怪異との戦闘

 夜、わたしとエニシとタロで歩いていた。

 いつだってそれは、突然牙をむく。

 わたしがなにも感じずに歩いていた時、突然タロが吠えた。

 すかさず、エニシが刀を握り、わたしの後方あたりを斬った。

「早いなあ。恐ろしく速い」

 とても低い声とともに、ズルリと闇から現れた黒い塊。

 あの妖怪だ。

 大きな黒い身体に、裂けたような口。

 変わらず、怖い。

 だけど、予想はしていた。

 そろそろ来るのではないかと思ってはいた。

 妖怪は、わたしを見るとニタァっと笑った。

 心底うれしそうに、そして気味悪く。

「育ったなあ。良く育った。愛だ、愛。それも、想像よりも綺麗に育った。良いなあ。人間は良いなあ。どうなるかな。奪われたら、どうなるかな」

 クセのあるしゃべり方も変わらない。

 身体も頭もブンブン横に揺らしながら、喜びを表現するようにする妖怪は怖かった。

「残念ながら、思い通りにはいかんぞ物怪」

 震え上がるわたしの前に、妖怪に対峙するように立ち塞がるエニシ。

 手には、しっかりと握られた刀。

「酷い奴だ。お前は、酷い奴だ。女を囮にオレを呼び寄せたのだろう。女が危険な目に遭うとわかっていながら呼び寄せたのだろう。酷い奴だなあ」

 ニタニタ笑う妖怪に、エニシは刀を構える。

「お前程では無いさ」

 凛としたその背に、立ち込める冷ややかな殺気。

 ああ、このエニシは、本当に怖い。

 だけど、わたしだって怖いと思ってしまうほどの、強い意思を持ってこの戦いに臨んでいる。

 これならば、妖怪に負けるはずがない。

 わたしはグッと拳を握った。

 がんばれ、エニシ。

 タロもわたしの隣で、エニシに向かってワンと吠えた。

 それが開始のゴングとなって、エニシは一足飛びに妖怪に斬りかかった。

 狙うは、妖怪の胸の辺り、一閃。

 横振りの刀は、妖怪の脇腹辺りを斬り裂き始め、すぐに妖怪が霧散した。

 その後、さらに下がってズルリと暗闇から巨体を出す。

 おしい。

「怖いなあ。迷いの無い、恐ろしい奴だ。妖怪はなあ、オレ達は、元々人間から生まれたモノだ。元々は人間だったものさあ。それを迷い無く斬るなんて、お前は鬼だなあ」

「随分と、褒めてくれるではないか」

 エニシの周りを無数の黒い手が囲む。

 それをエニシは全て綺麗に斬り落とし、軽口まで飛ばす。

 妖怪から顔を、目線を外すことなく、後ろから手が襲いかかろうとも防ぐ。

 力の差は、圧倒的だった。

「オレも、元々は江戸に住んでいた人だぞ。随分色々な人を喰った為にわからんだろうがなあ、オレも、お前が守るべき者の一人だぞお」

「色々な人を、喰っただと?なれば尚更、緩める気等は起きんな!」

 妖怪が、エニシに色々な言葉をかける。

 たぶんだけど、あれは、エニシの気持ちを揺さぶろうとしているんだ。

 だけど、エニシの強い意思はまったく揺らがない。

 今を生きる江戸の人を守るため、自分の知る人々の笑顔を曇らせないために、ブレることのない強い意思を持ち続ける。

 エニシは妖怪を倒すことが出来る。

 しかし、妖怪はエニシを倒すことが出来ない。

 これはエニシの、独壇場だ。

 たまにわたしの方に手が伸びかけても、タロが上手く手を牽制してくれる。

 その隙に、エニシが妖怪の胸の辺りを狙い、妖怪は手を引っ込めてでも逃げることしか出来ない。エニシとタロの連携で、わたしは守られている。

 そして、妖怪は胸の辺りを斬られることをすごく嫌がっているようだ。

 だったら、わたしの考えは当たりだ。

 妖怪の心を斬れば、あの妖怪は間違いなく消える。

 妖怪が消えれば、奪われた心も取り返せるかもしれない。

 勝ちの決まった戦いだ。

「酷い奴だ!お前は酷い奴だ!色男!恋心を利用して、自分のやりたい事を成す!お前は酷い奴だ!」

 妖怪が、あまりの劣勢に叫んだ。

 悲痛な叫びだ。

 あれだけ怯えているということは、エニシの勝ちはもう目前ということだ。

 わたしがホッとしながら見ていると、エニシの刀がおかしな動きをした。

 今まで豆腐を切るかのように、闇の中をスッと斬り込んでいた刀が、ほんの一瞬、引っかかったかのような動きをした。

 それが一度ならばよかったけれど、何度も何度も、その動きが繰り返される。

「ヨル……?」

 エニシが、ポツリとこぼした。

 妖怪に、そしてわたしに確認するかのように。

 わたしは、ハッとなった。

 エニシには、伝えていない。

 わたしが妖怪に狙われる本当の理由を教えていない。

 エニシには、江戸の人たちのために頑張る、その気持ちから、おそらく妖怪に狙われているのだと誤解させたままだ。

 すこしばかりエニシと良い雰囲気になったのはあるが、わたしがエニシに気持ちを伝えるようなことはしていない。

 まずい、と思った。

「エニシ!妖怪の揺さぶりだよ!気にせず、斬って!」

 わたしは大声で叫んだ。

 夜の江戸に響き渡るように、エニシによく聞こえるように。

 その声はもちろん、妖怪にも届く。

 妖怪は、先程のあわてていた声から一転、引き裂けんばかりに口を笑わせた。

 ブルブルブルブル、あおるように身体を大きく揺らして気持ちが悪く。

「おい、おい、気付いていなかったのか?あんなにわかりやすい恋心に、気付いていなかったのか?綺麗な綺麗な『恋愛』に、気付いていなかったのか?そんな事はないよなあ。そんなことはない筈だ。オレが欲しい物は愛だ。とても綺麗な愛だ。あの女は、お前に恋愛感情を抱いていたのだ。お前と過ごす内、膨らみ続けた気持ちだ。気付いていなかったのか?そんな事はない。お前は、わかっている筈だ。お前は全てをわかっている筈だ。わかった上での行動だろう?酷い奴だなあ。酷い奴だ。お前、どんな気持ちであの女と接していたんだ?お前の行動は、あの女を傷付けてはいなかったか?他人から好かれている事を、ちゃんと考えられていなかったのか?」

 エニシは、何も返さない。

 自身に襲いかかる黒い手を斬ろうとするが、その刀は、徐々に引っかかりが大きくなり、斬れ味を落としていく。

 ついには、刃がまったく通らなくなってしまい、エニシは攻撃を弾くことしか出来なくなった。

 わたしの方にも魔の手が伸びる。その数は、エニシが苦戦する時間に比例して増えていく。

 タロが吠えたり噛んだりして必死に助けようとしてくれているが、限界がある。

 エニシ自身も、何度も何度も攻撃されて、たまらず下がり、わたしたちのことを気にしてすぐそばまで来た。

 その頃には、完全に斬ることが出来なくなっていた。

 なんとか黒い手を刀で弾き返すが、鮮やかに斬るのとはわけが違う。

 泥臭く防ぐしか他はなく、エニシの体力が急激に奪われ始めた。

「ハァ……ハァ……ッ!」

 四方から襲い来る黒い手を弾き続けて、ついにエニシの呼吸が荒くなる。汗は滝のように噴き出して、額から頬、あごにかけて流れ、その後また激しく動いて遠くへと飛ばす。

 タロもわたしのみならず、エニシの力になろうと走り回るが、それもいつまで続くかわからない。

 わたしが、わたしだけが、なにも出来ずにいた。

 妖怪を倒すための方法も調べられた。

 エサになって、妖怪を呼び寄せることにも成功した。

 だけど、戦いが始まってしまったらもうわたしはお荷物だ。

 動かずにジッとして、なにもしないことが一番迷惑にならない。

 それは、とても嫌になって、とても苦しかった。

 疲れがたまり続けるエニシは、それでもやはり強かった。

 ふうっ!と息を短く、それでいて全て吐ききり、最低限の酸素を吸ってまた刀を振る。

 強い意思は動揺し、斬ることが出来なくなっても、積み重ねたものが違う。

 幾万と刀を振り続けた努力が、妖怪を寄せつけなかった。

 これほど強いエニシだ。

 そのエニシが、わたしの恋愛感情で動揺しただなんて。

 エニシも、少しは思うところがあったの?

 わたしは、うれしいような複雑な気持ちだった。

 エニシも、妖怪も、お互いにあと一手が足りない。

 流れが変わる一手、それをどちらが掴めるか、どちらに傾くか。

 そんなの、決まってる。

 勝つのはエニシだ。

 わたしは信じている。

 それに、わたしには昔からとんでもない運がついているんだ。

 エニシにも話したとおりだ。

 わたしは、普通ならあり得ないような不幸だって、たぶんだけど神様が味方してなんとかしてくれた。

 きっと、今回も神様が助けてくれる。

 お願い神様!あと、わたしをここに送った神様代理の犬さん!

 流れが変わる一手を、そう願った。

 すると、本当に状況は変わることになったのだ。

 ……悪い方に。

 声が聞こえた。

 それは、小さな怯える女の子の声だった。

「ひ、い……!」「ダメだよ!」

 声のする方を見ると、そこに、女の子が2人いた。

 わたしとエニシよりも幼い2人の子どもだ。

 家を抜け出してきたのか、それとも他になにか、理由があったのか。

 理由はなにかわからないが、子どもが2人、最悪な場所に最悪なタイミングで現れた。

「なぜ、あんなところに…!」

 エニシが、ギリリと歯を噛み締めて言う。

 エニシならば、すぐさま駆け寄ることの出来る距離だ。

 だけど、わたしはそんなに素早く動けない。

 わたしでは、どうしたって妖怪に狙われてしまう距離だ。

 当然、わたしを抱えてエニシが走っても無理だ。

 妖怪は、それに気付くと高らかに笑った。

 とてもとても、楽しそうに。

「良いな!アレは良い!姉妹だ!」

 妖怪の言葉に、わたしはハッと息をのむ。

 姉妹、その言葉だけで、妖怪の狙いがすぐにわかった。

 わたしだけじゃなく、あの姉妹も狙われる。

 それはエニシの気を引くためとか、隙を作るためとか、それだけではない。

 姉妹の持つ『姉妹愛』。

 あの姉妹を放っておけば、間違いなくあの女の子たちの絆は奪われる。

「エニシ!あの子たちを助けて!」

「そうしたくとも、難しい!」

 それはそうだ。

 エニシは、わたしを守るために動けない。

 わたしを、守ると約束してくれたから、エニシはわたしから離れない。

 そんなのダメだよ。

「エニシ!助けに行って!」

 わたしの強い声に、エニシが顔を向ける。

 迷いのあるその顔に、わたしは強く言い切った。

「話したでしょ。わたしは、運が良いんだよ。なんとかするし、なんとか出来なくてもなんとかなる。ねぇ、エニシ。わたしは、本気でがんばるって決めたんだ。妖怪の言ってたことは本当。でも、この町の人たちを救いたいのも本当」

 そうだ、わたしは、本気でがんばるって決めたんだ。

 エニシの笑顔が見たくて、もしかしたら、好きになってくれるかもなんて期待して、がんばった。

 でもその気持ちが芽生える前、わたしが江戸に来たばかりの頃、被害に遭った夫婦から話を聞いて、かわいそうだと思った。

 それを奪っていった妖怪が許せないと思った。

 江戸に来てからもう何日、わたしにもたくさん優しくしてくれた江戸の人たちのことを想った。

 どちらも、本当だ。

 あの姉妹を傷つけさせちゃいけない。

「行って!エニシ!」

 わたしの声に、エニシは苦い顔をしながら駆け出した。

 エニシが、わたしから離れる。

 わたしから、意識を完全に姉妹の方へと向ける。

 初めての感覚だった。

 それは、もっと昔から続いていたなにかが、わたしから離れる感覚。

 ワンッ!!!

 カッと目を見開く。

 タロの大きな吠え声で、正気に戻った。

 危ない、ボーッとしている場合じゃない。

 今の感覚はとても奇妙なものだったけれど、それに気を取られているわけにはいかない。

 エニシがわたしのそばを離れた。

 戦いが始まった時とは状況が違う。

 さっきまでは、エニシがずっとわたしのことを気にしてくれながらの戦いだったのだが、今は完全に姉妹だけに集中するしかない状態だ。

 わたしか姉妹、どちらかしか守れない。

 それほど、体力的にも精神的にもエニシに余裕がない。

 姉妹の方に行ってもらった以上、わたしは、わたしの力でなんとかしなきゃいけない!

「タロ!こっち!」

 わたしは、闇の中を走り出す。

 タロもその横をついてきた。

 走り出したのは、とにかく妖怪から離れるように。

 姉妹は、妖怪のかなり近くにいる。

 エニシも必然、妖怪に近付くことになる。

 妖怪は、特に焦らない。今は、妖怪の方が有利だからだ。

 エニシは、黒い手を弾きながら一瞬で姉妹の元に到着した。

 到着してから、姉妹を守り続けなければならない。

 わたしを守る余裕はない。

 頭を回せ、がんばりどころだ。

 このままわたしがエニシの近くに行ったとしても、エニシが姉妹とわたしを広範囲で守らなければならなくなる。

 それじゃあ多分、エニシが保たない。

 仮に合流出来たとして、状況は変わらない。

 むしろ姉妹とわたしが一ヶ所に集まることで、完全に逃げれなくなり、エニシがより気を散らすことになるだけだ。

 だったら、逆の発想だ。

 エニシの元に一ヶ所に集まり、妖怪も集中的に狙えるような状況とは逆。

 わたしが、妖怪から離れるんだ。

 もし、妖怪がわたしの方も狙い始めたら、エニシへの攻撃が緩まるかもしれない。

 そうなれば、今はすこしだけ調子が悪いみたいだけど、きっとエニシがなんとかしてくれる。

 もし、妖怪がわたしの方をこのまま狙わなかったとしたら、わたしは一度安全な場所に隠れる。

 そうすれば、姉妹を守るエニシだけが残り、さっきまでと同じ状況が作れる。

 わたしが自由に動けるようになれば、エニシの助けになるようなことが出来るはずだ。

 

 わたしが狙われても狙われなくても、逃げ切ることが出来ればどっちにしろお得!

 とにかく走れ!


 黒い手がわたしに襲いかかるのを、タロが必死に噛み付いたり、体当たりして止めてくれる。

 その隙に、手をかいくぐる。

 この調子ならいける!と思ったけれど、黒い手の量がどんどん増えてくる。

 まずい。思っているよりも、わたしを狙う量が多い。

 エニシの方をチラリと見ると、エニシの方もそこそこだが、こちらの方が多いかもしれない。

 このままじゃ保たない。

 だけどわたしだって、やられっぱなしじゃ終わらないぞ!

 妖怪は、暗闇が好き。それはつまり、光が嫌いということだ。

 わたしはスマホを取り出した。

 これがわたしの切り札だ!

 本当は、エニシが妖怪を倒す時に、隙を作る為の奥の手として使おうと思っていたのだけれど、仕方ない。

 それにそもそも、通用するかどうかはわからない一手だ。

 一か八かの賭けだけど、成功することを祈ってやるしかない!

 わたしは、スマホの画面を素早く操作する。

 この時まで、画面をつけずに、とにかく電池を使わないようにしていた。

 江戸だと、充電なんて出来ないしね。

 そうやって注意していたけれども、それでももう充電はほとんどない。

 使えるのは、一回限りだろう。

 わたしは、スマホのライトを付けて、周りを照らした。

 いきなりこの時代では信じられない眩しい光を受けて、黒い手が固まる。そのまま消えていく。

 思った通りだ!闇に溶け込む妖怪だ、光にはすごく弱いんだ!上手くいった!

「なんだそれは!なんだそれは!」

 後ろから、妖怪の慌てる声が聞こえてくる。

 ふふん!どんなもんだい!

 わたしは、そのまま走り抜けた。

 ここまで離れれば、妖怪だってこちらに向かって近付こうとしなければなにも出来ないはず。

 それは、エニシに背を向けるという事だ。エニシから目を完全に離さないと無理だろう。

 流石に、エニシの調子が悪くなったとはいえ、おそろしくてそんな真似は出来ないはずだ。

 振り返って、エニシの方を見る。

 エニシと目が合う。

 わたしは、エニシに親指を立ててグーサイン。

 エニシの苦そうにしていた顔に、ほんの少しだけ笑顔が戻る。

 そのままタロの顔を見ると、タロの誇らしげにしている様子が見えた。

「やったね!」

 タロが、ワン!と元気良く吠えた。

 さぁ、反撃開始だ!


 そう思っていたけれど、妖怪はさらに一枚上手だった。


 わたしが離れてしまうと早々に、妖怪はエニシへの攻撃に集中する。

 エニシは少し立て直したものの、それでもやっぱりまだ斬ることが出来ず、姉妹を背に全力で守ることしかできない。

 自由に動けるわたしが、妖怪をなんとかしなきゃいけない。

 エニシの強い意思を取り戻しつつ、だ。

 そう思って一歩踏み出した。

 その瞬間、ズルリと黒い手がわたしの目の前に一本だけ出てくる。

 困った。もうあと一歩踏み出せば、妖怪の手が届く範囲だ。

 たった一本だけしかこちらに気を回していないが、わたしはこのたった一本で動けなくなる。

 タロを見ても、タロは唸るだけで動こうとしない。

 下手に動けないんだ。

 たしかに、この一本をどうにかしたって、その横からかどこからか、何本も何本もこの気味の悪い黒い手が生え始めるだろう。一度完全に捕まってしまえばおしまいだ。

 身体中に絡まって、きっと離してくれないだろう。

 わたしはたった一本の黒い手に『恋愛』を奪われておしまい。タロが動けなくなってもおしまい。

 一度完全に、わたしもタロも姿を消して不意打ちした方がいいかな。

 迷っていると、状況がまた変わり始めた。

 エニシの体力が限界に近いのだろう。

 全力で刀を振るってもう何十分。

 エニシの身体に、ついに傷が付き、血が流れ始めた。

 ダメだ、迷っている時間は無い!

 スマホの電気を武器に、なんとかしなきゃ!

「タロ!行くしかないよ!」

 わたしの声に、タロはもう一度元気に吠えた。

 作戦は、すごく単純。

 ほんの少しだけわたしが近付いて、妖怪がまたわたしの方を狙うようにする。

 その隙に、どうにかしてエニシに姉妹を逃がしてもらうしかない。

 大丈夫、エニシは少しだけ気持ちが回復したし、わたしが逃げることも出来るんだってさっき証明出来た。

 エニシにも、一度逃げるという選択肢が増えたはずだ。

 がんばれ、わたし!

 もう一歩踏み出すと同時、タロが黒い手に飛びかかった。

 一本の黒い手がたまらず消える。その横から、何本も黒い手が生えてきたけれど、わたしがスマホの光でまたかき消した。

「今だよ!エニシ!」

 叫んだ。とにかく、大きな声で。

 エニシは、その声を合図に姉妹を立たせて走り出す。

 そのまま、逃げ切って。

 しかし、姉妹の小さい方が、足をもつれさせて転んでしまった。

 無理もない。

 足が震えて、立てなくてもおかしくなかった。

 エニシがそれを庇おうとしたが、黒い手の猛攻にたまらず吹き飛ばされた。

 エニシが、姉妹を抱きながら倒れ込む。

「あっ」

 その時、わたしは、一歩下がって妖怪から離れるべきだった。

 あるいは、全力で走ってエニシのそばにでも行くべきだった。

 だけどわたしは、吹き飛ばされたエニシの姿に驚いてしまって、完全に止まってしまった。

 その様子を、妖怪が満面の笑みで見ていた。

 タロがわたしに向かって吠えたと同時……


 わたしの胸を、黒い手が貫いた。


 それは、攻撃のためのものではない。

 エニシにやっていた物理的な攻撃ではなく、わたしの『恋愛』を奪い取るためのもの。

 だから、痛みはなかったし、傷もなかった。

 わたしの胸から貫かれた手に収まる、綺麗な桜色の丸い玉。

 痛みはないけれど、心にぽっかりと穴が空いた感覚。

 わたしの大切な、わたしの初めての、本気の心。

 声も出すことが出来ず、そのままズルリと腕は引き抜かれた。

 黒い手は地面に消える。

 わたしは、ドサリと音を立てながら倒れた。

 口の中、ジャリッと嫌な感覚がした。土の感覚、嫌な味。

 身体に力が入らない。きれいとは言えない地面に、身体も顔も全身でへたり込んでしまう。

「奪った」

 妖怪が、ニタリとしながら言う。

 妖怪の身体に繋がる手には、わたしから奪われた桜色の丸い玉が握られていた。

 エニシを見ると、エニシが呆然としながら、わたしの方を見ていた。

 目が合った。

 エニシの顔が、今までに見たことのないほどに、酷く、歪んだ。

 泣きそうな顔で、こちらを見ていた。

 すぐにわたしの方へと向かおうとして、地面から生えた黒い手に突き飛ばされた。

 壁に頭を打って、エニシの頭から血が流れる。

 その血が、エニシの目にかかる。

 それでもエニシは目を閉じず、キッと妖怪を睨んだ。

「返せ!!!」

 聞いたこともないような大きな声を出して、エニシが立ち上がる。

 姉妹を置いてでも、妖怪に向かおうとする。

 ダメだよエニシ。

 それは、ダメだよ。

 あぁ、奪われちゃったな。

 ごめんね、エニシ。

 わたし、あなたの力になろうとして、失敗しちゃった。

 姉妹は守ってね。

 あなたも無事でいてね。

 ごめんね、タロ。

 ずっと守ってくれてたのに、わたしが失敗しちゃったんだ。

 涙が出てきた。

 失った感情を想って、涙が止まらなかった。

 もう以前とは同じように想えない、大切な心のことを想って涙が出た。

 わたしの心から、エニシへの恋心が消えた。

「う、うぅう〜……っ!」

 声なんか出して泣いたら、エニシがもっと無茶をしちゃう。

 我慢しようとしたけれど、それでも止まらない。

 タロがそっと寄ってきて、涙を止めようと顔を擦り寄せてくれた。

 ごめんね、ごめんね……。

「返せ!!!返せっ……!」

 エニシが無茶苦茶に剣を振るう。

 妖怪は、ゲタゲタ大きく笑いながら、エニシをまた突き飛ばして、闇の中に溶けた。

 逃げたんだ。

 嘲笑って、逃げて、また隠れてこっそり笑うんだ。

「くっそおおおおおお!!!」

 エニシの声が、夜の江戸に響いた。

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