洗脳の果てに
森本 晃次
第1話 生まれたての子供
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年2月時点のものです。時代背景と時代考証とは、必ずしも一致するわけではありませんので、ご了承ください。一種のパラレルワールドでしょうか?
生まれたての子供というと、まだ、
「右も左も分からない」
と言われる。
それは当たり前のことで、
「父親も母親も分からない」
のだから、それも当然のことであろう。
母親の胎内にいる時から、羊水に浸かっていて、母親から栄養をもらうことで、この世に出てくるまでに、その身体の育成を行っているということだ。
考えてみれば、実によくできている。
胎内に生命が宿って、
「十月十日」
で身体の外に出てくるわけである。
もちろん、個人差というものがあるが、だからと言って、
「一か月で出てくる」
あるいは、
「2年近くかかった」
などということはないのだ。
確かに予定日をかなり遅れるとなると、
「帝王切開」
などという手法が取られるが、それは、
「母体に危険が及ぶ可能性がある」
ということからであろう。
何といっても、母体において生命の危険があり、
「母親と、子供のどちらかしか助けられない」
などと、医者から宣告されれば、旦那や家族は、どちらを選択することになるというのだろう?
これこそ、
「究極の選択」
というものである。
しかし、接待に失いたくないのは、奥さんではないだろうか?
不謹慎ではあるが、
「子供はまた授かればいいが、奥さんの代わりはどこにもいない」
ということである。
確かに、生まれてくるはずの子供の命を奪うことはできないはずだが、だからと言って、奥さんを見殺しにすることはできない。
だからこその究極の選択なのであり、たぶん、同じ選択を迫られた旦那さんは、十中八九、
「奥さんを助けたい」
と思うに違いない。
「それでこそ人間だ」
と言われるかも知れないが、そんなことは、
「人間でなくても、どの動物でも同じだ」
といえるのではないだろうか?
もし、
「子供だけでも、助けてほしい」
と願っている人がいるとすれば、
「それは、当人である母親なのかも知れない」
と思うのだった。
自分の身体は、
「自分にしか分からない」
と言われるが、確かにその通りで、もし、母親が、その時助かっても、
「二度と子供を産むことができない身体になってしまった」
ということであれば、まずは、子供の命を優先するかも知れない。
「二度と産めなくなる自分よりも、そんな自分から生まれた最後の子供が、立派に育ってくれることを願う」
ということである。
確かに、それは理屈であり、人間に、
「欲」
というものがある以上、
「絶対に二人とも助けてほしい」
と考えるに違いない。
この時に生まれた子供は、医者から、
「難しい手術なので、どちらかの命しか助けられないとした時、母体を優先するようにしますね」
ということであった。
しかし、この子は、数時間の難しい手術に耐えきって、しっかりと、
「母子ともに健康」
ということで生まれてきた。
医者から言わせても、
「これは奇跡に近いものだった」
ということである。
実際に、
「死の境をさまよった」
というのは間違いないようで、医者も看護婦も、
「奇跡だった」
というほどで、実際に、学会での奨励発表の場でも、議題にされたというくらいだった。
それを思えば、
「今回生まれたこの子は奇跡の子であり、何が起こっても、少々のことでは驚かないだろうな」
と言われるくらいだったのだ。
奇跡的に助かった子供も親も、退院してから、子供を育てる方になると、半年もしないうちに、
「生死の境をさまよった」
ということを忘れてしまったかのようだった。
それも、生まれた子供が、しっかりと成長し、他の子供と変わりない様子になってくると、母親の方も、
「本当は、忘れてはいけない」
と思いながらも、そこは、
「自分がしっかりと育てなければいけない」
ということを感じたからであろう。それだけに、旦那も奥さんに気を遣ってか、
「余計なことを言わないようにしたのだった」
というのも、
「せっかく助かった命、辛いことを思い出させるのは酷なことだ」
と思っていた。
だから、
「奥さんを苦しめるのは、自分の本意ではない」
と思うことから、
「私にとっても、夫の苦しみは分かっているつもり」
と奥さんは奥さんで気を遣っていた。
なぜかというと、
「奥さんには、旦那に隠している」
ということがあった。
それは、
「妊娠が分かる少し前に、不倫をしていた」
ということだったのだ。
奥さんとすれば、
「仕事で忙しい旦那が構ってくれない」
ということもあった。
しかも、この奥さんは、極度の寂しがりやで、パート先の店長と、
「軽い気持ちで、浮気をしてしまったのだ」
しかし、その浮気に嵌ってしまったのが、奥さんの方だった。
相手の男は、
「一度きり」
というつもりだったのだが、
「女としては。寂しい思いに、また戻りたくない」
という気持ちだったのだ。
だから、相手の男をつなぎとめておこうとすると、
「相手の弱みを握ってでも、離さない」
と思うのだ。
男とすれば、
「弱みを握られてたまるものか」
とは思っているが、
「まさか、自分に弱みなどない」
と思っていたところへ、奥さんが、捨て身の行動に出ようとすると、今度は、
「こんなに恐ろしい女だったのか?」
と、一度の過ちのつもりが、
「まさかこんなことになるなんて」
という事態になったのだ。
しかし、そんなところで、奥さんの方が、
「私、懐妊しちゃって」
ということで、よく聞いてみると、相手は、
「旦那さんだ」
というではないか。
それを聞いて浮気相手は安堵となった。
「そのおかげで、不倫という悪夢から逃れられる」
と思うのだ。
それを考えると、
「知らぬは旦那だけなり」
という状態だったのだ。
何とか浮気の事実を隠して懐妊から、出産に向かっているのだが、すでに奥さんは、
「母親になる準備」
をしていたのだ。
奥さんはすでに、覚悟のようなものを決めていた。
覚悟というには大げさであるが、
「子供が生まれる」
という事実は、まわりが見るよりも、よほど奥さんが身をもって体験していることで、それを誰も何も言えない状況になったことで、まわりは、暖かい目で見ているようだった。
今の時代は、
「ご近所づきあい」
などというのは皆無である。
家族のことであっても、少しでも離れてしまうと、
「お構いなし」
ということになる。
「自分のことだけでも大変なのに、家族でもないのに」
ということで、
「親せきであっても、家族ではない」
という考えに至るのだ。
そもそも、以前の映画でもよくあったではないか、
「親が事故か何かで死んでしまって、家族のなくなった子供をどうするか?」
ということで、もめるということが。
しかも、それを、親の葬儀の場でやったりしているのだから、そんな光景は、
「人間なんて、自分のことしか考えていない。血も涙もない」
ということになるのである。
それは当たり前のことであり、確かに、今の時代は、
「バブルの崩壊」
から続く、数々の、
「神話の崩壊」
であったり、さらには、
「家族制度の崩壊」
を招いていた。
それまでは、
「家族の長が働きに出て、年功序列、終身雇用という当時とすれば当たり前だったことが、すべて崩壊し、奥さんも共稼ぎをしないとやっていけない」
という時代になったのだ。
そうなると、昼間は、専業主婦として奥さんが家を守っていたのに、昼間は、皆どこかに出かけていて、家に誰もいないということになる。
そうなると、
「家に誰もいないということで、それまで家庭にセールスに行っていたところが、ある意味、商売あがったり」
ということになるだろう。
家庭の訪問という営業は次第に減って行き、
「ポスティング」
というものも増えてくる。
さらに、それまでは、
「コンビニだけが、深夜まで開いている」
という時代だったが、次第に、スーパーやドラッグストアも、深夜近くまで営業をするようになり、最後には、
「ファストフード」
であったり、
「スーパー」
などが、24時間営業というものを打ち出してくる。
それが、今の時代となったのだ。
ただ、その営業も、数年前に発生した、
「世界的なパンデミック」
によって、
休業要請」
や、
「時短営業」
というものを余儀なくされたことで、そのパンデミックが、曲がりなりにも収まってくると、それまでであれば、元に戻っていたものが、戻らないという状況になってきたのである。
それが、
「人手不足の深刻化」
というものであった。
なぜ、ここまで人手不足と言われるようになったのかというのは、諸説あるだろうが、一つ大きなこととしては。
「今の時代、物資が足りてきて、物資のない時代、つまり、インフレというものを知らないことから、楽をして稼ぐというバブル時代の意識だけが引きずられているのではないだろうか?」
ということである。
もちろん、それだけではない。経済というのは、そんな単純なものではないのだろうが、歴史を考えれば、そう思わずにいられない。
「何年、あるいは、何十年という周期で、歴史は繰り返してきた」
ということで、歴史から学ぶこととというのは、かなりあるはずだといっても過言ではないだろう。
今の時代は、
「失われた30年」
ということで、
「いろいろな時代の集大成」
といってもいいかも知れない。
ただし、これは、時代を繰り返しているということで、まるで、
「循環する尺取虫」
とでもいえばいいのか、
「過去数年の集大成が今なのだ」
ということを、いつの時代でも言っているような気がする。
「しかし、その時代のうねりは、どこかで繰り返すことになる。ある意味、成長を遂げて、ある程度の結界にまで到達すれば、一瞬にして、しかも、誰も気づかない状態で、過去のどこかの時点に戻っている」
といってもいいのではないだろうか。
そのうねりというのは、繰り返された歴史が、まるで、
「モグラが掘った穴」
のようではないか。
つまり、
「前を掘り進んでいけば、後ろに掘った穴の土が残っていく」
あるいは、
「トンネルなどを掘ると、そこから出た土を、埋め立てなどに使って。再利用する」
ということで、一石二鳥を狙うのだが、果たしてそううまくいくのだろうか?
「結局、廃棄物は廃棄しかないのだ」
ということを、今の人類も分かってきている。
その証拠に、昔は、病院などで使った注射器というのは、
「煮沸することで、再利用する」
というのが当たり前のことであった。
「確かに、煮沸さえすれば、十分だった」
という時代があった。
しかし、1980年代において、
「HIV」
いわゆる
「エイズウイルス」
などが、
「体液感染する」
ということで、
「注射針が誤って刺さってしまったことで、伝染してしまった」
という例が散見した。
それはあくまでも、
「一つの例」
ということであったが、当時は、致死率が群を抜いて高かったことで、
「注射器は、一度使用すれば廃棄」
ということで、昔のような大きくて丈夫な注射器ではなく、プラスチックの軽くて、使い捨て用のものに変わっていったということである。
伝染病への恐ろしさは、今の時代でも、
「世界的なパンデミック」
によって身に染みている。
というのも、パンデミックというものが、
「最初、どのようなものなのか?」
ということが正直分からないということがあった。
だからこそ、世の中の人間は、
「マスク着用」
と徹底したのだ。
しかし、その時、
「転売屋」
と言われる連中が、暗躍し。
「人の命が掛かっている」
というのに、買い占めに走り、
「マスクが世界的に不足する」
という非常事態になった。
要するに、
「これほど、人間というものの汚い部分はない」
というもので、アニメなどで問題になるという状況から考えると、
「アニメなどで描かれる。非人道的な組織というのは、実在するんだ」
ということになり、
「アニメに出てくる、正義のヒーローのようなものが待ち望まれているのではないか?」
と考える人も出てくるかも知れない。
時代はそういう意味で、どんどん変わってきた。
しかし、結局、どこかでもとに戻ってくる。
「一周すると、元に戻ってくることはない」
という伝説もあるが、だから、
「一直線につながっているように見えて、先が見えない」
ということなのだろうが、実は、
「限りあるものとして、ずっと続いている」
ということになるのだということなのだろう。
そんな時代を超えてきた時に生まれた子供、その子供は今、二十歳になっていた。
その子は、もちろん、知らないことであったが、母親も父親も、時代が進んでくることで、最近では思い出すことすらなくなってきた。
というのは、
「その子が、まだ、幼児の頃に、誘拐された」
という事実であった。
その時は警察にも連絡し、
「誘拐事件」
ということで、捜査が行われたのだが、実際には、身代金の要求もなく、少ししてから、子供は無事に戻ってきたのだった。
一見、誘拐ではないかのように思われるが、手紙でたった一言、
「子供は預かっている」
というものが来たからであった。
実際に子供は行方不明。誰もが、
「誘拐だ」
ということになったとしても、それは無理もないことであった。
だが、実際には、
「未遂」
という形での誘拐だったことで、警察も、その後捜査をしたが、何といっても、犯罪という形になっているわけでもないので、証拠も何も残っていない。
すぐに、捜査は打ち切られ、
「誘拐事件というものがあった」
ということですら、忘れられていたかのようであった。
その頃はまだ、携帯電話も普及し始めたばかりということで、インターネットすら、まだまだ、初期の段階くらいだったのだ。警察の捜査も、そこまでの科学捜査ができるわけでもなかったということである。
まるで、
「泡のような誘拐事件」
誰もが忘れてしまっても、無理もないというものだ。
そんな生まれたての子供を誘拐し、何をしようとしたのか?
すでに、事件も解決し、実際に犯人捜査もなければ、犯人が、何か別の方法で、この家族を脅迫してきたり、生活を脅かしてくるということもなかった。
それを思えば、被害者たちも、自分たちの平穏な生活を取り戻すことに躍起になるだろう。
半年近くも経って、何もないのだから、生活リズムを穏やかな方にシフトしていくことが当たり前のようになるのであった。
実際に、警察が、事件を追う中で、
「まったく捜査に進展がなかった」
というのは気になるところであるが、
「いつまでも気にしていても仕方がない」
ということで、何よりも、子供とすれば、まだ物心もついていないので、
「自分が誘拐された」
などということが分かるはずもない。
だから、
「それなら、バレないようにするのが一番だ」
ということになるだろう。
だから、親も、どこかで、
「何事もなかった」
というそぶりに戻らなければいけない。
それは、子供にバレないのはもちろん、まわりの人にバレないようにもしないといけない。
幸いなことに、あの時誘拐事件があったということは誰も知らないだろう。
誘拐といっても、何事もなく、無事に子供は返ってきて、被害もなかったのだから、さすがに、
「未遂」
というのはおかしいが、せめて、数日、
「子供を預かっていた」
というだけだから、脅迫もしていないし、被害者は、心痛だけで、形となる被害があったわけではない。
そうなると、被害者の方も、
「なるべくオフレコで」
ということになるだろう。
だから、子供としても、何事もなかったように、すくすくと育っているということで、いいことだったのだ。
ただ、両親は、その時たまったものではなかっただろう。
何といっても、
「母体を助けるか、子供を助けるか?」
という選択を迫られた状態において・
「何とか、両方とも助けることができた」
ということで、胸をなでおろしたところにもってきて、
「誘拐事件」
に巻き込まれたのだから、本当にたまったものではない。
しかし、これは逆にとればどうだろう?
「母子、どちらかは死んでいた」
と思えば、二人とも助かったというのは、
「奇跡だ」
ということであったし、誘拐事件にしても、
「無事に子供は返ってきて、しかも、何も脅迫めいたこともなかった」
ということで、安心できる状態になったのだから、
「これほど安心できることはない」
というものだ。
危機にはあったが、結果として、最良の状態に保てたというのだから、
「捨てる神あれば、拾う神あり」
とでもいえばいいのではないだろうか。
そんなことを考えていると、
「これが、自分たちの運命なのかも知れない」
と感じていた。
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