第6話 シュレディンガーの猫の箱の外

「ところで、桃乃木さんはなんであんな役作りをしてたの?」

「役作りというか、気持ちを知ろうかなって」

「気持ち? 誰の?」

「……友達の」


 白崎の質問に桃乃木はためらいながらもそう答えた。

 類は友を呼ぶというが、桃乃木がそうであるように彼女の友達もまた過激な人間らしい。

 そして、元凶がその友達だったとすれば、桃乃木は影響を受けただけに過ぎず、真にヤバいのはその友達なのかもしれない。


「実はその友達水泳部だったんだけど、最近辞めちゃったんだよね。その理由が男子からいやらしい目で見られるのが嫌になったって言ってて……」

「役作りっていうのは?」

「あれは……見つかった時に用意してた言い訳。とりあえずいやらしい格好になってみたら気持ちがわかるかな? って」


 いや、そうはならんだろ。

 やはり真にヤバいのは桃乃木のほうだった


「その子さ、泳ぐのが好きだったんだよ。小学生の頃から記録も良くて大会にでたりとかしてたらしくて。でも、その好きを辞めちゃうくらいの嫌な事ってどんな事なんだろって」


 なるほどな。桃乃木はヤバい奴だしやり方も間違ってはいたものの、根っこには友達を想う気持ちがあったようだ。


「そう……だったんだ。それで、どうだった?」

「どうだったって?」

「男子からいやらしい目で見られた感想」


 そう言って白崎が俺の方を見やる。落ち着けぇ俺ぇ反論するな……。心の中でそう唱え冷静を装った。こういう時は反応した時点で負けだからだ。


「あー……やっぱりよく分かんなかったかも。状況が違い過ぎて。それに先生も言ってたから。あれはそういう目で見られてもおかしくないって」

「そう……それは残念だったね。でもさ、それってそこまでして知りたいことなの?」

「なんていうか……男子からいやらしい目で見られたことのない人間がそれに共感してあげるとするなら、同じ経験するしかないでしょ?」

「共感……」


 桃乃木が言っていることは……まぁ、悔しいが理解はできた。同じ痛みを知る人間というのは、その人が望む言葉をかけてあげられるだろうから。

 友達という立場なら、なおのことその人に寄り添ってあげたいと思うのは当然のことなのかもしれない。


「なぁ、男子目線の話してもいいか?」


 だが、俺には納得できない点がひとつ。


「水泳部って競泳水着だろ? それにキャップとゴーグル。あれ、全然エロくないぞ」


 男子からのいやらしい目、という部分。


 その主張に、白崎がため息を吐いた。


「深井沢くんにとってエロいかどうかなんて関係ないんじゃない? 事実として、その人はいやらしい目で見られてたんだから」

「違うな。それ、本当に事実なのか? って俺は言ってるんだ」

「……どういうこと?」


 白崎の疑問に、俺は桃乃木のほうを見る。


「今から言うことはあくまでも俺の憶測の域をでない。俺は水泳部でもなければ、その友達のことも何も知らない。だからこそ言いたい放題言えるがそれでもいいか?」


 桃乃木はやがて、無言で頷いた。了承は得られたな。


「まず、部活内において問題が起きた場合、すぐに部活を辞めようとはならないはずだ。普通は誰か身近な人に相談するとは思わないか?」

 桃乃木はボンヤリと頷く。

「それは……そうかも」

「だが、そうはならずいきなり部活を辞めた。桃乃木が言ったようにそいつが泳ぐのが好きだったのなら、もう少し抵抗しても良かったんじゃないか?」


 桃乃木は無言で考えている。


「身近な人に相談するなんて、本当にそれができると思う?」


 代わりに発言したのは、やはり白崎。


「親、顧問、友達。相談できそうな人はいると思うがな」

「身近な人だから相談できないことってあるでしょ? 私なら親に相談なんてしない。自分の娘がそんな環境下に置かれている事実を知ったら悲しむって容易に想像がつくから。友達も一緒。それに顧問の先生だって信用できるとは限らない」


 そこまで言った白崎は眉をひそめ、なにか躊躇う素振りを見せたあとで再び口を開いた。


「……そもそも、いやらしい目っていうのは顧問の人かもしれない」


 それはきっと、想像しうる限りでは最悪のパターンだろう。


「親にとっての子ども、先生にとっての生徒、顧問にとっての部員。いずれにしても私たちに何かを簡単に変えられるような力はない。なら、事を荒立てずに黙ってすべてを諦めてしまうほうが楽だって結論に至っても不思議じゃない」


 白崎は淡々と言葉を紡いだ。そのたびに、別に桃乃木の眉根にはしわができていく。


「……もちろん、これも私の憶測に過ぎないんだけど」


 それに気づいたのか、白崎は最後そう付け加えた。

 白崎の言ってることも納得できるし、その話には説得力があった。

 だが、それでも俺には腑に落ちないことがある。

 それを言葉にするのはきっと難しいだろう。

 感覚の話だからだ。

 それでもたぶん、言葉にしなければならない。


「……誰かが何かに悩んでいたり、逼迫ひっぱくした状況に置かれていた場合、それをどれだけ隠したとしても、必ずほころびが生じるものだ。そして、それに気付く奴は必ずいる。原因や理由がわからなくても、「何かあったんだろう」と察する奴がどこかにはいる。そして、それは桃乃木もそうだと俺は思う」


 桃乃木は神妙な面持ちで俺を見返した。


「本来なら、桃乃木はそのことを他の大人に相談すべきだ。なんなら、「私の友達に何してんだ」って水泳部に殴り込みに行ったっていい。そいつのために出来ることは、こんな所でいやらしい格好をすることじゃない。なのに、桃乃木はそうしなかった。何故かわかるか?」


 白崎にではなく、本人である桃乃木に問うた。

 問われた彼女は、困惑するしかない。

 だから代わりに俺が答えてやる。


「桃乃木、お前はに落ちてないんだろ。そいつが辞めた理由にも、その結末にも。だから、あんな方法を取った。あれは友達に共感するためじゃなく、自分自身を納得させるためのものじゃないのか?」

「自分自身を……納得させるため……」


 桃乃木は言葉を繰り返す。


「待って深井沢くん。桃乃木さんを責めるのは違うと思うんだけど」

「責めてるわけじゃない。むしろ、褒めてるくらいだ。普通はそこまでする奴なんていないからな」


 庇うように口を挟んできた白崎に俺は悠然と答えてやる。

 白崎はそのまま口をつぐんだ。


「もう一度言うが俺はそいつのことを何も知らない。だが、そいつを友達だという桃乃木のことは多少なりとも今日知れた。そして、客観的な意見だけを並べるのなら、あんな方法まで取って友達に寄り添おうとしている行動力の塊が、根本である問題解決に向けて動こうとしていないことのほうが不自然なんだよ」


 白崎は目を細める。それでもまだ、釈然としない感情がそこには見えた。

 まだ、足りないか。


「桃乃木。そいつがそれを話してきた時、どんな感じだったんだ」

「どんな感じって……普通に、男子からのいやらしい目が嫌だから辞めたって」

「深刻そうだったのか?」

「それは……」

「悩んでそうだったか?」

「んー……」

「なにか、隠しているように感じたか?」


 記憶を辿るように宙を眺めていた視線は、やがて俺へと戻ってくる。


「正直に言えば……悩んでる感じはなかった、かも」


 桃乃木がそう言った途端、白崎からの視線が緩んだ。


「それでもまだ、本当にそうとは限らないんじゃない?」


 言葉もまた、柔らかくなっている気がする。そして、それには俺も頷くしかない。


「桃乃木が深刻さに気づけなかった可能性はあるし、白崎が言ったことが正しい可能性だってある。これはあくまでも俺の憶測でしかないからな。だが、もしそうだったとしてもまだ救いはある」


 救う。それはその友達を水泳部に戻すだとか、問題を公にするだとか、そういうことじゃない。

 桃乃木がここでやろうとした、気持ちの話。


「人に出来る事ってのは限りがあんだよ。だが、それは出来ることが残されているとも言える。その手段が解決に向かうとは限らないが、たぶん何もやらないよりは遥かにマシだ」

「残された……手段」


 桃乃木は俺を見て呟く。その焦点は合っていなかった。


「それは俺でも白崎でもなく、桃乃木にしか出来ないことだ。何故なら、辞めた理由を話した相手ってのはそう多くはないはずだからな」

「私に出来ることって?」 

「お前がしたいことに決まってるだろ。辞めた理由を話されて、部室でいやらしい姿をして、それを俺たちに見られて、そのことをここで議論したお前がしたいと思ったことだ」

「私がしたいこと……」


 そう言って消えた言葉の先を、桃乃木は頭の中で必死に探していたように思う。遠くで部活生の掛け声が聞こえていたが、この部室とは切り離された別の世界のことのように思えた。

 それほどまでに、この空間は停滞していた。

 やがて、開け放たれていた窓から風が吹く。

 微かに揺れたカーテンに気を取られた合間に、桃乃木の瞳が俺を見据えていることに気づいてしまう。


「辞めた理由をもう一度確認したい」


 風の冷たさに、外気温が思っていたよりも下がっていることを知った。


「……なら、確認すべきだな。ここで俺たちが何を話そうがそいつの辞めた理由が分かるわけでも変わるわけでもない。シュレディンガーの猫の話は有名だが、あれは観測するまで物事が確定しないなんて理論を嘲笑あざわらうために作られた反論なんだよ。俺たちがこうしてる合間にも、既に箱の中の猫は死んでるかもしれない」

「うん、今から行くよ」


 机の上に置かれていた鞄を手に取った桃乃木は、その足で部室の出口へと向かう。ポケットからは連絡を取るのであろうスマホが取り出される。


「ごめん! 鍵の施錠は柚原先生に頼んで!」


 扉が開かれると風が強く部室に吹き込んだ。それを追い風にするかのように桃乃木は廊下を駆けていく。

 その足音が小さくなっていくと、再び部室内には静寂が訪れた。

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