ろうそくを灯す

鈴ノ木 鈴ノ子

ろうそくをともす


 秋風が急に冷たさを伴って吹いた日。

 綺麗な紅葉を見せなかった公園の木々達は、ぼんやりと染めた葉を風に流し、我が家の庭へと積もらせていた。

 玄関先までの道を毎日のように箒で掃いて片付けてはいるけれど、その量は日に日に増えて困ってしまう、公園を管理している市役所に文句をつけようにも、夫はそこの職員なので言えた義理でもない。

 元の住処からは考えられないほどの小さな小さな平屋建ての一軒の家。

 この家に暮し始めてからもう8年の月日が過ぎ去り日本での生活にもだいぶ慣れてきた。ライフラインの使い方も便利な風呂の沸かし方もスマートフォンの使い方にも戸惑うことはない。

 夕食は夫の好物であるカレー。

 泥を水道水で落としながらふと目の前の窓に反射した顔をぼんやりと見つめた。

 亜色の髪と違和感のない程度に尖った耳、左頬には火傷の痕、我ながら綺麗とは言い難い、でも、幸せな時間を過ごしているからか不幸せは纏ってはいなかった。


 私は世界を違えたところからやってきてこの国に住むようになった異世界の住人。

 御伽噺や物語で良く記される「魔王」とやらが私で「勇者」とやらが夫。

 でも、絶大な権勢を誇ったことも、圧政を敷いたこともない。


 私、サリバン・アレハンドラ・ラーベルが即位したのは10歳の冬のことだから。


 人間族と魔族の200年戦争の終焉は魔族の敗北に終わり国は大混乱へと陥った。

 阿鼻叫喚の嵐と良いかもしれない、敗北を受け入れる側と受け入れぬ側で血で血を洗う内戦へと至り、やがて不平不満が渦巻く憎悪の地に成り果てると魔人の心は乱れに乱れてゆく。

 魔王を捕らえた勇者は驚くほど速くにその姿を消し、勇者を召喚した国から派遣されて来た占領の監督官は魔王と王配を即時に処刑した。監督官は私達の文化から生活に至るまでを「悪」と決めつけるような無理解な人間で、戦後の荒廃した国を立て直すべく立ち上がった臣下達による、不眠不休の数多くの努力をも馬鹿にして嘲笑う人物であった。

 自らに意見する者を容赦なく切り捨て靡く者ばかりを重用しては権力を固め、幼帝、つまり私はすぐに宮廷の奥に軟禁されてしまった。一切を預かり知らぬところで優秀な臣下に死罪を告げる命令書が出回り、断頭台の上で次々と露と消えてゆく。

監督官は私の異母兄弟の一人を妻に迎え入れると、ついには王位の簒奪さえももくろみ野心に囚われていった。軟禁された小さな部屋に私の味方などは居らず、身の回りの世話をする家臣達は、あえて私の名で死刑にされた者の家族が宛がわれ、怨嗟の中で情のない世話を受けた。

 私の食事には常に薄い毒が入れられていて身は常に気だるく熱を帯びていたし、洗濯や掃除も自ら行った、肌が荒れ果てる洗濯石鹸で我が身を洗いながら布団で眠りについては亡き父母思ながら枕を濡らす日々。

 そんな月日を2年以上過ごした。

ようやく内戦が終結し、そして監督官とその妻の派閥が勝利したのを、必需品を持ってきて床へと投げ捨ててゆく召使から聞くことができた。


「新王より死刑と処すると沙汰が下った」


 王位は簒奪されて牢獄へと身柄を移され、そこで数多くの口にするのも憚れるほどのこと我が身に受け、そして、今までの委細を知ることとなった。

 ズタズタの我が身を引きずり独房の隅で涙することも忘れた私は、日々、汚れて据えた匂いのする壁に据えてつけられている燭台に目を向ける。


 唯一の暖かな光がそこに灯っていた。


 日々の辛さを時より身を揺らしながら灯る淡い光を見つめて耐え忍ぶ。

 同房の1人は私が眺める蝋燭を手に取ると、頬へと無理やりに押し付けて熱い蝋と炎で毎夜に私の頬を焼きながら笑った。私はソレに耐え続けたが焼かれ過ぎたために回復力が落ち痕が残った。

 そんな地獄の日々が死刑の最後まで延々と続くのかと絶望した頃に運命の神はかろうじて私へと微笑んでくれたのだった。あれはそう、忘れもしない死刑執行の当日。

 着たこともないほど豪勢なドレスを貧相な体に纏わされ、魔王錠前の大広場で悪意と好奇の視線が纏わりつくほどの衆人環視に晒されながら断頭台の道を一歩一歩と歩んで行く、そこに数年前に一度見た勇者の姿があった。

 生気に満ち溢れた姿からは想像できぬほどの表情と不幸の色を纏っていたことには驚きを隠せなかった。私と視線が重なり合い、暫くの間、彼と私は互いに視線を交わし続け、かの顔が絶望に満ち溢れてゆくのを見つめた。

 腰に下げられた剣が抜かれたが、その刃は私に振り下ろされることは無かった。

 王座に座る異母兄弟の女王と脇に控える監督官に振り下ろされ、勇者に付き従っていた軍団がその取り巻き達の首を一斉に跳ねてゆく。

血しぶきがあちらこちらに飛び交い、とんだ首が断頭台前の私の首が晒されるところへと次々と置かれてゆくのを私はぼんやりとただ見つめているだけだった。

 隊長格と思われる数人が勇者に対して血塗られた剣を掲げて敬意を表し、勇者はそれに手を振って返事をすると私の傍へと駆け寄ってきた。


「この世界は好きか?」

 

 勇者が唐突に私に問う。

 意図する意味の深いところまでは理解できなかったが答えは決まっていた。


「大っ嫌い」

「そうか、じゃぁ、行こう」


 勇者が胸元からまんまるの宝玉を取り出して地面へ叩きつける、凄まじい眩光に眼を瞑り、やがてゆっくりと目をあけるとこの家の玄関前に揃って立っていたのだった。

 そこから勇者、いや、有村光夫とのこの生活が始まったのだ。

 始まりの日、私はこの家の居間へと案内された。

 勇者の自己紹介から始まり、そして、この家は彼の持ち家で家族はおらず親戚もなく孤独であること、彼は大学という学院の生徒であること。そして、スキルと呼ばれる付与されたものに苛まれていることを告げられた。

 

 そのスキルは「心眼」という。


 それを聞いた途端、私は背筋がうすら寒くなった。

 心の奥底までを意識に関係なく覗き見続け、また、干渉することも可能な恐ろしいスキル。

そしてこうも呼ばれている。


「保持者殺し」


 一対一ではない、周囲すべての心が分かってしまうのだ。

 覗こうと思って覗くではなく、常にそれは続き自らの中に入ってくる。十人いたら十人の心が、百人にいたら百人の心が、千人なら千人の心が、スキルによって覗かれて自らの意思に関係なく意識の中に入ってくるのだ。


 善意も悪意もすべて…。


 この世界でラジオというものに触れているが、これが人数分だけ並び、大音量で喜怒哀楽の心声を鳴らし続けると考えてくれればよい。

 驚いたことにこのスキルを得たのは凱旋後のことであり、それまでは特段のスキルも使わずに軍団を率いていたらしく、それにも私は背筋を寒くしたものだ。

 

 スキルのせいで人々の裏表を見知ってしまったが故に、己が成したことが正義だったのかという不安に駆られた彼は、戦後に召喚国の記録をすべて洗いざらい調べた、そして、それが過ちであり、彼より前にも数人が召喚されており、全員が不適合者に該当する成人であったために殺害されていることを知った。


 召喚の書物には適合者はこう記されていたそうだ。


『年の頃は10代半ば、正義感の強く穢れなき眼を持ちたる男子をかの地より呼び寄せ、祝福と従属の儀式の後に事を成さしむること、大成の暁にはこれを暗に屠り国の礎とすべし』


 私の処刑後の帰路で殺害される手筈なっていることも、彼は魔王を討ち取る旅を共にした腹心より知らされていた。だから、その者に軍団の指揮を託し、国王と貴族連中を皆殺しとし、監督官以下の魔族の王族と貴族連中も始末する計画を立て、最後に王宮から持ち出した召喚水晶を砕くことで元の世界へと帰還する手筈となっていたそうだ。

 だが、断頭台で私と見つめ合い、私の心も、他者の心も、すべてを悟り知った彼は最後の善意で救い出すことを決意してくれた。


「勝手が大分違うけれど、少なくとも誰かに酷いことをされることもない、支え合っていけば何とかなるよ」


 頼れるものなどいない世界で暮らしてきて、だから、彼のこの一言はとても嬉しかった。[頼れではなく支え合う]。 投げかけられた言葉の優しさと心強さに涙を零した。


 暴風雨に晒さされた大地に新しい芽吹きがあるように、私の心は時間をかけて回復への一歩を踏み出し、緩やかな歩みは小走りとなり、やがて駆け足となった。

 でも、彼は相変わらず苦悩の中にその身を置き続けていた。

 スキルは元の世界に戻っても変わることは無く、彼は苦行に身を置く僧侶の如く、人々の善意と悪意に彩られた町へと出ては学業をこなし、アルバイトという仕事をこなし、この家へと帰り着く。

 この世界には魔力や魔術というものがもともとないためなのだろうか、私は使えたはずの封じの術は全てが失敗するばかり、日々の生活で会得した家事をこなしながら彼を支えることしかできなかった。


 あの日までは何もできぬ小娘だった。

 そう、あの日までは。


「この味はどうやったの?」

「レシピに沿って作ってみたけど?口に合わなかった?」

「いや、死んだ母さんの味に似てて……」

「きっとこれのお蔭だよ」


懐かしの味だったためだろうか、彼は喉に詰まらせんばかりに口へとスプーンを運んでは頬張る。皿まで食べるのではないかと思えるほどの勢いで盛られたカレーを食べつくしていった

 明日の彼のお弁当の為に多めに炊いたお米も鍋一杯に作って寝かせる筈だったカレールーもおかわりを繰り返し、アッという間に二つは鍋底まで綺麗さっぱりに攫われてしまっていた。

 ぽっこりと可愛らしく出たお腹を摩った彼がそう聞いてくるので、私は卓上に見つけたそれを優しく置いたのだった。


家事の中で一番苦手なもの、それが料理だった。


 私の料理知識はこちらの世界では手に入らない食材ばかりで役に立たず、この家の書棚にある日本語で書かれた調理の本から学ぶべく、日本語を覚え、ようやく料理を学ぶあたりまで漕ぎ着ける頃合いにそれと出会ったのだ。

料理の本が並ぶ棚で日に焼けした一冊のノート。

 仏間で柔らかく笑う彼の母が書き残した手料理のメモ帳だった。

食材から調理の仕方まで、それを口にした幼い息子がどんな表情をして、どう喜んだかまで事細かく日記のように綴られている。幼く可愛らしい彼の姿を描いたイラスト、スプーンの握り方からナイフやフォークの使い方をいつ覚えたかまで……。母の愛情にあふれたそれは私の視線を虜にし、そして真似をしてみようと思い立った訳だ。


「料理の本棚を見ているときに偶然に見つけたの」

「無くなってしまったと思ってたよ……」


優しく手に取った彼がぺらぺらと捲りながら懐かしそうに目を細める。

私はそれが嬉しくて堪らなかった、常に険しい顔をして、帰宅しても時より強張る顔に安らぎを与えることができないことに私は度々苦悩したけれど、その時は憑き物が落ちたかのような清々しい顔つきをして眩しいほどに喜んでくれていた。


[母の愛はいつまでも子供を虜にし続ける。それが良きにしろ、悪きにしろ]


古の大魔術師トリトームが家族の愛に苛まれたことを綴った一説は間違っていなかったのだと感心させられ、彼に対してそれが良い方向に働いたことがたまらなく嬉しかった。

夜半、寝室で眠る彼を隔てる襖をそっと開けて覗き見た、すやすやと眠る姿に安堵した私は自らの布団から起き上がり仏間へと向かった。


 音のない静かな夜、窓辺の廊下を歩きながら外を見上げれば、雲一つない夜空にまんまるの月が天に昇って輝きを放っており、庭の木々達は美しい仄暗さをところどころに宿しながら月明りを受けていた。

 私はこの庭の真ん中に小さな花壇を作り、そこにあの最後に纏ったドレスに縫い付けられていた種を植えた。クンダールと呼ばれる花の実、安息と意識混濁の効果のある香りを放つ、死刑囚は最後にそれを食べて苦しまずに死ぬことができるが、どうやら私は纏わされるだけだったらしい。魔族は首を跳ねられても暫くは生きているから、きっとみっともない姿を見せつけたかったのだろう。


 そんな種でも唯一の故郷のものだ。


 この地に根を張るかは分からない、魔力がない地では咲かないと伝承で聞いたことがあったので、あの忌々しいドレスを切り裂いて細切れにしてから種と共に埋めた、あちらのものなら少しは魔力を宿しているから肥料になればとの思いで添えてみる、どうやら、それは手助となり実は小さな芽吹きを見せた。

 こちらの世界でアザミという植物によく似ていると、真夏の光の下で葉を茂らせて育つのを見た彼が植物の図鑑を持て来て教えてくれた。 一本の茎が150センチの私の身長ほどまで伸びると先端に大きな釣鐘の紫の花を綺麗に咲かせた。

 3週間ほど過ぎているが枯れる気配はなく、風雨にさらされながらも常に凛と咲いている。虫に食べられてしまうのではないかと心配もしたが、水やりをしながらふとあちこちに虫の死骸が転がっていることに気がついた。少し観察をしてみると花に入る蜂や蠅、葉を食べようとした芋虫が、ポトリポトリと落ちることが分かった。彼にそれを告げると「種にあのような効果があるのだから、葉や花にもあって当たり前なのかもしれない、虫よけの効果でいいんじゃないの」と関心を示しはしたけれど、それ以外は気にされることもなく終わった。


 その花をしばらく見つめて一息つく。

 そして歩みを進めて仏間と廊下を仕切る障子を開ける線香の香りが薄く漂う和室の畳へ足を踏み入れた。下の板とは違う畳の冷たさを改めて感じながら、足早に進み出でて仏壇の前にある座布団に足を崩して座る。

 おりん横に置かれているマッチ箱よりマッチを取り出しては摺ると、ジュっという音と共に火が湧き燐寸の燃える匂いが漂ってくる。


 ろうそくへと灯す。


耐え忍んだ日々に見つめた温かさを宿して、ろうそくは輝きを放つ。

毎朝、彼が拝むように両手を合わせ仏壇と呼ばれる祭壇に向かって感謝の祈りを捧げた。

 共にこちらに来て初めて彼が安らいだ顔を見せてくれた、それはどれほど嬉しいことだったか、日々、スキルにより心労で潰れてしまいそうなほどの彼、もっとも身近で寄り添っているのに手助けができない我が身が恨めしく胸が苦しかった。

 でも、今日は手助けを頂きながらも、それを少しとはいえ成すことができた。あの幸せそうな表情が脳裏にしっかりと焼き付いており、その子供のような無邪気な笑顔には目を奪われる


 元の国では感謝の祈りは深夜に捧げるのが常だった。

 昼間の喧騒が落ち着き、そして人々と精霊が寝静まる静寂の時間、主神リクスカーンの神殿で湧き出でる清水で禊をして体を清めてから、祭壇で両腕を胸で重ね合わせて祈る。


[感謝いたします]


 余分なことは添えない、ただ、一心に感謝のみを祈る。

 言葉の中にある想いは神へと通じるのだから口にする必要はない。


 祈りを終えて気の休まりとともにぼんやりと視線を向ける、すると灯明の中に人影が見えた。

 リクスカーンは気まぐれに姿を現し神託を告げることがある。身を固くしてしまったがどうやら重々しい声が聞こえてくることは無い。

 白く伸びた蝋燭の先に橙色の水滴が揺らめく、光の強い中心部にぼやけたていた輪郭がくっきりとすると、仏間の天井に釣り下がった写真の1人、彼の母親の姿があった。


 母親は本当に嬉しそうだった。


 私がそう思いたいと願い魔力のないこの世界で、幻想を見ているのではないかと頭に過る、けれど、どうやらそうではないらしい。

 魔力の類は一切関知することはできなかったし、灯明には母親が確かに宿っているのだから。

 彼によく似た口元に可愛らしい微笑みを浮かべ口が動く、声はないけれど何を語っているのかは読み取ることができた。


[ありがとう]


 感謝の言葉に私は首を振って否定する。ただ、ノートに記されたとおりに料理をしただけなのだから。

 気持ちが伝わるのか彼の母親は私の仕草に首を振ると、誰かを手招きするような仕草をして、近くへと呼び寄せる。

 やがて、その人物が恥ずかしそうに姿を見せた。

 忘れることのない亜麻色の髪を揺らし、私を慈しむように微笑み、目に涙を湛えていた。


「かぁさま」


 涙が溢れるように湧き出でた。

頬を熱いものが筋となって流れ落ちパジャマを濡らしてゆく。

 何か声をかけなければと思いながらも何も口にすることができない。そんな私をかぁさまは優しい瞳で見つめ深く頷いて分かっていると頷いてくれる。

 やがて、かぁさまは片手の人差し指を動かした。

 何度も何度も同じ動きをしたそれを必死に目で追いながら私は胸元で真似をしてみる。


「カリギュッテ……」


 国の言葉でそれを口にする、それに母はしっかりと頷く。深く、深く、忘れないでと言わんばかりの頷きとそれを胸に押し当てるような仕草をした。

 ろうそくが風もなく揺らぐ。

 二人の姿はそこにはなくただ灯っているだけとなっていた。

 

「どうしたの?」


 背後から声が聞こえてきたが、泣き顔を見せて心配をかけまいと振りむくことはせず、ただ、深く頷いた。

彼は何も語らず背後ろに座ると私の頭を優しく撫でてくれる。

 ゆっくりと宝物を撫でられている感触、心眼で見られたであろうことすら不安に思うことのない温かさ、袖口で涙の痕と涙を拭い、俯いたまま姿勢を変えて彼への正面へと向いた。

 右手の人差し指を彼の胸元に伸ばして、考えも無しにさきほどかぁさまがしてくれたことを彼の胸元で指を這わせて描いてみる。

 カチン、と甲高い金属のような音がした。

 その音に驚いて顔を上げる、彼も同じように驚いた顔をして手を止が止まっていた。


「声が、聞こえてこない……」

「声?私の?」

「いや、心眼の……。サリバン、君の心の声が聞こえない。静かだ、本当に静かだよ」

「それって……」

「もう一度、やってみてくれる?」

「うん」


 再び同じように胸元にカリギュッテを書く、今度はガチャリと外れる金属音が耳に聞こえた。


[どう?]


 心の中でそう問うと彼は深く頷いた。


「読み取れる、もう一度……」

[うん、今やってみるね]


 私はカリギュッテを描く、初めに聞いたカチンという音が響くと、彼の緊張した顔が弛緩した。安堵したというより弛緩したが正しい。やがて、口をあんぐりと開けて、息を深く吸い込み、澱み溜まり続けていた苦悩を吐き出した。とても、とても、深い、深い、息を、吐く。私もつられて同じように息を溢したのだった。

 苦悩が消え去ると安らぎの風が吹く、そして吉風が伴うことで家に幸が訪れる。

 これはどこの世界でも変わりがないようだ。

張り詰めた空気が途絶えると、そこに安息が宿る、安息は後に安泰となり安寧へと至る。

彼と共に穏やかな日常が紡がれ始めていった。


 私がこの国で平穏な生活を得るためには大変な苦労をした。

 戸籍というものすらないのだから、合法と非合法(スキル)合わせてのものだったが、中学校と高等学校の制服に袖を通して卒業証書を手にした。

 学校のイベントには彼が毎回来てくれ、私は彼に手を振り、彼もまた恥ずかしそうに手を振り返して見守ってくれていた。良いことも悪いこともあったけれど、この世界での普通の生活においては素敵な時間を友人や先輩達と過ごした。


「ねぇ、サリバンにとってみつって……どんなひと?」

「え?」


 中学から今に至るまで親友、そして良き相談相手の友子が高校2年の秋、文化祭の片づけ中に私の手の動きを遮りながらそう口にして、私は言葉の意味を理解できず振り向くと鳶色の瞳に炎が揺らいでいた。我が家によく遊びに来る友子は彼の事を親しみ込めて「みつ」と呼んでいた。

そう、親しみを込めて……。


「2人は同居して同じ屋根の下、でも、どんな関係なの、知りたいし、知っておきたい」

「どんなって……」


 そのあとの言葉を私はうまく紡げなかった。

 生活を始めた頃は互いに支え合い保護者のような人だった、父ほどに逞しくはなかったし、この世界で武勇を極めても実践の機会がないことで、平凡な、至って平凡な優男だ。

 とても軍団を指揮し父を倒したとは思えぬほどに、誰にでも優しく、誰をも気遣い、そして手を差し伸べる。スキルで心が地獄のように苦しくても、穏やかな笑みを湛えて……、ああ、これが勇者と呼ばれる者のありようなのだと感心してしまうほどに。

 無論、近所で持て囃されるほどの好青年の扱いで、大学の一風変わった女どもが家を訪ねてくることすらあった。

 カリギュッテでスキルを封じても変わることはない。

 そんな彼を私は支えられることが嬉しい、もちろん、喧嘩もするし、互いに愚痴を言い合うこともあったけれど。

 人間に思春期のように魔族にだって思春期はくる。

 力強いものに強く魅かれる魔族の特性が最大限にまで高まるこの時期に、私は本当の強さの意味に気がつき、そしてそれに強く魅かれた。

 力の強さより優しさの強さに、戦う強さより耐え抜く強さに。

 私の頬と心が秋の紅葉のように色づき染め上がってゆくのに、さほどの時間を要することもない、けれど、私はそれに蓋をして必死にひた隠した。

 伝えてしまったが故にこの居心地の良い関係が破綻してしまうことが、何よりも怖かったのだ。


「私は知ってるよ、サリバンがみつを好きってこと」

「うん」


 友子が当然のように言い、私はその言葉を誤魔化すことも否定することもなく、素直に応じた。親友に嘘などついても意味がない、長い長い付き合いなのだから。


「実を言うとね、みつが心配してた、最近、よそよそしい気がするって、もしかして彼氏でもできたのか、何か不安に思うことがあるのかって私に聞いてきたのよ」

「彼が?」

「うん、で、ムカついたから今尋ねてるわけ」

 

 驚いた私の顔をまじまじと見た友子はとても不満そうに眉間に皺を寄せた。


「ムカついたって……」

「サリバン、そろそろ横に並んでもいいんじゃないの?」

「でも……」

「最近、みつの顔を見れてる?」

「それは……」


 意識していないように振舞っていても体は正直だ。互いに話をしていてもいつの間にか視線を外してしまう。


「すれ違い過ぎると壊れちゃうよ」

「……うん」


 友子の精一杯の優しさに思わず涙が零れ、私は頷きながら誤魔化すように涙を袖で拭う、友子の手が私の背中をバシンっと強く叩いた。


「決意が決まったらきちんと伝えて。大丈夫、みつのあの顔はサリバンに惚れてるから」

「また、勝手なこと言って……」

「勝手じゃないよ、私、告って玉砕したもん」

「ええ!?」

「でも、みつのことは嫌いじゃない、あの性格でしょ、断りもすっごく丁寧だった。女子高校生だからって馬鹿にしないで、きちんと真剣に向き合ってくれた。本当にいい男、そしてそんな男に心配して貰えてるサリバンが羨ましくてたまらない、だから、ちょっとだけ意地悪も兼ねてるわけ、でも、互いに思い合ってるのは分かるから、私はできれば幸せになって欲しい、二人の為にも、互いの為にも、そして私の為にも」

「私の為にも?」

「事情を知ってる女とくっついてくれた方が諦めもつくからね」


 今度はスカート越しのお尻を叩かれる。それは妙に力が籠っていたけれど、とても優しい一撃だった。

 もちろん、すぐ実行には移せなかったし決意をするまでに半年は要した。ときより、友子がチクリチクリと針を向けてくるのをこの身で受け止め、そしてその時を迎えた。


 大学を卒業し市役所で彼が働き始めて安定した真夏の日。

 いつものように帰宅した彼の玄関が開く音と廊下を足早やに歩く音が響き、耳に慣れ親しんだ声がいつもの通りに聞こえる。


「サリバン、ただいま」

「おかえり、カレー作ったよ」

「お、いいね!」


 廊下とリビングを隔てる中学で私が手創りした暖簾をくぐった彼と視線が合わさる。その瞳にろうそくが灯っている。気のせいのはずなのにそれは気のせいでない、あの温かみを湛えている。吸い寄せられるままに私は彼の元まで歩み寄った。


「な、なに、どうしたの?」

「カリギュッテ」


 口にしながら彼の胸元にそれを描く、カチャリと鍵が開くような音が聞こえて彼の顔が強張った。彼の頬を両手で包み優しさの灯る瞳をしっかりと見つめる。


[愛しています]


 頬を包んだ両手に彼の手が被さる。

 瞳が潤んでゆき、そのまま私の唇にしっかりと彼の唇が重なった。互いに背に手を廻して抱き合いそのまま暫くずっと互いを抱き続けた。


「大好き、いや、愛してる」

[うん]


 暫くして互いに顔を真っ赤にしながら離れ、私は彼の胸元に人差し指を当ててそれを描いた。


「カリギュッテ」

「カリギュッテ」


 互いにそれを口にして、再び口づけを交わして離れる。

 夕日が差し込んできて彼に差し込むと、その姿がろうそくを灯したように輝いた。


「食べたら、沢山話をしたいの」

「うん、そうしよう」


 私達は互いに恥ずかしがりながら頷き合う。

 カリギュッテを結んだのだ、だから、あとは2人で考えて歩んで行けばよい。


 「カリギュッテ」こちらでは「ハート」。


 世界は違えども気持ちは通じ合う。

 そして同じように実を結ぶのだ。

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ろうそくを灯す 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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