決戦前夜

 妖怪と戦って次の日、おれはヨルの部屋へ行くのを躊躇った。

 相手に対する愛を失って、おれにどう対応するのか、不安に思ったのだ。

 足取りが重く、何度も躓きかけた。

 ヨルの部屋の前に立ち、声を掛けようと口を開いては、何度も閉じる。

 中々、一歩が踏み出せない。

 どれ程身体の大きな荒くれ者だろうが、どれ程奇怪な物怪であろうとも怖気ずに立ち向かうというのに、こういう時は弱気になるのだな。

 そんな事を思いながら部屋の前で立ち尽くしていると、突然目の前の襖が開いた。

「寝坊した!?」

 慌てて出てきたヨルに驚いて、おれは一歩下がった。

「あっ、なんだエニシ。いるじゃん。来ないなーって思ってたけど、さてはエニシも寝坊した?」

 そう言って、ヨルは笑った。

 無垢な、かわいらしい笑顔だった。

 一瞬、心が奪われて、返答が遅れた。

「寝坊したわけでは無いのだが……ヨル、身体に異変は?」

 恐る恐る聞いてみると、ヨルはうーんと唸りながら口に手を当てた。

「それがねぇ、あんまり変わりないかも。なんかね、まぁ思うところはあるんだけども、うーん……まぁ大丈夫」

「思うところ、か。おれに対して、怒りとかがあったりはしないのか?」

 いっそ、聞いてみた。

 どんな言葉も受け入れるつもりだった。

 あの妖怪の被害者は、大体想い人に対して負の感情を抱く傾向がある。

 おれのせいで、大切な『恋愛』を奪われたのだ。

 おれに対して、怒り心頭で当然だろう。

 と、思ったのだが。

「思うところなんて、具体的には恥ずかしくて言えないよ、もー……。あのね、怒りとかはないよ。むしろなんていうか、申し訳ない気持ち。エニシと喧嘩するぞーとかは全くないなぁ」

 ヨルは、あっけらかんと言い切った。

 恥ずかしくて言えない、とは成程。

 好意を抱いていた相手なのに、今はもう何とも思えないというのが変な感じという事だろう。

 それにしても、おれへの怒りが無いとはどういう事だろうか。

「まぁ、良いことじゃん!それよりエニシ、妖怪をなんとかしないといけないことに変わりはないよ。今日も町に出てみよう?タロにも会いたいしね」

「……一緒にか?」

「もちろん!」

 こうして、ヨルに引っ張られて町へ出た。

 ヨルに先導されて町に出るのは、初めての事だ。


 ○


「おーい、タロー!」

 元気良く声を掛けるヨルに、タロは嬉しそうに尻尾を振った。

「よしよし。昨日はがんばったねー。でもまだ終わってないから、今後も頼むよタロくん」

 ヨルと仲良く戯れるタロ。

 見ているこちらの空気も和む。

 ヨルもタロも、本当に良く頑張ってくれている。

 それから、町の人達に聞き取りをして、ついでに茶屋に寄ったりと穏やかな時間を過ごした。

 朝は気が重かったが、この頃にはおれもいつも通りに戻っていた。

 ヨルは、他人に対して負の感情を抱く事が極端に少ないのかもしれない。

 誰に対しても優しいのだ。

 恐らく、ヨルの話にあった、誰にでも合わせるようにしていたというのが染み付いているのだろう。

 合わせるというのも、表面上は、という事でもなく、心の底からなのだ。

 おれに対してもそうだ。恋愛感情は無くなれども、尊敬や憧れの心は残っており、元より怒りや失望が無かったのだ。

 本人に確認してみてもそう答えられた。

 嘘も吐いていないから、実際にこの状況だ。

 江戸の町の人達は、少し気性が荒い、というより、感情が正にも負にも豊かだ。

 それ故に、愛情が無くなった後、他の感情が大きく働きかけてしまって喧嘩に発展していた場合もあったのだろう。

 どちらが良い悪いという話でも無いとは思うが、今回に限っては非常に助かったと言える。

 まぁ、タロが即打ち解けた程だ。

 流石と言わざるを得ないな。


 ○


 夜になろうとしている。

 いつも通り、邸に帰ろうとすると、珍しくタロが後ろをついてきた。

 追い返す理由も無い。

 ここ最近、おれたちはずっと一緒に行動していた。

 これが一番、おれにとっては落ち着く形になった。

 日が沈むのが見える。

 赤く綺麗に空が焼けている。次第に濃い青が染め上げ、輝く夜空に変わるだろう。

 一日が終わる事を、太陽は告げていた。


「月、欠けてるね」

 邸に戻り、おれとヨルは縁側に座った。

 タロは、おれ達の間に上手く挟まって、丸まっていた。

「満月から、数日経ったからな」

 高く昇った月を見上げながら、会話をする。

 以前とは、どこか違う心持ちでありながら。

「欠けた月も、いつかは戻るよね」

 ヨルが、微笑みながらおれに語りかけた。

 あの日、おれ達が見た宝物の満月。

 そこから欠けてしまった、今宵の月。

 ヨルの心を表しているかのようだった。

「戻る。今は欠けていようとも、また必ず、満月となる」

 おれは、努めて強い口調で言った。それが当然であると、そうして見せるという意思表示の為にも。

 おれの言葉に、ヨルは満足そうに頷いた。

「うん、信じるよ。わたしは、エニシを信じる」

「……だが、おれは約束を守れなかった。守ると、勝つと約束したのに」

 それを言って、ハッとした。

 そんな事、声に出すつもりは無かったのに。

 強くあろうとする己に、優しく声をかけてくれるヨルに甘えるかの如く、弱気を吐いた。

 ヨルの方をチラリと見ると、ヨルのほっぺたがぷっくり膨れていた。

 これは、怒っている?

「あのねぇエニシ、わたしが狙われて、わたしがやられちゃっただけで、エニシ自体が負けちゃったわけじゃないよ。ハンデ背負ってても、最初は圧倒的だったじゃん。どうせするなら、今の弱気を反省してほしいよ。エニシのせいで負けたわけじゃないのに、エニシが背負っちゃダメ。弱気になったら、ダメなんだからね」

「……はんで、とは何だ?」

「あぁー……うるさい!とにかく、弱気になるなエニシ!」

 ヨルはぷんすか怒って口を尖らせた。

 そのまま、恥ずかしさを紛らわす為なのか、早口で喋り続けた。

「まぁね、エニシには悪いことしちゃったなって思うよ。わたしさぁ、神様が何かいい感じに運良くしてくれるとかも思ったんだけど、そうでもなかったよ。ちっちゃい頃のあの不思議な運の良さは本当、なんだったのかなぁ。困ったもんだ」

「……まあ、神も暇では無かったのかもな」

「あぁ、そっか。忙しそうだもんね、神さまって。町の人とか、みんなを守るため、願いを叶えるためにがんばってるんだ。あの時は、タイミングが悪かったんだなぁ」

 特に考えずにおれは答えたのだが、ヨルは一人で勝手に納得していた。

 ……照れ隠しの時は、少し顔を赤らめて、思った事をそのままとにかく早口で出すのか。関係ある話でもない話をでもとりあえず。

 恋心を失っても、あまり変わっておらんな。

 というか、恋心があったなら、どんな風になっていただろうか。

 ふっ、と堪え切れずに笑ってしまった。

「な、なによエニシ、その顔は。なんかなぁ、エニシとタロって似てるよね。わたしの行動を見て、サラッと受け流しながら、だけどもちょっと笑ったり、ジトーッと見つめたり。立ち止まってボーッとどこか見つめ続けてたり……他にも色々。なんなんだぁ」

 ヨルが、丸まって瞼を閉じているタロの身体をワシワシ撫でた。

 タロは一度目を開けて、顔を動かさずに眼球だけでチラリとヨルを見た後、関わるのが面倒くさそうにフスーッと長い鼻息を吐いた。でもどこか、嬉しそうな雰囲気を醸し出している、と思う。

 内心喜んでいるが、外見変わらず。

 好きな相手には誤解させてしまう質か。

「おれがタロと、か。似ているとは思わんな」

「そうかな。江戸を守るために頑張ってるところとか、もうそっくりじゃん」

 そういえば、タロも江戸を守る為に奔走している身だ。

 お金を貰うわけでも何でも無く、理由があるとするならば、江戸の町に住む人々の為に。

 餌を貰ったり何なりしてくれている、その恩を多少は返しておこうか、というところか。

「……似ている、のかもな」

 もしかすると、ヨルの優しい心内に、惹かれた者同士であるという共通点もあるやもしれぬか。

「エニシともタロとも、離れたくないなぁ」

 先程までワシワシと軽く揉むかの様に撫でていた手は、摩る様に優しく変わり始めた。

 その気持ちは、おれも同じだ。

 おれと、ヨルと、タロと、少し笑いながら、時に大きな声で笑いながら、のんびり歩きながら、時に駆け足になりながら、江戸の町を見回るのは楽しかったなあ。

「仕方ない。だが、前も言ったが、必ず何処かで、何かに繋がる。最後は笑顔で、終わりにしよう」

 おれの言葉に、ヨルは頷いて「そうだね」と微笑んだ。

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