第1話 スペステラ冒険記

 『スペステラ冒険記』を閉じ、小日向一海こひなたかずみは息をついた。これで五度目の読了だった。

 この本はここ『古本屋小日向』で見つけた本だ。五年程前に出版されたらしい、無名の著者の自費出版本。店に並ぶ古い紙の本を順番に読んでいく中で、やたら新しめの本だという物珍しさで目に留まったのを覚えている。

 中身は異世界ファンタジー小説だった。インターネット上でそういう異世界小説が流行していたことがある、という知識が頭に浮かび、芸術性を含んだ純文学的な作品や海外のガチガチに練られたSF小説を好む小日向は、この本もその類のものかとハードルを低く設定して読み始めた。


 結果、ドハマりした。


 緻密に描写された異世界の風俗や風景たち。瑞々しく綴られる思春期の若者達の冒険譚。実際にその目で見て来たんじゃないかと思わせる筆致は、読む人を異世界スペステラへと連れて行ってくれた。兎も角、全く世に出回っていない無名の紙小説にハマりにハマってしまった小日向は、ついに五週目を読み終えるに至ったのだった。

 バイト中であることをまるで忘れたまま、軋む回転椅子の背もたれに身を委ね余韻に浸る。レジのカウンターでぼーっと手足を投げ出していても咎める店員は他におらず、客の姿さえもみえない。この『古本屋小日向』は客が来ないことで有名だった。小日向が、彼の祖父が経営するこの古本屋でバイトをする理由の一つがそれだった。その他の理由は単純で、本が好きだからである。


 小日向はこのアルバイトを非常に気に入っていた。何しろ客がいない間は堂々と本を読み耽ることができるし、読む本には困らない。今時珍しい古本屋だから置いてあるのは紙の本ばかりで、未だに本は紙派の彼にもってこいだ。そんでもってお金も貰えるときた。彼にとっては天国に限りなく近い場所だった。

 老人の趣味のようなこじんまりとした店であり、背が高く立ち並んだ本棚群に古臭い本が並んでいるせいか一見埃っぽそうに見える店内だが、その実清潔で整然としている。特に本棚は丁寧に手入れされていて目を凝らしても埃は見当たらない。祖父がそうして隅まで掃除していた。小日向もまた、勤務時間の仕事のほとんどは店内や棚の掃除だった。その業務だけは決してサボったことはなかった。


 ちりんちりん、と入口のベルが鳴る。小日向はそちらをみることもせず、いらっしゃいませと声だけあげた。誰が来たのか彼には予想がついていた。この時間、部活動に励んでいた西南高校生徒らが帰路に着くころ、決まって顔を見せるやつがいるのだ。その人物は店に入るなりまっすぐカウンターまで歩いてきて、声をかけてきた。


「よう、店番お疲れ様」

「……なんだ、お前か」


 親しげに話しかけてきたその客は、高校のクラスメイトである八柳やなぎだった。彼はこの店の、売り上げに貢献しない常連客の一人だ。

 八柳という人間はいつも尖った出で立ちをしている。幅広のヘアバンドから金髪を垂らし、制服の上から甚平を雑にはおり、とどめに先ほどからカランコロンと音を鳴らしている下駄を履く。それで合っているのかと問いたいほど独創的なファッションだ。


「なんだとはなんだ、客が来なくて暇してるであろう小日向のために遊びにきてやったんだぞ」

「別に暇してないさ。むしろ忙しいくらいだ」


 小日向は先ほど読み終えたばかりの本をひけらかすように見せた。その本の表紙を見て八柳はうわ、と言葉を漏らす。


「お前またそれ読んでんの?」

「ん?ああ……またって言っても、五週目だよ」

「いやいや多い多い。普通は二回だって読まないだろ小説なんて」

「バカだな、面白い作品は二周目も面白いんだよ。ストーリー知ってる状態だからこそ細かいことに目を向けられるんだから」

「五周目は?」

「頭に刻みつけられる」


 八柳はさっぱりわからないというジェスチャーをしてこの問答を終了させた。

 彼はよくこの店に来るのだが、その実特別本が好きなわけではない。漫画は好きな方だが活字の小説を好んでは読まない。そういうマジョリティな嗜好をしていた。それでもこの店に足繁く通うのは、気の置けない友人である小日向がいるからだ。


「まあ確かに面白いんだよな、その本」


 八柳はカウンターに置かれた『スペステラ冒険記』の表紙に目を向ける。彼はその本を小日向に無理やり押し付けられ、渋々読んだことがあった。


「フィクション作品はあんま好まないけど、この本は手を止めることなく最後まで読めたからな。相当なもんよ」

「そうだろうそうだろう」


 小日向は自慢げに頷く。


「やっぱりこの本はリアリティが溢れまくってるからな。フィクションにリアリティ求めんなよって言うヤツもいるけど、俺はフィクションだからこそのめり込むにはリアリティが必要なんだと言いたい」

「おおう語るねえ。……しっかしつくづく疑問に思うぜ、こんな力作なのに紙の本で自費出版なんてよ。売り方をちゃんとしてればいくらでもヒット狙えただろうに」


 八柳は腕を組む。彼の言う通り、自費出版などしなくても拾ってくれる出版社はいくらでもあるだろうし、するにしたってネットで公開すればいい。しかし『スペステラ冒険記』はネット上では一切読むことができない。時代に逆行した本なのだ。小日向も釣られるように腕を組み首をひねった。


「作者も謎すぎるんだよな。調べても全くヒットしないし、この作品以外は出してないっぽいんだよ」

「作者に会ってみたいって思うか?」

「会ってみたいっていうか……話は聞いてみたいな。何に着想を得たのかとか、次作を出す予定はあるのかとかね」

「いいねいいね。よし、ちょっと調べてみっか」


 八柳は好奇心を剝き出しにした笑みを浮かべる。彼は西南高校内限定で閲覧できる情報サイトを一人で運営するほど、情報収集を主食とする人間だった。サイトでは購買のセール情報から世界情勢まで様々な情報を記事にしていて、学内での人気も高い。当然学校には認可を得ているし、つまりはそれだけ害のない内容になっている。

「人に迷惑になるようなことはしない」

「誰かがワクワクする情報を提供する」

それが彼の掲げるモットーだった。


「ありがたいけど……見つかるか?ヒントが無さすぎない?」

「その方が燃えるだろ?何より、こんな凄い作品を作ったのは一体どんな人間なのか、なぜもっと売り出さなかったのか、気になるぜ」


 八柳の口調はヒートアップする。どうやら彼の好奇心に火が付いたようだ。


「こうしちゃいられない、早速帰って調査始めるわ!進展があったら連絡するな!」

「あ、ああ。頼んだ」


 彼は身を翻し、手を挙げて急ぎ足で出口へ向かった。相変わらずだなと小日向は軽く見送って、次に読もうと積んでおいた本を手に取り、そして活字に目を落とす。

 が、視線は文字を捉えず、ぐるんと回った。突然強烈な眩暈に襲われたのだ。視界が歪み、ふっと全身から力が抜けて椅子から転げ落ちた。


 なんだ、これ。


 小日向は焦り、混乱した。初めての経験だった。息を吸っても酸素が取り込めない。奇妙な浮遊感に上下感覚が奪われていく。八柳を呼ぼうとするが、声がうまく出せない。下駄の音はもう聞こえなかった。


 誰か、助けてくれ……。


 口だけが小さく動く。視界がブラックアウトする。

小日向の意識は、深く、深く、暗闇に沈んでいった。

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