第6話 楽しいコト

 虚空に消える幼子が穿った『チッ』という舌打ちが耳に残る。

 男たちの猥雑な笑いと混じる。彼女の心は更に深淵へと追いやられる。


「なぁ君達。お兄さんと楽しいことしようぜ」

「楽しいことって何?」


 あどけない女の子が聞き返す。無造作に長く垂れた髪。寒空の下に着る濃紺のワンピース。その痩せ細った体躯が、その境遇を物語る。


(あの子も私と同じ。家に居場所がないんだ)


 その瞬間に、マリンの脳裏には敗北の2文字が浮かぶ。あぁ、私たちは負けた。夜に負けた。辛く苦しい過去の記憶が蘇る。


 逃げる場所さえない事実。


 父からの暴力、彼氏からの裏切り。仲間なんていない。痛い、辛い、苦しい思い出。騙し騙されての怨嗟の連鎖。


 だから私は、あの女の子に恐怖を感じた。昔の私を見ている……だとしたら。


(この先に楽しいことなんて、絶対に無い!)


「楽しいコトは楽しいコト。こう見えて俺のストライクゾーンは広いんだぜ」

「大丈夫だって、飯くらいは奢ってやるさ」


 男どもの嘲笑が耳を荒らす。


「ダメ。あなたは行っちゃダメ!」



 目の前にいる、この子だけは救いたい


               ……なんて



 この期に及んで溢れ出る正義感は偽善だ。せめて自分自身を人として繋ぎ止めたい想いの現れだ。

 哀れだ。知ったことか。今更だ。今更どうなりたいというのだ。自分は憐れだ。


 今宵も、また夜に侵されるのだ。


 月が翳る。街灯がチラつく。涙は垂れず。反吐が出そうな程の耳障りな嘲笑がくぐもる。


「楽しいことなんて無い。痛いの、辛いの苦しいの。だから私は夜が大嫌いなの」


 バチン!と鈍い音がする。鼓膜が震える。頬が熱い。ふらつく間もない。地面に叩きつけられる。


「黙ってろ!」

「ざーんねん。妹ちゃんを守れなかったねぇ」

「笑える。大丈夫だって、痛みも、やがて快感に変わるってもんさ」


「ダメ。行っちゃ、行っ、痛ッ!ぅが」


 腹が痛い。胃液が喉元まで上がる。熱い。焼けそうになる酸を吐き出す。


「黙って見てろ!さぁ、おねぇ〜ちゃんみたいになりたくなかったら、コッチに来な。オモシロいもの見せてやるよ」


 幼子が闇に呑まれていく。制服の裾から血が滲む。悔しい。悔しい。夜が、憎い。

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