第1話 自殺する少女
街なかをはしる線路は軒並み地上から離されて高架橋になっているというのに、今いる駅は未だその計画から置いてけぼりにされているらしい。
俺は置いてけぼりにされる側の気持ちが痛いほどわかる。何故なら小学校の遠足のとき、パーキングエリアに寄ったバスに置いていかれたことがあるからだ。あれは正直つらかった。トイレから出てきたらバスがないんだもの。引率の先生は「隣の人はいますかー?」なんて質問で済まさずちゃんと数えてほしい。
そんな悲しい駅のプラットホームはタイル張りじゃなく黒いアスファルト。天井が開いているせいか、雨風と雑踏に晒された舗装はすっかり擦り減ってしまっている。電車種別も各駅停車しか停まらないことから考えるに、この駅の乗降は少ないんだろう。ド平日の朝ラッシュ時間帯を過ぎたこともあるのだろうがホームにいる人は少なく、壁際に設置された数少ないベンチを占拠していても誰も何も言ってはこない。
端的に言えば、
「完全に遅刻だな」
電光掲示板に表示されている次の電車の発車時刻は午前8時35分。
俺が通う学校のホームルームが始まるのは8時。なのに……そこにいるはずの俺というやつはガランとした駅のプラットホームで一人ベンチに座っていた。
遅刻である。しかも、一限目の授業に間に合うかどうかも怪しい大幅な遅刻。たとえその理由が人助けであったとしても褒められることはないだろう。遅刻は学生としての本分から逸脱している行為だし、なにより俺が人助けをしたという証拠を提示することはできないのだから。おおかた寝坊した言い訳をしているのだと思われるのがオチ。ならいっそのこと「寝坊しました」と言ってしまうほうが
十七年間生きてみてわかったことだが、どうやらこの世界には正しいとされる生き方があるらしい。それによると、学生は勉学に励み社会に敵した習慣と考え方で生きなければならないそうだ。そして、そこから外れた行為はすべて間違いであるとみなされる。まぁ、やむを得ない事情は例外なんだろうが、今回のケースがそれに当てはまるとは俺も思っていなかった。道を尋ねられ、その人が行きたい目的地まで案内もしくは付いていってあげるなど馬鹿げている。度が過ぎた親切はもはや独善にも等しい。
だが、それでも俺はおばあちゃんを優先したに違いない。なぜなら、降りる駅を聞いてきたおばあちゃんの不安そうな顔を目にしてしまったから――。
きっとどこぞの田舎から出てきたのだろう。車内放送が流れ、電車が停まるたびに立ち上がって何度も駅名を確認する姿は、とても都会の交通手段に慣れた様子には見えなかった。そんな光景を見てしまった俺は、同じ制服を着た奴らが学校の最寄駅で降りていくなか一人立ち尽くし扉が閉まるのを見送った。
そうしなければ今日一日の大半を「果たしておばあちゃんが駅に降りれたのか?」などと気になっていただろうし、その末「最後まで案内すれば良かった」と後悔するハメになる未来が視えていたから。
これが遅刻である以上、善い事をしたとは思っていなかったのだ。ただ、俺自身が納得し満足できるよう振る舞っただけ。そうしなければ、助けなかった自分に罪悪感を覚えてしまうから。それがどれだけ愚かでメリットのない行為だと理解していても助けなかったことに対する罪悪感のほうが勝ってしまうのだから仕方のないこと。
俺って、ほんとバカ。希望と絶望のバランスは差し引きゼロだというのなら、ソウルジェムが濁るのも時間の問題かもしれない。ところで、「馬鹿は死ななきゃ治らない」というが、「馬鹿は死んでも治らない」のと果たしてどっち正しいのだろう。死によって馬鹿は治るのか治らないのか……。まぁ、それは死んでみれば分かること。一旦死んでみるか! って、俺は本当に馬鹿かよ。
次の電車を待つまでの時間、そんな自分の性分に絶望していると、ふと同じ学校の制服が視界にはいった。
この時間で学校にいないということはつまり、同じ遅刻仲間なのだろう。仲間を見つけると安心してしまうのは人間の醜いサガだ。怒られるのが自分一人ではないのだと思えた瞬間、心は幾分か救われた気がしたのだから。
ただ……話しかけようとは思わなかった。
俺はその女子生徒の名前を知っている。
――
くすみがかった髪はホーム上を吹き抜ける風によって撫でられ、毛先の輪郭は背景に溶けていた。耳に付けられたピアスは比較的おとなしめではあるものの、制服にピアスを付けている事自体が既に目立っている。とはいえ、彼女の知名度を上げているのはそんなオシャレと呼ばれる行為からではない。
整った顔立ちと落ち着いた雰囲気。現在進行系で遅刻だというのに、その顔からは焦りなど見受けられずむしろ気怠げ。まるで今から登校することがさも当たり前化のようにピンと佇たたずむ華奢な姿は、人気のない駅自体を映画のワンシーンのように変えてしまっていた。まぁ、ジャンル分けをするなら人目をひく美少女といったところ。
もしかしたら常習犯なのかもしれない。それならば、あんなにも落ち着いているのは頷ける。
そんな白崎明を見習って堂々と振る舞おうなどと思案していた俺は、彼女が手に持っている鞄を硬いアスファルトの上に置いた行動に違和感を覚えてしまったのだ。
……。
次の電車がくるのは十分後だった。それまでの時間を立って待っている人はいない。
当たり前だ。わざわざ疲れやすい態勢で待たなくても、この時間の電車なら余裕で乗車できるし座席にも座れるはず。だから、みんな俺のように壁際のベンチに座って電車を待っている。
そして、たとえ清掃がされているだろうとはいえ、自身の荷物をわざわざ地面に置く者も少ない。
いや……百歩譲って、そうやって待つ者がいてもおかしくはないだろう。だが、なぜだか俺の目には白崎の姿はなんとなく異様に映った。
誰も立っていないホーム上で、一人だけ立っていたからかもしれない。遅刻確定の時間であるにも関わらず、その顔には何の感情すら見えなかったからかもしれない。
『――まもなく2番線を電車が通過致します。危険ですから黄色い線の内側までお下がりください』
そのとき流れた駅構内のアナウンス。白崎明の奥の線路には、こちらに向かってくる電車が見えた。この駅には各駅停車しか停まらない。つまり、それ以外の列車種別はすべて通過することになる。
そして、見えている電車には乗れもしないというのに、白崎明は黄色い線より外側に一歩踏み出したのだ。
「……」
もしかしたら向かってくる電車が駅に停まるのだろうと勘違いしている可能性はある。だが、その白崎明はスマホをいじっているわけでも、イヤホンをしているわけでもない。向かってくる電車が通過電車であるという情報を阻害するような要因をなにも孕んではいなかった。
つまり、彼女はそれを分かったうえで黄色い線の外側に踏み出した可能性のほうが高い。
「おい、まさか……」
生ぬるい外気温のなかで冷たいものが背中を伝った。それは、彼女に対して抱いた違和感を納得させてしまう結末を想像してしまったから。
電車がぐんぐんと迫り、それに合わせて白崎の足がもう一歩踏みだされる。その瞬間、想像した結末がいやな現実味を帯びた。
――自殺。
その文字が頭に浮かんだ瞬間、俺の足は既に動きはじめていた。
通過電車が迫る。運転士がホーム端に近づく白崎に気づいたのか、けたたましい警笛が空気を震わせた。
誰もが何事かと顔を上げて原因を見渡すなか、俺だけがその原因に最も近づいている。
やがて、電車だけを見つめてタイミングを図っていた白崎明は、弾むように駆け出そうとした。
やっぱ飛び込みかよッッ!
そのインターバルが始まろうとする寸前に、俺が伸ばした腕が間に合う。
「あ」
腕を掴まれ振り返った唇から漏れた声。その動揺の隙を見逃さず、俺の手はさらに掴む手に力を込める。
直後、至近距離で電車が通過。電車が纏う風の圧力が横殴りに襲い、俺は硬直しながら見開かれていく双眸を静かに見返した。
まるで世界が止まってしまったかのような長い数秒。
鉄のレールの上を鉄の車輪が滑りながらも金切り声をあげて急ブレーキをかけ、電車はホームから大きくはみ出た地点で止まる。
視界内に動く危険因子がなくなったことを確認して、無意識に止まっていた呼吸を俺の身体は思いだした。
口から出てきたのは安堵の息。
「それで……止めたつもり?」
そして、目の前の白崎明の口からは敵意にも近い鋭い疑問が放たれたのだ。
正直愕然とした。そして混乱した。
まぁ、錯乱しているわけではないだろう。その瞳には、真っすぐに俺を見つめる光があったから。こんな状況であるにも関わらず、変わらず落ち着いたその雰囲気に、まるで俺のほうがなにか間違ったのかもしれないと不安になりそうになる。
だが、つばを飲み込み意を決し、俺の声帯もまた、はようやく声の出し方を思いだした。
「諦めてくれ。俺は最後まで後をつけるエゴイストだからな。お前が拒絶しても最後まで付き合う」
それが正しい答えかは分からない。だが、取り繕う暇もない時間の中で、頭の中に残っていた言葉なのだからきっと俺の本意には違いない。
「もしかして、私の後を家からずっと尾行してたってこと……?」
鋭い視線のなかに疑いと嫌悪が入り交じる。その言葉を理解してようやく、誤解がうまれたことに気づけた。
どうやら言葉を間違えたらしい。
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