第3話 脅迫事件

 そんな相対するもの、正対するものが、一人の人間に宿るというのは、一部の人間だけなのか、それとも皆そうなのか、証明はできないかも知れない。

 というのも、

「皆そうなのか?」

 というところの、

「皆」

 というのは、どこからどこまでを刺しているというのだろうか?

 例えば、年齢の問題である。前述のように、

「子供から大人になる年齢」

 というのは、

「人によってバラバラで、個人差がある」

 というではないか。

「大体の年齢の幅がある」

 ということにして、その幅を、最大公約数として考えれば、

「10歳くらいから、18歳くらい」

 としてしまうのは、幅が広すぎるだろうか?

 確かに、

「高校2年生から3年生の間に身長が5cm伸びた」

 という人の話を聞いたことがあった。

 というのは、実は親友がそれで、高校2年生の頃までは明らかに自分の方が高かったのに、3年生になると、逆転していたということだったのだ。

 本人が一番びっくりしていて、3年生の健康診断で実際に計測するまで、その友達は、自分の身長が、ごぼう抜きに高くなっていたなどという意識はなかったようだ。

 もちろん、

「身長が伸びた」

 という意識はあったようだが、まさか、そこまでとは思っていなかったのだろう。

 先生は気づいていたということだが、

「思春期の青年は、精神的にデリケートなので、こっちがほめているつもりであっても、実際には、相手を傷つけたりする」

 ということになってしまうと、

「教師として失格だ」

 と思ったことだろう。

 そう、

「精神的な成長には、大人になるという意識が、デリケートなために、中には、大人になりたくない」

 という意識を植え付ける人もいるだろう。

 特に、大人になると、

「言い訳が多くなったり」

 あるいは、

「人のせいにする」

 という人が増えたりするということなのである。

 確かに、

「言い訳ばかりしていると、そんな大人になりたくない」

 という意識が強くなり、

「大人とは、言い訳をしたり、他人のせいにすることで、自分を正当化させるものだ」

 というのは、

「学校の先生を見ているとよくわかる」 

 というものであった。

 先生は、

「聖職者」

 と言われるが、昔からの学園ドラマと言われるものでは、昭和の頃など、

「判で押したような教師」

 というのは、必ずいたものだ。

 熱血根性教師と呼ばれる先生が主人公で、

「ジャージを着て竹刀と持った」

 という体育教師がいて、

「身体を鍛えれば、精神も鍛えられる」

 という危険な思想を持つことで、今なら。完璧、

「パワハラだ」

 ということになるのだろうが、結局、

「スパルタ式の教育方針」

 に魅せられた理想だけを追いかける教師の代表例だということであろう。

 そんな体育教師がいるから、子供がスパルタについていけずに、肉体が悲鳴を上げることで、精神が、病んでしまう。

 つまり、

「精神も肉体も、一緒に崩壊する」

 ということで、一番たちが悪い状態になるのであった。

 だから、肉体が悲鳴を上げる状態に、精神がついてこれないということで、精神は、スパルタの逆をいくことになる。

 先生に対して、恨みや憎しみを持つことで、

「スパルタについていけない肉体が、まるで罪悪であるかのような考え方になってしまうと、それがストレスになって、精神が病んでしまう」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

「熱血と根性は切り離さなければいけない」

 といえるのではないだろうか?

 昔の学園ドラマの主人公は、熱血であり、根性論を振りかざしていた。

 特に、ラグビーやサッカー、さらには、剣道などという、どちらかというと、根性ものがよく主題となっていたことだろう。

 よく出てくるシーンとして、海に向かって。

「バカヤロー」

 と叫ぶシーンであったり、

「田舎の駅のプラットホームを使って、上り線と下り線のプラットホームを使って、ラグビーのパスをしている」

 などという、

「物まねのネタでしか、今は使わない」

 ということで、

「お笑いでしか、今は有効ではない」

 ということになるのであった。

 もっといえば、

「今、同じことをやると、完全にコンプライアンス違反」

 ということになる。

 そして、一人で、海に向かって意志を投げたり、

「バカヤロー」

 などと叫んだりすると、

「あいつは、ヤバいやつ」

 ということになるであおる。

 バカヤローという言葉自体も、あまり好まれるものではない。

 もし、

「ヤバいやつ」

 という認識がなくとも、

「孤独で寂しいやつだ」

 ということになり、そんなやつは、今の世界では相手にされない。

 もっとも、

「孤独で寂しいやつ」

 というのがどんどん増えてきていて、今から30年ほど前から、すでに、

「苛め」

 というものは、昔と様子が変わってきていて、昔と違って、理由らしいものがまったくないのに、

「ただむしゃくしゃする」

 というだけで、いじめに発展するという時代になってきたのだ。

 それが引き籠りを呼び、今では、

「大人の引きこもりもいる」

 ということで、それが、

「コンプライアンス違反」

 という問題を、社会問題にしたのだろう。

 そんな、

「青春学園ドラマ」

 というものが、流行った時代。

 スポーツの中でも、長い間、迷信と言われるようなものが信じられていたりしたものだった。

 それが、どういうものなのかというと、

「学校の部活中などで、水分を摂ってはいけない」

 と、長い間、信じられていた。

 今では、そんなことをすると、

「熱中症になる」

 ということで、

「こまめに水分補給を」

 と言われるようになった。

 さらに、昔を知っている人は、何か違和感を感じるのではないだろうか?

 というのは、

「熱中症」

 という言葉にである。

 熱中症という言葉が、

「いつから言われるようになったのか?」

 ということであるが、昔は、

「日射病」

 という言葉を使っていたはずだ。

 違いは明らかにあるのだろう。ハッキリと違う言葉として存在しているからである。

 そういう意味で、昔使っていた言葉が、違う言葉にいつの間にか変わっているというのも、結構あったりする。

 その一つの例として、

「不登校」

 というものと、

「登校拒否」

 というものがある。

 苛めが問題になり、

「引きこもり」

 というのが社会問題になってくると、それまで、

「登校拒否」

 と言われていたものが、

「不登校」

 と変わったのだ。

「登校拒否というのは、自分の意志が働いて、学校にいかない」

 というものであるが、

「不登校というのは、苛めなどが恐ろしくて、学校に行きたいという意志があるのに、いけないという状況をいう」

 ということで、不登校の方がたちが悪いといってもいいだろう。

 それも、学校に来ない本人が悪いわけではなく、原因は明らかに、その人を、学校に越させないという原因が存在するわけで、それを解消しないと、らちが明かないということになるだろう。

 だから、

「不登校の方が、奥が深い問題だ」

 ということになるだろう。

 もう一つ、変わった言い方としては、

「副作用」

 というのと、

「副反応」

 というものであるが、これは、そもそも、

「世界的なパンデミック」

 によって、危険なワクチンが開発され、それを臨床試験も満足にできていない状態で、

「国民を実験台」

 にして射たれたワクチンに対しての

「副作用」

 を、

「副反応」

 というのだ。

 つまりは、副反応とは副作用の中でも、ワクチンや予防接種などで生じた副作用のことを特別にそういうのだということであった。

「相対」

 あるいは、

「正対」

 というものを、子供は理解できていない。どこか、それらのものに対して、

「物心がつく」

 ということもあるのではないだろうか。

 そして、一つ感じることとして、考えるのは、

「正対しているものとして、当たり前のように感じているが、実は、とても不思議に思えることもある」

 ということだ。

 明らかにおかしいというものの代表としては。

「合わせ鏡」

 などが、その例として挙げられるのではないだろうか?

 合わせ鏡というのは、

「自分の前後に鏡を置いた時、永遠に自分の姿が映っている」

 というもので、その姿は次第に、遠く小さくなっていくのだが、その姿が、

「無限である」

 ということと引き換えに、

「限りなくゼロに近いものだ」

 と考えられるのではないだろうか?

 それを考えると、

 無限であるがゆえに、

「絶対にゼロにはならない」

 ということで、ある意味、

「数学式の証明」

 といってもいいかも知れない。

 それは、

「明らかにおかしい」

 と考えられることであるが、鏡に映っているもので、実際に冷静に考えれば、

「明らかにおかしい」

 と思うのに、実際には、

「それが当たり前だ」

 というような感覚になるというのは、それこそ、

「錯覚」

 あるいは、

「錯視」

 というものなのかも知れない。

 というのは、

「鏡において、左右は対称になるのに、上下は対象にならない」

 ということである。

「左右が対象になるのだから、どうして上下も対象にならないというのか?」

 ということであるが、

「これが凸レンズであれば、迷うことなく、上下が反転している」

 しかし、それは、

「凸レンズだから」

 ということを納得できれば、それが問題ではないということになるのだった。

 実際に、これのハッキリとした証明はなされていないが、発想として言われているのは、

「後ろから見た姿を思い浮かべる時」

 ということで、そうなると、左右は対称に見えるが、前後は対称ではない。

 これは、自分が来ている服にプリントされているデザインでも同じことで、

「自撮りすると、文字が対称に見える」

 というのと同じ発想である。

 きっと、自分が写った姿だけではなく、あらゆるものが鏡に映ると、

「左右は対称だが、上下は対象ではない」

 ということになるのだろう。

 それが、

「錯視」

 というものであろう。

 そんな中で、この時の少年は、どうやら、その、

「相対」

 あるいは、

「正対する」

 というものを分かっていたのだという。

 それを証言できるのは、彼の母親である、

「真島洋子」

 だったのだ。

 その息子は、名前を、

「真島陽介」

 という。

 間島が、そんな能力を持っているということを、母親の洋子は、誰にも話さなかった。

 もちろん、父親の豊三も話さなかった。

 豊三は誰にも言わなかったが、息子の陽介に対して、少し怖いところを感じていた。

 最初は、

「生まれてきたことだけで、奇跡の子だ」

 と思っていたが、実際に、奇跡だと思ってしまうと、本当に奇跡といっていいものか、少し怖いと思うようになったのだ。

 それは、豊三の気の弱いところかも知れない。

 もっとも、この豊三の気の弱さというものが、ある意味、この事件の恐ろしいところを象徴しているといってもいいかも知れない。

 豊三は、子供が怖いと思うその証拠は、名前に現れていた。

 そのことを本人の豊三が意識していないということが、それだけ、寂しい思いをしているということなのかも知れない。

 というのは、

「親というものは、子供に自分や家族の名前を付けたい」

 というもので、それを世襲のような形で意識している人も多いだろう。

 しかし、息子の名前を付ける時、

「奇跡をもらった母親から一文字もらって」

 と思っていたのだが、

「漢字まで一緒というのは、ちょっと」

 と感じたのだ。

 そこに恐怖を感じたのか、

「よう」

 という字を使おうと思っていて、もし、同じ漢字を使うのだとすれば、

「洋」

 と書いて、そのまま一文字で、

「ひろし」

 と読ませようと考えたかも知れない。

 実際に、母親は、自分の中では、この、

「ひろし」

 という名前を気に入っていたのだ。

「自分が奇跡を起こした」

 ということはちゃんと意識していて、だからこそ、

「私の名前をつけようとしてくれている父親に感謝していた」

 ということなのだが、実際に名前が付くと、そこには、

「読み方は一緒でも、漢字が違う」

 ということを見て、洋子は、少し旦那が怖くなった。

 死の恐怖を乗り越えられたのは、間違いなく、

「旦那が支えてくれたからだ」

 ということになっている。

 しかし、それだけではなく、

「二人で起こした奇跡だ」

 とも思っていたのだ。

 しかし、実際に奇跡が起きてしまうと、

「旦那と私の間に、決定的な距離感があり、踏み込むことのできない結界というものを、自分で感じることになるとは、思ってもいなかった」

 ということであろう。

 だから、

「夫には、近づくことのできない結界がある」

 という風に思い、名前を変えることくらいしか思いつかなかったのだろう。

 と洋子は思った。

 だが、支えてくれたのは旦那だった。だから。子供に対しても、奥さんである自分に対しても、ずっと気を遣っているのだ。

 ということであった。

 旦那の気持ちを考えていると、自分も旦那に対しても、息子に対しても、気を遣っているということが分かった。

「では息子はどうなんだ?」

 と考えたが、それぞれに何か気を遣い、不気味あっていることに変わりはないのであろうが、息子には、

「気を遣っているというそぶりが見られない」

 と思うのであった。

 それを考えると、

「三すくみのようで、三すくみではない」

 と思うと、

「似て非なるもの」

 ということで、

「三つ巴」

 というものを思い出した。

 三つ巴というのは、

「三角形の頂点がすべて頂点であり、その力がすべての方向に緊張を保たれることから、

「力の均衡が、バランスを保っている」

 というものだ。

 三すくみというのは、そのバランスを支えているのは、

「力の均衡」

 というものではない。

 どちらかというと、

「力のけん制」

 というもので、

「お互いに影響しあうことが、抑止力に繋がり、それが、まるで、

「東西冷戦時代」

 に起こった、

「核開発戦争」

 という、

「核の抑止力」

 である。

 つまり、

「使ってしまえば、世界はその瞬間に、滅亡が確定する」

 ということで、原爆の報道を聞いた時、チャーチルは、

「これで戦争が不可能になった」

 というが、まさにその通りであろう。

「使えば、相手国だけでなく、自国も終わりなんだ」

 ということであるが、もっといえば、全世界が、なくなってしまうということになるのであった。

「キューバ危機」

 の時、同時のアメリカ大統領である、

「ケネディ」

 は、

「核戦争によって、アメリカだけでなく、全世界の子供たちが死んでいく」

 という幻影に苦しめられたのだという。

 それだけ、戦争において、ひどいということになるのか、ケネディには、実際に瞼を瞑れば見えていたのかも知れない。

 それが、アメリカという国が、当時から、

「世界の警察」

 と言われていたということであろう。

 世界の盟主になるということは、それだけ責任が重たいということになるであろう。

 それを思うと、

「今の時代がどのような時代なのかというのが、過去からつながっているのだ」

 ということを示しているということになるのであろう。

 陽介少年が誘拐されたというのは、これもまた不思議な事件だったようだ、

 昔の捜査資料に書かれていることというのは、

「確かに誘拐事件とは表記してあり、決して、未遂事件というわけではない。間違いなく、誘拐というのは行われたのだ」

 という。

「しかし、誘拐したにも関わらず、犯人は身代金要求もしてこず、さらには、すぐに人質を返している。しかも、被害者と接触を図ろうとしていないのだ」

 もちろん、

「誘拐声明」

 というものは、出していた。

「お宅の子供は預かった。指示を待て」

 ということだけ書かれていて、もちろん、

「警察に通報すれば、息子の命はない」

 という言葉はしっかりと書かれていた。

 だが、それはあくまでも、

「形式的なことだ」

 というのはよくわかった。

 ただ、警察に通報したのは父親だったのだが、警察とすれば、

「通報してくれてありがたい」

 とは、思ったが、

「この状態で、よく警察に通報できたな?」

 というのも本音であり、相手が何もしない人間たちだったので、事なきを得たが、

「もし、犯人を怒らせて、人質を殺してしまったら、どうするつもりだったのだろう」

 とも考えられた。

 だが、実際には、犯人が怒るどころか、人質は無傷で返ってきた。

 ここで、

「帰ってきた」

 と書かずに、敢えて、

「返ってきた」

 と書いたのは、誘拐されたのは、まだ歩くこともできない、

「生まれたての子供」

 だったからだ。

 もちろん、本人には意識はなかっただろう。

 それでも、短い間だったとしても、誘拐をしながら、乳児の面倒を見るのは大変だったに違いない。

 そう思えば、犯人は単独犯ではなく、

「乳児の面倒を見る」

 という専属の人間がいたはずである。

 そう考えると、

「もし、身代金要求の誘拐に、乳児を使うというのは、もしこれが計画性のある普通の営利誘拐であれば、考えにくいことであろう」

 といえる。

 だとすれば、犯人は、

「被害者に恨みを持っている人間」

 ということになるだろう。

 だが、正直、そういう様子もないようであった。

 というのは、何といっても、無傷で、しかも、警察に通報した翌日には、犯人は子供を返してきたのだ。

 それもやり方として、養護施設の前に手紙を添えて、まるで、一時期流行った、

「赤ちゃんポスト」

 のようなやり方だった。

 ただ、その手紙には、その子の名前と親の名前、そして、

「誘拐犯が、人質を返す」

 という旨の内容が書かれていたのだ。

 だから、すぐに施設は警察に連絡し、人質が無事に戻ったということも分かった。

 医者にも見せられたが、その内容は、

「健康そのもの」

 ということで、何も別状はないということであったのだ。

 それを思えば、この事件は、

「狐につままれた」

 という感じであろうか。

 警察は、

「犯人がどうして、誘拐しただけで、それ以降何もしなかったのか?」

 ということを考えた。

 一番信憑性があるのは、

「警察が動いているのを確認したからだ」

 ということにあるのではないだろうか?

 しかし、前述の話として、

「乳児の誘拐」

 という面倒くさいことを、今のタイミングで行うというのは、

「犯人にとっては、お金目的というのもなきにしもあらずであろうが、それよりも、本当の目的は、復讐にある」

 と考えると、いくら警察が動いているからといって、その作戦を急にやめてしまうというのは、どうにも腑に落ちないといえる。

 ただ、そのおかげで、人質は無事に返ってきたが、ただ、警察の権威は失墜した。

 せめてもの救いは、

「誰も死んだり、ケガをしたりしていない」

 ということだけであった。

 誘拐というのは、された方には、最終的に何もなかったとはいえ。大きなトラウマを残すことになるであろう。

 それを思えば、

「この事件は、何がどうなったというのか?」

 というような不思議な事件で、もちろん、人質が返ってきても、しばらく捜査は行われたが、まったく徒労に終わった。

 それもそうであろう。

 誘拐したという事実以外は、何も起こっていないのである。

「事件が起こってからの捜査であれば、いろいろ証拠を集めたりのできるのだが、実際には、そこまでの事実はないので、手がかりなど、最初からあるわけではない。

 それに、この事件に下手に執着してしまうと、

「何も起こらなかったのに、それを必死で捜査していると、それは警察の威信だけの問題だ」

 ということになるのではないか?

 と、世間やマスゴミから言われるだけである。

 それを考えると、警察も、

「他に事件も抱えているわけなので、すぐに捜査を中止するしかなかった」

 ということである。

 事件はその後、風化されることになり、被害者たちも次第に、

「誘拐などあったのか?」

 と思うほど、すっかり忘れてしまっていた。

 それだけ子供成長というのは早いもので、

「幼稚園から小学校、中学。高校、そして大学」

 と、すでに二十歳になっていたのである。

 そもそも、

「母子のどちらかが危ない」

 と言われ、一度は断念した子供だったのだ。記憶としては、誘拐された事実よりも、そっちの方が大きかった。

 父親もその事実を分かっていた。

 だから、子供も、奥さんも、どちらも大切だと思っている。

 そんな中で、子供が二十歳になったその時、完全といってもいいほど、記憶というものは、

「忘却の彼方」

 に持ち去れていたはずなのに、それを掘り起こすようなことが起こったのだ。

 それが、

「脅迫文というか、誹謗中傷のような手紙が、舞い込んだ」

 ということであった。

 そこには一言、

「誘拐事件を、お前たちは忘れてしまったのか?」

 ということが書かれていて、そこには、

「また、追って連絡する」

 と追記されていたのであった。


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