
突然話を振られたヨルだが、ヨルは飄々とそれに答えた。
「いや、今もそうだけど、エニシはあなたに負ける様な人じゃないじゃない。あの時、エニシが負けたのは、結局わたしが油断したからだよ。わたしがあそこで逃げるなりなんなりしてたら、なんだかんだできっとエニシが勝ってたと思うんだよね。つまり、わたしの『せい』でしょ。わたしがエニシに怒るのは違くない?」
「女ァア!何故そんな事が心の底から言える!ふざけるな!」
声を荒げた妖怪の隙、そこをおれが斬り込んだ。
寸でで避けられる。
惜しい。後少しで、胸の、恐らく妖怪の核を斬れたのだが。
「おい色男!お前が不甲斐無いから、見ろ!此処だ!此処に女の『恋愛』がある!」
妖怪は、手に持った桜色の綺麗な玉をおれに見せつける様にズイと出す。
「それを返して貰おうと、必死なのではないか」
妖怪の揺さぶりをものともせず、おれはまたも一歩踏み込んだ。
妖怪は、おれの刀を必死になって躱した。
ヨルは、わたしの『せい』等と言ったが、おれは、ヨルの『おかげ』で戦えている。
妖怪、お前にはわかるまい。
心とは、人間とは、そう簡単に思い通りに動く物ではなく、そして、操れる物でもないようだぞ。
「くそっ……!」
妖怪が、闇に溶けようとする。
逃げるつもりか。
当然だな。おれ達の事を、一度手玉に取れたが為に、軽視していたのだろう?
それが、以前と変わらぬままに、どころか以前よりも隙が無く相対している。
技と体が揃っていたおれに、強き心を持つヨルがいる。
恐ろしくて、堪らないだろう。
だが、逃すつもり等毛頭無い。
「何だ。何だ。灯りが……」
妖怪が闇に溶け込もうとした時、長屋から、家屋から、強烈な灯りが妖怪の周りを囲った。
闇は極端に少なくなり、妖怪は逃げ込む為の闇を失った。
「どういう、事だ」
妖怪は、戸惑いを隠せず声に出してしまう。
自身の周りに、闇から闇へ繋がるものが、灯りによって妨げられる。逃げようにも逃げられなくなったこの状況に、驚きを隠せない様子だった。
「妖怪よ、おれがお前にしてやられたあの日の、お前が貪欲に追わなかったあの姉妹を覚えているか。ヨルの『恋愛』を奪って、その後は放って行ったあの姉妹の事だ」
「……美しい『姉妹愛』を持っていたあの二人か。それがどうした。また今度にでも、奪ってやろうと思っていたが」
「失敗だったな。お前は、おれに固執し過ぎた。何故そこまで執拗に、おれに苦しみを与えようとするかは知らんが、お前はヨルも、この町の人々も、軽く見過ぎだ。お前は、おれと、そして『おれ以外』の強き人々に敗れるのだ」
おれは、刀を静かに、妖怪へと向けた。
たじろぐ妖怪の元に声が届く。
それは、おれでもヨルでも、タロの吠え声でもない。
聞こえてきたのは、老若男女問わぬ、数多くの声だった。
長屋から、家屋から、その軒先へと出て来た、松明を掲げた江戸の町の人々の声だった。
「縁様に乱暴するんじゃないぞ妖怪!」「お嬢ちゃんに返してやらんかい!」「逃がさないぞ!」
妖怪へと向けられた多くの声が、妖怪を萎縮させた。
強い灯りに照らされて、妖怪は身動きが取れなくなった。
「勝てないと悟ったお前は、必ず闇に溶け込んで逃げようとするだろう。そこをおれが全力で斬り伏せようと考えていたが、確実に出来るかどうかは怪しかった。そこをどうするか、町で話している内、あの日のあの姉妹が、おれ達の元へやってきた。助けてくれた恩に報いたいと、危険を承知で申し出た。そこで、灯りで包囲する作戦をヨルが思い付き、姉妹が町の人に頼み込み、この作戦が立てられた。『愛』を持つ多くの人が、狙われる可能性が高いこの作戦に手を挙げてくれた」
おれが語ると、妖怪はブルブルと震え出す。
怒りに震え、恐れに震えた。
「馬鹿な。そんな馬鹿な。恐怖は無かったのか。オレが、人間には想像も付かない怪物が、怖く無かったのか」
おれは、妖怪の言葉に頭を振った。
「いいや違う。怖かっただろうに、それを上回ったのさ。人を想う、優しい『愛』がな」
かつての日、おれは江戸の町を、江戸の人々を想って駆け回った。
おれが、全ての人へ恩を返したかったからだ。
それが、返ってきた『だけ』らしい。
随分と、大きな意味を持つ『だけ』だなと思った。
恩を返そうとして、返されて、これはきっと終わらない。
かつての日々と想いは、今に繋がり、これからもまた、繋がっていく。
これ程嬉しい事は、そうないだろうな。
刃を横へ傾ける。
逃げ場は無い。
「ふざけるな。ふざけるな!お前は何だ。お前が嫌いだ。お前の、町に人に対する愛は、誰よりも大きく、何よりも綺麗だった。オレはそれを壊したかった。そんな物を持っているお前が羨ましかった。そんな物を持っているお前が狂う様は、さぞ面白いだろうとオレは。江戸が恐怖に陥れば、オレ達妖怪はこれからもまた生きていける。ふざけるな!お前は大きな愛を持っている!お前は大きな愛に育まれている!オレは何も持っていない!持っていないから欲しかっただけだ!ふざけるな!ふざけるな!」
喚き散らかす妖怪に、哀れみは抱かない。
自分が持っていなかったから、羨ましいから奪ったなんてその道理、一体誰に認められるというのだ。
「さらばだ、妖怪」
終わる。
長らく続いたこの戦いも、これで終わりだ。
そう思って刀を振るおうとした時、妖怪は最後の抵抗を試みた。
「ふざけるな。ふざけるな。オレだけが不幸になってたまるか。お前もだ。嫌いだ。嫌いだ」
妖怪は、その手に持っていた桜色の、ヨルの『恋愛』の玉を己の胸に入れた。
おれの手が、ピタリと止まる。
「……何をした?」
おれが問うと、妖怪はニタニタ笑って手を広げた。
さぁ、早く斬れと言う様に。
「今、女の『恋愛』はオレの核の前にある。良いのか?オレを斬れば、同じく女の『恋愛』も斬れて、無くなる。お前を想う心は、お前の手によって消える。オレを斬るか?斬れないよなあ。今宵は、引き分けとしようじゃないか。否、オレの負けで良い。オレの負けだ。認めよう。だから逃がしてくれ。オレを逃がせ。安心しろ、負けを認めたからな。オレはもう、今後一切、悪さはしない」
妖怪は、下卑た笑いを大きくし、夜に響かせた。
嘘だ。
この妖怪は、嘘を吐いている。
負けを認めているわけが無い。
悪事を辞めるわけが無い。
ヨルの心を盾に、おれは全く、動けなくなった。
「外道、卑怯だぞ……!」
刀を強く握り締める。
まさか、最後の最後でこんな手に出るとは。
守ると約束した。
勝つと約束した。
同時に、ヨルの恋心を取り返すと約束した。
おれが何より取り返したかったもの。
おれがやられて嫌な事を、コイツはどこまでも理解している。
「卑怯だぞ!」「諦めろよ妖怪!」
周りの人々も、次々に声を上げる。
「卑怯者は、オレにとっては褒め言葉だなあ」
妖怪は、嬉々としてその言葉を受け止めた。
どうする。
どうすれば、良い。
どうするのが正解か、わからない。
その隙を、妖怪は攻撃してきた。
辛くも受け止める。
斬り落とす事が出来なかった。
まさか、また動揺してしまっている。
否、するだろう、当然に。
これでは、また……。
「エニシ、斬って」
後ろから、声が聞こえた。
その声は、とても優しく、とても堂々と、凛としていた。
飛び交う町の人々の声と、大きく笑う妖怪の声の中、それでもハッキリと聞こえた。
「……良いのか?否、良くない」
おれがそう零すと、それでもヨルは、優しく言った。
「良いの。エニシ、斬って。町を守って。エニシが続けてきた事を、ここで辞めちゃいけないよ。エニシは、変わっちゃダメだよ」
後ろから、足音が聞こえた。
おれにゆっくりと近付き、そしておれの背中を優しく押した。
「やっちゃえ、エニシ!」
ギリと、奥歯を強く噛み締めた。
結局、約束を守れなくてすまない。
辛い想いをさせてすまない。
辛い事を言わせてしまってすまない。
ヨルの初めての本気を、初めての恋を、守れなくてすまない。
キッと妖怪を睨み付ける。
妖怪は、その目に恐れ、一歩後ろに下がった。
「嘘だろう。斬るのか!?お前が斬るのか!?愛した女の、愛される想いを、お前が斬るのか!?」
「そうだ」
おれは強く言い放つ。
迷いはもう無い。
だが、後悔だけは……残るだろうな。
「やめろおおおおお!」
死にたく無い一心で、妖怪は最後の抵抗に、こちらに手を伸ばし、突き飛ばそうとした。
その手を、横から黒い塊が噛み倒し、次いで妖怪の足首を噛んで妖怪を怯ませた。
タロが、おれを見る。
わかっているさ。
ああ、悔しいなあ。
なあ、タロ。ヨルを守りたかったな。
おれも、お前も、ヨルが大好きだからな。
キンッ!
一閃。
遂に、おれは妖怪の核を斬った。その大切な、恋心と共に。
断末魔を上げながら霧散していく黒い塵。
そこから、虹色の奔流が江戸の町へと降った。
奪われた愛が、帰っていくのだろう。
在るべき場所へ。
流れる星々のような光は踊るように、とても綺麗で、幻想的な……しかしどこか、切ない光景であった。
その中に混じる、仄かな桜色の破片。
一欠片がヨルの元へ、ヒラヒラと舞い、そして目の前で消えた。
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