第2話 正対、相対するもの
子供が二十歳になると、今では、大学生になっていて、都心部の大学に入学したので、
「家からは通えない」
ということで、一人暮らしをするようになった。
一人暮らし二年目ということで、大学にもだいぶ慣れてきて、友達もそれなりにいるので、
「幸せなキャンパスライフを楽しんでいる」
ということであった。
両親もすっかり、年を取ったと思っていて、
「もう、あの子にも手がかからなくなった」
と考えていたのだ。
両親も、そろそろ40代後半ということで、幸いにも、会社での仕事も順調で、会社も経営が危ないということもなかったのだ。
さすがに今の時代、
「一軒家を購入」
などということができるわけもなく、賃貸マンションで、ゆっくりと暮らしていた。
「全国を飛び回るような転勤がある」
というわけではないので、実際には
「一軒家を購入してもいい」
という状況にはあったが、今までの世間の情勢を見ていると、
「とてもではないが」
と思うのだった。
というのは、一番の問題は、
「お金の問題」
ということではなかった。
昭和の終わりことから、世紀末までにかけて、いろいろなことが起こった。
「事件もそうだし、天変地異と言われるような、大地震であったり、災害が、毎年のように起こり始めた」
ということである。
世界は、
「地球温暖化」
などということで、
「これから、天変地異がいつ、どこで起こっても仕方がない」
と言われた。
特に関西で起こった大地震で、
「高速道路が横倒し」
という写真を見た時、
「これは、天変地異の前触れだ」
と思ったのだ。
しかも、
「日本の高速道路は、耐震構造がしっかりしているので、倒れることはない」
という神話があったではないか。
それが、いくら、
「そこまでの震度は想定していなかった」
と国やゼネコンは言い訳をするが、よく考えてみれば、
「想定外のできごとが起こるのが今の時代だ」
ということになれば、何も信じられないということになる。
バブルの崩壊でもそうだったではないか、
「銀行は絶対に潰れるわけはない」
と言われたのに、蓋を開けると、最初に銀行が破綻してしまったことで、
「バブルが崩壊」
ということになったのだ。
何よりも、
「偉い学者がたくさんいるのに、政府にしても、誰も、バブルの崩壊というものを予想できなかったのか?」
ということである。
大地震のような天変地異に関してはしょうがないかも知れないが、
「バブル崩壊」
というのは、あとから考えてのことであるが、
「誰にでもあとからなら分かることだ」
というだけに、
「本当に誰も気づかなかったのか?」
というのは怪しいものである。
つまり、
「誰も気づかなかったわけではなく、警鐘を鳴らした人は必ずいたはずで、それをどこかの組織だったり団体が、押さえつけたのではないか?」
ということも考えられる。
それこそ、
「言論の自由」
「報道の自由」
に対する挑戦といってもいいかも知れない。
しかし、これも逆に、
「俺たちがここで、報道を止めないと、いたずらに混乱を招くだけで、崩壊するとは限らないバブル経済が、ウワサや中傷によって、瓦解するということになれば、本末転倒だ」
といえるのではないだろうか?
それを考えると、
「俺たちと違って、お偉いさんは、国家のことまで考えないといけない」
ということだろう。
しかし、結果としては、想定内だったといえるだろうか。
ひょっとすると、
「ある一瞬を辞めさせれば、バブルの崩壊は防げたのかも知れない」
ともいえる。
だが、これも逆に考えると、
「時代の流れを抑えるということができるわけがない」
ということである。
それがどういうことなのかというと、
「その時だけ、うまく逃れても、いずれはまた危機がやってきて、その時は、どうしようもない状態になっているかも知れない」
ということで、
「結局、遅かれ早かれ、崩壊するものは崩壊するんだ」
ということであれば、
「どのタイミングの時が一番被害が少なくて済むか?」
ということになる。
ただ、これに関しては。
「バブル崩壊というものを、どこかの団体が分かっていて、ずっと研究をしているとするならば、それを抑えることが本当にできたのか?」
ということは誰にも分からない。
そもそも、その検証というものを誰かがしているのだろうか?
少なくとも、
「バブル崩壊は、想定できなかった」
という。
「まるで天変地異のようなものだ」
ということであれば、誰にも分かることではないといえるだろう。
国民全員にウソをついていたのだとすれば、
「墓場まで、そのウソを持っていくのが、ウソをついた人間の責任だ」
といってもいいだろう。
ここで、
「本当は分かっていた」
と後になってから言っても、それは、後の祭りであり、誰も得をするわけではなく、
「何をいまさら」
と言われて終わりである。
その時、
「信頼が失墜してでも、知らなかったと言い張る」
ということであれば、その時の選択が、
「どれをとっても、いいことはないというのであれば、どれが、被害が少ないということであろうか?」
ということになるのである。
それを考えると、政府なのか、経済団体なのか、それとも、学会のようなもおのが、国家機関として存在しているのか?
そのどれかに責任があるとするのは、本当に正しいのだろうか?
何といっても、銀行が、
「過剰融資」
などという、ちょっと考えれば恐ろしい方法を、公然と使い、まるで、それが一番正しい方法とでも言わんばかりにふるまっていたのだから、
「銀行に責任がある」
という人もいるだろう。
しかし、銀行とすれば、
「利益もちゃんと出ていて、まだまだ伸びるということを事前調査で見ていたのだから、それも当たり前のことだ」
ということであろう。
「自分じゃなくても、他の人だってやる。だから、自分が躊躇して、他の人が出てくれば、自分が遅れを取る」
ということになるのだ。
だから、
「過剰融資を行った」
という銀行員は、果たして会社に損をもたらしたといって。弾劾できるのだろうか?
会社というのは、
「利益を出さなければ、害悪だ」
というのが、経済学、経営学の基本である。
だから、過剰融資で利益を稼ぐ」
というのは当たり前のことであり、それができなければ、
「社会の害悪」
ということになるだろう。
それを考えれば、
「社会貢献というのがいかなるものなのか?」
ということではなく、
「会社に利益をもたらせれば、自分が優秀な社員ということで出世もするだろうし、給料も上がる」
ということになるのだ。
要するに、会社員は、
「会社がどうなろうと、自分に利益になればそれでいい
ということである。
その間に、バブルの時代は、優秀な社員を引き抜いたりということも結構していただろう。
年功序列に終身雇用というものが、崩れてきた時期があったとすれば、それは、
「バブル崩壊」
からではなく、その前兆として、
「バブル期からあった」
といってもいいだろう。
それを考えれば、
「もし、バブル期に引き抜かれた人が、バブル崩壊でどうなったのか?」
ということを考えてしまう。
「せっかく移ったのだが、会社が倒産してしまった」
ということもあるだろう、
逆にいえば、
「あの会社に前からいれば、その会社が潰れていた」
ともいえるだろう。
だが、
「どの会社が、潰れずに残っているか?」
などということが分かるはずがない。
何といっても、潰れずに残れるかどうか、わかるわけもないし、バブルの崩壊というのは、その時だけのことではないのだ。
つまりは、
「今は残っていても、そのうちに潰れてしまうか?」
あるいは、
「大きな会社に吸収合併されてしまうか?」
ということは、
「一寸先が闇」
というわけである。
実際に、バブルの崩壊の影響は、
「30年経った今でも、バブルの崩壊は終わっていない」
と言われるように、
「失われた30年は、まるで底なし沼のようではないか?」
ということである。
それを考えると、
「動いた方がいいのか、動かない方がいいのか?」
誰にも分かるわけではない。
大空襲の時でも、防空壕に逃げていても、そこに爆弾が直撃すれば、本当に助かると言い切れないではないか?
というものである。
「何が正しい」
というのは、もし、その状態が終わってしまっても、分かるわけではない。
「その日は死ななかったが、翌日は、爆弾の直撃意を受けるかもしれない」
という恐怖に、毎日生きていれば、精神が病まないわけはない。
完全に、感覚はマヒしてしまい、
「自分がどうなってしまうのか?」
ということが分からないとも言い切れないだろう。
だから、
「動くか、動かないか?」
という選択は、あくまでも、その人の性格でしかない。
逆に、
「人が行動して、失敗すれば、それを踏まえて、また考える」
という人もいるだろう。
ただ、それが
「一番正しい」
といえるかも知れないが、それも、
「先着を最優先する」
ということであれば、
「戸惑っているうちに、すでに終わってしまっている」
ということになりかねない。
それが、選択の中での、
「究極の選択」
というものに繋がるのであれば、それは、誰にそれが分かるということなのか?
そんなことを考えていると、
「マンションにしても、一戸建てにしても、分譲というのは怖い」
と思うのだ。
確かに、
「毎月の賃貸料を払うことを思えば、分譲を30年ローンとかで返す方が安い」
ということになるだろうが、
「いつ、会社をクビになって、ローンが払えなくなるかも知れない」
と思い、最悪を考えてしまい、
「夜逃げなんてことになれば」
ということを頭に描くと、とてもではないが、
「分譲を買うなどということはありえない」
という結論いしかならないだろう。
これは、考え方の問題で、最後の決定を促すのは、
「その人の性格」
である。
「慎重派なのか、それとも、この時とばかりに決めれば、猪突猛進となるか?」
ということである。
どちらがいいとは言い切れない。猪突猛進でもその性格で、巨大企業を築くかも知れないからだ。
しかし、それがいつまでも続くとは限らない。天変地異だって起こることだろう。
「自分には経営者は向かない」
と思ったのであれば、最初から、
「サラリーマンで生きる」
ということになるからだ。
子供が大人になると、
「子供の頃、天才と言われていた子供は、普通の大人になる」
と言われるものだ。
「末は博士か大臣か?」
などと言われていた子供が、
「二十歳過ぎればただの人」
ということである。
これは、たぶん、
「成長には限界があり、早熟であっても、晩生であっても、その人が迎える限界は決まっていて、早いか襲いかの違いだけである」
ということになるのではないだろうか。
というのも、
「それまで、子供から大人になる時の、子供の状態は、どちらかというと、早熟だったかも知れない」
ということであった。
というよりも、
「幼児の頃の特徴としては、男の子なのに、まるで女の子のように肌が白く、細々としていた」
という印象であった。
だから、小学生の頃までは、女の子の方が大きい子が多かった。
もっとも、小学生くらいの頃の成長は、
「男の子よりも女の子の方が早い」
と言われていて、平均身長は、
「女子の方が高い」
というクラスもあったくらいだ。
しかし、中学生になり、思春期を迎えると、男子の成長は目まぐるしく、
「ちょっと見ない間に、背が低かった男子が、皆のっぽになっていた」
などということは当たり前にあることであった。
女性が、いくら高いといっても、170cmもあれば、相当なものである。
しかし、男子は、中学生の間に、それを飛び越えて、180cmくらいになっているなどということは、ざらである。
そんな中学生というのは、
「誰もが通る大人への階段」
といえばいいのだろうか。
ちょっときざな言い方ではあるが、中学生が成長する間に、
「精神的な成長と、肉体的な成長がある」
ということで、これは、
「必ずしも比例しない」
といえるだろう。
ただこれは、肉体的な成長にも、精神的な成長にも種類というものがあるのであって、
「肉体的な成長といっても、身長が伸びるという成長もあれば、身体自体が大人になるということで、女性であれば、初潮を迎えるなどという、明らかに大人になるという、身体の機能というものがかかわっていることである」
と言える。
精神的なものとすれば、
「これまで、親に頼っていたことを、自分でできるようになるなどの、精神的な成長というものがある」
ということだ。
これは別に、精神的とはいえ、
「背伸びをする」
ということではない。
身体の成長に合わせた精神的な成長が望ましいのである。
逆に身体の成長も、精神にマッチしていなければ、結局精神的に、ストレスを抱えることになり、それが、自分にとって、うまくいかないということになるのである。
それを考えると、
「やはり、精神的な成長と肉体的な成長とが、それぞれ無理をするようなことがあってはいけない」
ということになるであろう。
精神的な成長で、どうしても勘違いしてしまうのは、
「身体が成長すれば、精神も一緒に成長してくれる」
という感覚である。
しかし、それは危険な発想である。
どうしても肉体的な成長が早いと、精神的にも、そこに追い付こうとして、まわりから、
「ませている」
などと言われるであろう。
確かに、ませていることもは、まわりのまだ成長の未熟な人を巻き込んで、
「自分が仕切ることで、マウントを取ろう」
と考えてしまうのかも知れない。
それを考えると、
身体の成長というものが、うまくいかない場合もある。
というのは、身体の成長にも種類があると言ったが、その成長がそれぞれに、バラン祖を取っていないといけないものが、アンバランスになってしまうと、自分が考えているよりも、
「何もできていない」
という感覚になってしまうかも知れない。
というのも、
「なんでもできる」
と、思春期には思ってしまうことが多いようで、それだけ身体の一部は、自分で想定しているよりも、早く成長しているのだ。
だから、そのレベルに基準を合わせてしまうと、
「俺って、早熟なんだ」
と勝手に思い込んでしまう。
たとえば、
「背が伸びるのが早く、中学生でもう170cmを超えていた」
などというと、どうしても、上から目線になってしまう。
「上から目線」
というものがどういうものなのかを知らずに、本当に上から見てしまうと、無意識に、
「まわりが小さく見える」
という感覚に陥り、
「皆が自分よりも、下等なんだ」
という思いを抱いてしまうと、もう一人の自分が、
「そんなことはないんだ」
といって、言い聞かせる。
よくアニメやコントなのでは、自分の中に、
「天使と悪魔がいる」
という描写があったりする。
考えてみれば、
「天使と悪魔」
というのは、
「いて当たり前だ」
という意識がある。
それは、天使から悪魔を見た時、
「何か、うまくいかなかった時のための言い訳として、自分の中に悪魔がいるのではないか?」
と考えるかも知れない。
言い方は悪いが、
「手柄は全部、天使のおかげで、失敗などは、すべて悪魔がやったこと」
ということで、自分を納得させるということになれば、それが、一番、
「自分の中の辻褄合わせなのかも知れない」
ということになる。
自分の中に、
「正対するもの、相対するもの」
というものがあるということは、自分としては、
「物心がつく頃から分かっていたことなのかも知れない」
と考えてしまう。
ということは、それがどういうことなのか?
外国の小説で、
「ジキル博士とハイド氏」
という小説があり、それが、二重人格というものの証明のようなものではないだろうか?
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