3話:アメフラシと人魚
リルは、海辺の浜を歩いていました。
海から強い風が吹き、潮の匂いを運んできます。ちょっとべたべたしますが、気持ちのよい風です。ズゥはその風に乗って舞い上がり、高いところをゆっくり旋回していました。
「おーい。ズゥ。そろそろ降りてこーい!」
声をはりあげましたが、ズゥが戻ってくる気配はありません。リルはため息をつきました。しかしそのうち降りてくるでしょう。リルはほどよい岩場を見つけると腰をおろし、鞄から包みを取り出しました。中身は焼いた羊肉と香草を挟んだパン、ゆで卵とトマト、それから小ぶりなリンゴです。昼に食べようと、少しふんぱつして町で買ってきたのです。
道中の食事は塩味の強い保存食か、自ら狩ってまかなうのが基本です。しかしたまには、こういう贅沢も良いでしょう。リルは羊肉にかぶりつきました。
「うん。美味しい」
リルは舌鼓を打ち、キラキラと光る海面を眺めました。ズゥが海面に向かって急降下し小さな飛沫を作り、ふわりと空へ昇ります。どうやら魚を獲っているようです。この分だと羊肉は全部食べてしまってもいいな。そう思ったリルは、口を大きく開きました。その時です。
「あのぉ、すみません」
突然、声がしたのです。リルは驚いて、ひぇっ、と声をあげました。羊肉を落とさなかったのは幸いでした。何しろその声は、浜からではなく海のほうから聞こえてきたのです。たまたま漁師が居た、という偶然でも無ければ『普通の人の声』ではありえません。跳ねる心臓をなだめながら、そろそろとリルは海をのぞき込みました。
そこには一人の女の人がいました。薄茶の髪を三つ編みに垂らしたそばかす顔が、申し訳なさそうにこちらを見ています。岩場に潜り、貝などを手づかみで獲る漁があると聞きました。そういう仕事の人でしょうか。
「ごめんなさい。驚かせてしまって」
女の人は、おどおどと両手をあげました。
「こちらこそ。すみませ……えっ? んん?」
リルも謝罪を返そうとしましたが、途中で口をつぐんでしまいました。女の人が、岩場に腰を乗せたのです。彼女は、どう見ても『人間』ではありませんでした。
「に、人魚……?」
ぶしつけかとは思いましたが、リルは彼女の下半身から目が離せませんでした。薄い緑から濃い緑へ、ゆらゆらと色を変える鱗が光っています。リルはこれまでの旅で、いろいろな人と出会いました。それまで知らなかった食べ物や動物、植物も沢山ありました。
しかし『人魚』のような、お伽噺だとばかり思っていた生き物と出会うのは初めてだったのです。
「あら、人魚を見るのは初めて?」
人魚はリルの心を見透かしたかのように笑います。たどたどしくリルがうなずくと、「素直なこと!」と鈴のような声を転がしました。
「この国で、人魚は珍しくないわ。……あなたは違う国から来たのね?」
「はい。雨氷の国の生まれです」
リルは答えました。
「あらそうなの。独りでこんな遠くまで? ずいぶんと幼く見えるけれど、そうでもないのかしら?」
「リルです。独りというわけでもありません。あそこで飛んでいるのが、相棒のズゥです。《雨氷の国》の《キウ守の役》の子で、修行の旅をしています」
人魚がリルの言葉に目を見開きました。
「……《キウ守の役》の子?」
「ええ、まあ」
「そう」
なにやら神妙な顔をして、人魚は考え込みました。ぱしゃん、ぱしゃん、と小気味良く、緑に透けるヒレが海面を打ちます。
「子どもとはいえ、《キウ守の役》がどうして国を出たの? 修行って?」
人魚が訊ねました。どう答えたものか、リルは迷いましたが嘘をついても意味がありません。
「じつは雨氷の国の《キウ》は、寿命が近いらしいんです。《キウ守の役》の子として、新しいキウを探しています」
「まあ」
口元に手をあてて、人魚は眉をひそめました。どうやらこの人魚は、《キウ》についての知識を持っている様子です。この国のキウについても、何か知っているかもしれません。
リルは訊ねました。
「もし、知っているなら教えてください。この国のキウは、どういうものですか?」
「……」
人魚は黙り込んでしまいました。
「あの?」
何かまずかっただろうかと、リルは不安になります。しかし人魚は、ばしゃり、と大きくヒレを動かすと、ちょっとだけ神妙な顔をリルに向けて言いました。
「すこし、場所を移せるかしら? その問いに答えるには、私はうってつけだと思うわ。ただ、そのかわりと言ってはなんだけど、私もあなたに頼みたいことがあるの」
「頼みたいこと?」
リルは、首をかしげました。
「ええ。このまま砂浜をしばらく行くと、右手に岩場があるわ。大きい岩が三つ並んでいるのが目印よ。陽が明るいうちには着くはずよ。まずはその岩の近くまで来てくれる?」
ほんの少しリルは迷いましたが、この国のキウについて知ることができるなら、行かない手はありません。人魚の話に乗ることにしました。
ズゥを呼び戻し、リンゴをかじりながら砂浜を歩きます。海岸線は弧を描くように曲がっていて、思ったよりも距離がありそうです。
「ズゥなら飛んでいけるのになぁ」
リルは呟きました。ズゥは魚をつつくのに夢中で、聞いていません。それか人魚のように海を進むことができれば楽なのに、とリルは肩を落としましたが、しかたがありません。
やっとのことで岩場に辿り着くと、先ほどの人魚が浅瀬に浮いていました。人魚はリルに気がつくと、ほっとしたように笑います。
「ありがとう。信じてくれて。実は、ちょっとだけ不安だったの。来てくれないんじゃないかって。ほら、『人魚の言うことなんか信じない』って人間も多いでしょう?」
そう言うと、人魚はとても嬉しそうにリルの手をにぎりました。人魚の手はひんやりとしていて、まるで水に触れているようです。
「さて、この国のキウについてだったわね」
人魚は腰に吊るした小さな袋から、一粒の塊を取り出しました。うっすらと白く、鈍く淡い光を放っています。
「見て。これが、この国の《キウ》よ」
「これは、真珠?」
似たような石を、リルは町の雑貨屋で見ました。ごくまれに貝の中から見つかる石で、海の御守りとして人気があるのだと店の人は言っていたように思います。
「ええ。この真珠を真水に浸けると雨を呼ぶの。もちろん普通の真珠ではないわ。真珠は貝の中で育つものだけど、《キウ》になる真珠は、アメフラシの中で育つのよ」
「アメフラシ?」
リルは首をかしげました。聞いたことのない名前です。雨氷の国にも海はありますが、とても冷たいのであまり馴染みがありませんでした。海に暮らす生き物でしょうか。
「ふふ。あの子よ」
人魚が岩の窪みの水たまりを指さしました。リルはその指の先を追い、ひぇっ、と声をあげました。それは、はじめて見る生き物でした。赤っぽいブヨブヨで、ヒラヒラとした塊が、海の中を漂っています。体をくねらせて動いていなければ、生き物とは思えなかったでしょう。しかしよくよく眺めていると、なかなか可愛らしい動きをしています。
「この生き物が、《キウ》になる真珠を作るんですか?」
「そうよ。こんな見た目だけど、じつは貝の仲間なの。……ただ、普通の真珠よりずっと珍しいわ。万のアメフラシがいても一粒あるかどうか、というぐらい」
「それは、見つけるのが大変そうですね」
リルは驚きました。どうやって数を得ているのでしょうか。
「そうね。そこで私たち、人魚の出番」
「人魚の出番?」
「ええ。私たちは《キウの真珠》を見つけることができるの。《キウ》を持っているアメフラシとそうでないものを見分けることができる。この国の《キウ守の役》は、私たち人魚なのよ」
「へぇ」
どうやって見分けているのだろう。リルは思いましたが、それを聞くのははばかられました。
そんなリルを見て、人魚は満足そうにうなずきます。
「『どうやって?』とは、聞かないのね」
「えっと、それは、気にはなりますけど……聞きません」
雨氷の国でも、キウの本当の姿は《キウ守の役》しか知りません。秘密にすることでキウを護ってきたのだと、お父さんは言っていました。人魚とアメフラシの話も、明らかにしないほうがいいのではないかと思ったのです。
「本当に素直ね! 大丈夫。知られたところで問題ないわ。……人魚が歌うと、キウを持つアメフラシは白い靄を吐くの。それが、キウを見分ける方法よ」
「!」
あっさりと秘密を明かした人魚は、「むしろ逆なのよ」と、困った顔をしました。
「頼みがあると言ったでしょう? あなたから陸の人間に、このことを伝えて欲しいの」
「どういう、ことですか?」
リルには意味がわかりません。人魚は言いました。
「私たちは唄を歌って、アメフラシから《キウ》を得るわ。そして陸の人間は、人魚に《キウ》を願い、金鉱石と交換することで《キウ》を得るの」
「物々交換、ということですね」
「そうね。でも、私たちの財になるわけじゃないわ。アメフラシは、金鉱石を食べるのよ」
「へぇ」
それなのに……、と人魚は嘆きました。
「アメフラシが《キウ》の真珠を持っている。それを知った人間は、アメフラシを乱獲し出したの。『そうすれば人魚に頼らず《キウ》を得られる』と言ってね」
「そんな……」
「私たちは言ったわ。そんなやり方では、アメフラシの命を無駄に奪うだけで、《キウ》を得ることは無理だって。でも、信じてもらえなかったの。私たちが欲のために《キウ》を独占していると思われたのね。……しかも間の悪いことに、人間たちは偶然、キウを持つアメフラシを引き当ててしまったの。それで、歯止めが効かなくなった」
リルは愕然としました。《キウ守の役》の言葉を信じない人がいるとは、思いもしなかったのです。確かにお父さんも、お母さんからつまみ食いを疑われることはありました。しかし《キウ守の役》として、キウの前に立てば話は別です。誰もがお父さんの言うことを、信じていました。
しかしふと、リルは疑問を持ちました。
「それなら、実際に唄を歌ってみせて、アメフラシの白い靄を見てもらえば……」
人魚は申し訳なさそうに、首を横に振ります。
「それも考えなかったわけではないのだけれど。……でも、人魚の唄は、人間にとっては毒になるのよ」
「毒……?」
「ええ。言葉の通りよ。人間が人魚の唄を聴くと魂が抜けたように虚ろになって……海に入ってしまうの。当然、息ができなくなって、その人間は……」
「……」
リルは空を仰ぎました。肩の上に飽きたズゥが、大きく翼を広げています。
「だから人魚はずっと沖のほうへ出て、《キウ》を探すの。人間を巻きこまないためにね。まあごくたまに、沖に出ていた船を巻きこんでしまうことはあったけど……あれは事故だわ」
「……」
リルは岩場の水たまりに目を落としました。海藻に絡みついたアメフラシが、もぞもぞと動いていました。
「アメフラシの数が減れば、得られるキウの数も減るわ。雨が降らなければ、海に暮らす者だって困るのよ。でも海には真水が無いから、私たちではキウに雨を願えない!」
人魚は心中を吐き出すように、叫びました。
「陸の人間に、私たち人魚の言葉は届かないわ。でも他国の《キウ守の役》で、同じ人間のあなたの言葉なら、信じてもらえるかもしれない」
つまり、説得を手伝って欲しいというのが人魚の頼みごとのようです。たしかにリルの立場なら、この国の人間たちも無下にはできないでしょう。
「あなたから聞いたことを、伝えるのはかまいません。……でも、《キウ守の役》とはいっても半人前ですし、何より他所の人間です。説得するのは、難しいと思います」
人魚は、もちろん、とうなずきました
「かまわないわ。でも私たち人魚では、もうどうすることもできないのよ。だからお願い。この話を伝えるだけでもいいから……」
懇願する人魚に、リルはうなずきました。どうなるかは分かりません。ですが、放っておくこともできなかったのです。人魚は喜び、リルの手を握って礼を言いました。
そうだ、と思い出したように、リルは人魚に訊ねました。
「このアメフラシ。雨氷の国でも育てることはできるでしょうか」
「そっか。あなたは雨氷の国の、新しいキウを探しているんだったわね。……でも、どうかしら。あなたの故郷の海に、人魚は居る?」
「あ……」
リルは肩を落としました。人魚もアメフラシも、この国ではじめて出会ったのです。それに人魚の話を聞く限り、雨氷の国で同じことができるとは思えませんでした。
「残念だけど、難しいと思うわ」
人魚から話を伝えて欲しいと頼まれた相手は、陸で漁師をまとめている人物でした。以前、人魚と
リルはその人が居るという、海辺の屋敷を訪ねました。屋敷といっても個人の家ではないようです。屋敷の中庭では小さな子供たちが走り回り、少し大きい子供や女たちが、網を広げて繕っています。
通された部屋には多くの漁師たちが集まっていました。話し合いをしていたようです。なにやら物々しい雰囲気で、あからさまに怪訝な視線をリルへと向けてきます。
「おい。誰も入れるなと言っただろう」
奥の席に座っていた老人が、鋭い声をあげました。案内してくれた若い漁師が、びくりと体を強ばらせます。
「ですが長、この者が!」
「……誰だ?」
長、と呼ばれた老人は、リルを見据えました。この国は暖かいはずなのに、ピリリと背筋が凍ります。リルは緊張の面持ちで、訪ねた理由を告げました。
「リルです。《雨氷の国》の《キウ守の役》……見習いです。修行の旅をしています」
キウ守の役……と、周囲から囁き声が聞こえてきます。リルは続けました。
「実は先日、この国の《キウ守の役》、人魚と話をしたんです」
「ほう。なんだ。あんたもアメフラシを殺すな、とでも言いに来たのか?」
老人は、可笑しそうに口元を上げました。
「そういうわけでは……。ただ、人魚の言葉を伝えにきただけです」
「人魚の言葉ぁ? そんなもの、あてになるものか!」
一転して声を荒げた老人は、拳を床に叩きつけました。驚いたズゥが翼をばたつかせます。
「奴らの言葉など、信用できるか! 人魚は《キウ》を独占しているんだぞ! キウの真珠はアメフラシが持っている。だがキウを持つアメフラシは人魚にしか見つけることができない。それはまあいい。人魚は《キウ守の役》なのだからな。だがこちらがやり方を見せてくれと言えば、人間には耐えられないから無理だという。そのくせ《キウ》に必要だから、と金鉱石と交換だ。《キウ》は皆のモノなのに! こんな不公平なことはないだろう!」
老人は、大声でまくしたてました。周囲の人々が、そうだそうだと、同意の声をあげています。しかしリルは、逆に驚いていました。人魚の言葉は伝わっていたのです。ただその内容は、かなり曲解されているようでした。
「待ってください、それは誤解です。キウを持つアメフラシは、人魚が歌うと白い靄を吐くんです。そうやって人魚は、アメフラシを見分けています。でも……」
「人魚の唄ぁ? そんなもん、聞いたこともねぇぞ!」
「でも、人魚の唄は……」
「うるさい! 現にワシらでも、キウを持つアメフラシを獲ることができた。人魚など居なくても、キウを得ることができたんだ。しかも、あの化物どもは、腹いせに船を沈めたのだぞ!」
「……」
これでは埒があきません。リルの言葉など、初めから聞こえていないようです。どうしようかと迷っていると、彼らは矛先をこちらへ向けてきました。
「お前、本当に《キウ守の役》なのか?」
「人魚の味方をするなんて、偽者に決まっている!」
リルは恐ろしくなって、じりじりと後ずさりました。隣でズゥが、威嚇の声をあげます。
「出ていけ! 人魚の手先め!」
「そうだ! 出ていけ!」
漁師たちは喚き散らしています。震えるリルは彼らに小突かれ、部屋から追い出されてしまいました。ばたん、と大きな音をたて、扉が閉じられます。リルは呆気に取られ、立ち尽くすしかありませんでした。
「ズゥ。どうしようか?」
くるるぅと鳴いて、ズゥはリルの襟をかじりました。この様子では、どうしようもありません。人魚には申し訳ないですが、リルにできるのはここまででしょう。
小窓から、漁師たちの声が響いてきました。
「そうだ。いっそ人魚を捕まえて、唄を歌わせればいいんじゃないか?」
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