失われたもの

 私達は、確かに妖怪を見ました。

 夜、家の周りで物音がしたものですから、二人で外に少し出たのです。

 泥棒なんて入ってこられちゃあ困ります。犬猫が入ってきていたって困ります。ですから、お店の確認がてら外に向かったわけです。

 そこで、私達は見たのです。

 それは、とてもとても大きな身体をしていました。

 身の丈は、私達よりも一回り大きかったものですから、それはもう、大層恐ろしかったです。

 想像してみてください。

 とんでもない猫背であるというのに、大人の身長を優に超え、その手足は細くて長く、真っ黒な影のようでした。

 目は見えませんでした。だけど、顔の部分に引き裂かれたかの如き大きな大きな口がありました。

 その口がまた、気色の悪く、ニヤリと笑っているのです。

 ソイツは、家と家の間の深くて暗い闇の中からズルリと出てきました。

 そうして、私達にこう語りかけてきたのです。

 良い。良い物を持っている。欲しい。それが欲しい。よこせ。よこせ。

 その時、私達は特に何も持っていやしませんでした。

 持っていたとしても、袖口に入れていた小銭くらいのものです。

 ですが、その妖怪は、私達に手を伸ばしてきた。

 非常に早かったです。

 あっ、と思った時には、私達から『何か』が奪われていた。

 妖怪の手には、とてもとても綺麗な丸い玉がありました。

 それは、純白に輝いていました。

 私達が手に持っていた物ではありません。

 ですが、私達の、とても大切な物であるということが何故かわかりました。

 妖怪が恐ろしかったのは当然ですが、それでも、返せと必死にならざるをえなかった。

 それほど、私達にとっては大切な物だと思えたのです。

 しかし、妖怪は只々ひたすらにゲタゲタと笑って、その大きな口を目一杯に開いていました。

 そうして、私達をひとしきり嘲笑うと、闇の中に溶けて消えていきました。

 私達の、何かわからない大切な物と一緒に。

 それからです。

 あれは何だったのかと夫婦で話し合っていましたが、お互い話がどこか噛み合わず、逐一その動作や口調に腹が立ってしまう。

 今までこんな事はなかったのに、という混乱も加わって、どうにも怒りが抑えられなくなっていく。

 他の人に対しては無いのです。

 ただ、夫婦お互いのみに、いつもの感情を抱く事が出来なくなってしまった。

 喧嘩の内容なんて本当に何でもよかったのです。

 私達は、ただお互いに罵声を浴びせ続けました。


「そして、喧嘩の途中でおれが来たわけか」

 エニシが言うと、夫婦はふたりとも深くうなずいた。

 エニシは、わたしの方を向き、どう思う、と聞いた。

「えーっと、まとめると、夜になんかすごく大きな妖怪が現れて、夫婦さんも知らない何か大切な物を盗んでいったんだよね」

「らしいな。何か大切な物とは?怪異の正体とは?そして目的は?謎が多いな」

 わたしも考えてみるけれど、そんなのわからない。

 わからないことの方が多いし。

「うーん……妖怪なんだし、多分何でもありなんだよね」

「そう、だろうな」

「じゃあ、妖怪が夫婦さんを憎しみ合うように催眠術にでもかけたとか?」

「催眠術?」

「えーっと、喧嘩するよう憎しみ合えー!って思い込ませた的な」

「ふむ……あるかもしれないな。だが、与えられたわけではなく、奪われたのだぞ」

「そっか。そうなると、やっぱりわからないな……」

「だが、ヨルの考えは斬新だな。成程、何も持っていなかったはずなのに、良い物を持っていた。本来は、形の無い物。感情、か」

 エニシはそう言うと、あごに手を当てて考え込んでしまった。

 そうか、感情か。

 それならたしかに、なにも形としては持っていなかったとしても存在するものだ。

「でもさ、感情って、喜怒哀楽ってやつでしょ?優しさ、なんて奪われちゃったら、他の人にもイライラしちゃうはずだよね」

「ああ。夫婦間、というのが肝なのかもしれんな」

「ピンポイントだね」

「……ぴん、なんだ?」

「ごめん、えーっと、なんていうの?」

 わたしは、手でわちゃわちゃとして何とか伝えようとする。

 これが、ここ、ここだけ。

 とか何とか言いながら変な動きをするわたしの様子を、エニシはジーッと見つめていた。

「……局所的、か?」

「多分それ!」

 わたしが言うと、エニシは、ふぅ、とため息をついた。

「まあ、そうだな。随分と限定されている。感情などというものを取れるのならば、もっと大枠で取ってしまった方が恐ろしそうだ」

 エニシの言葉に、わたしも、うんうんと首を縦に振った。

 その様子を見ていた夫婦は、不思議そうな顔になっていた。

「えぇっと、縁様、そのお嬢様はなんなんでしょう」

 やーん、お嬢様だなんて。

 おじさまお上手!やっぱりわたしって子どもっぽいよりも大人っぽく見られちゃうのかな、なんて!

「コレは……異国から来た客人だ」

 コレて。

 失礼極まりないだろエニシ。

「へぇ、異国の。確かに、面妖な服装をしていますね」

「今回の怪異に何か関係しているかもしれないからついて来させている。他の者にも言っておいてくれ。後、少しの間は夫婦間で距離を取れ。きっと、怪異の仕業なのだ。何とかする」

 エニシの言葉は、とてもまっすぐで、どこか安心出来る。

 夫婦も、エニシの言葉を聞いてからどこかホッとしたようにしていた。

 この人なら、なんとかしてくれる。

 そう思わせてくれるような、心の強さが感じられた。

「お願いします、縁様。それから、異国のお嬢様も」

 深々と下げられた頭を見て、その不安そうな顔を見て、わたしも気を引き締めた。

 なんとかしてあげたい、と。

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