2話:雨におおわれた国で
雨が、降っていました。
リルがこの国にやって来て、もう五日。その間、ずっと雨が降っています。どうにも陰鬱な雨で、町全体が何とも言えない薄暗さに包まれていました。
ズゥが雨に濡れるのを嫌がったので、リルは宿で足止めを食っていました。不思議なことです。いつものズゥなら雨など気にせず高く飛ぶのに、とリルは首をかしげました。
しかし、どうしようもありません。
リルは宿の食堂で出されたパンをちぎり、ズゥのくちばしに近づけました。ちょっと不服そうにそれを見つめ、渋々とズゥはパンをくわえます。肉を食べさせたいのは山々ですが、贅沢はできません。
「そうにらまないでよ。ズゥだって、狩りに出たがらないじゃないか」
ため息をついて、リルは窓の外を眺めました。雨はやはり、ざぁざぁと降り続いています。
「なあ。ズゥ。この雨、いつになったら止むんだろう?」
リルがそう呟くと、どこからか笑い声が聞こえてきました。見ると、隣のテーブルで魚をつついていた男が、くつくつと乾いた笑いを漏らしています。ズゥに話しかけていたことを、嗤っているのでしょうか。リルは、男に声をかけました。
「あの、すみません。うるさくしてしまって」
すると男は、声をあげて笑い出しました。
リルは笑われている意味がわかりません。困惑し、眉をひそめて、男を見返しました。
「いやぁ、もしかしてお前さん。この国は初めてかい?」
「……はい。雨氷の国から来ました」
リルがそう答えると、なるほどなぁ、と男はヒゲだらけの顎をなでています。一人で納得しているようです。リルはちょっぴり悔しくて、むっと口を結びました。
「まてまて。別にお前さんをバカにしようってんじゃない。ただ、珍しかったんだよ」
「珍しい?」
「ああ。他国の人間がやって来るのは珍しい。お前さんは? そんな歳で一人旅かい?」
雨氷の国を発ってから、リルはこの質問を幾度となく受けてきました。子どもの一人旅は、やはり人目を引くようです。
はじめは上手く説明できず、家出や迷子と思われて役人に連絡されたりもしましたが、何度か繰り返しているうちに、怪しまれないコツというものを覚えてきました。
「リルです。この子はズゥ。《雨氷の国》の《キウ守の役》の子で、修行の旅をしています」
修行の旅というと少し語弊がありますが、全くの嘘を言っているわけではありません。なにより《キウ守の役》だと伝えると、多少の奇異には目をつむってくれるのです。
「キウ守の役……」
男はよほど意外だったようで、リルのことをまじまじと見ました。それから少し気まずそうに、視線をそらしました。効果てきめんです。
これでこれ以上、からかってこないだろう。そうリルは思いました。しかし……
「キウ守の役というなら、この雨のことも分かるのか?」
しかし男は突然、リルにすがりついてきたのです。
「どういう、意味ですか?」
意味がわかりません。リルは、寄ってくる男を躱して距離をとります。ズゥがクェッ! と威嚇しました。はっと我に返った男は言いよどみ、それからようやく口を開きました。
「この雨は、止まないんだ」
リルは首をかしげます。
「雨が止まない? この雨は、この国のキウが降らせているのでは?」
雨を降らせるのは《キウ》で、キウを管理するのは《キウ守の役》の役目です。
「そうかもしれない。いや、そうだと思う。だがこの雨は、五年も降り続いているんだ」
「五年も?」
リルは思わず声をあげてしまいました。そんなに長い間、雨が降り続くなど普通ではありません。この国の《キウ守の役》は、何をしているのだろうと、リルは憤りさえおぼえました。
「信じられないかもしれないが、本当のことだ。国中が水浸しで、土地も人も減った。雨が止まないかぎり、いずれこの国は滅びるだろう」
「……《キウ守の役》は、何をしているんですか?」
「それは……」
男は言葉を濁し、首を横に振りました。
「だが後生だ。見習いだとしても、お前さんが《キウ守の役》だというのなら、町の中央にある神殿を訪ねてくれないか? そこに、この国の《キウ》が居るはずだ」
リルは少しだけ迷いましたが、町の神殿を訪ねることにしました。この国の《キウ》が、そして《キウ守の役》がどういうものなのか、知りたいと思ったのです。
雨の中、町を歩いて神殿へと向かいます。ズゥはリルの外套の下に潜り込み、出てこようとしません。しかしこの雨に濡れたくないズゥの気持ちが、リルは分かるような気がしました。この雨は、なんだかとても『重い』のです。
リルは今まで、雨に濡れることを不快に感じたことはありませんでした。雨氷の国に降る雨は少々冷たくはありますが、それは粒の細やかな霧のようで、触れるとひんやりとした匂いに包まれます。リルはその匂いが大好きで、雨が降ると外へ駆けだすこともしばしばでした。
しかしこの国の雨はじっとりと大粒で、身体にまとわりついてくるのです。濡れた外套だけでなく、気分もずしりと重たくなるような気がしてきます。リルは、ため息をつきました。
「ねぇ、ズゥ。国によって、こんなに雨が違うものだなんて……はじめて知ったよ」
ズゥのくぐもった鳴き声が、外套の中から聞こえました。やはり出てくるつもりはなさそうです。再びため息をついたリルの前に、ひときわ大きな建物が姿を現しました。
細かい紋様が彫り込まれた、石造りの建物です。どうやらここが、目的の神殿のようです。つくりは立派なのですが、ここにも重苦しい空気が漂っていました。リルは、おそるおそる神殿に足を踏み入れました。
「すみませーん」
声をかけましたが、人の気配がありません。どういうことでしょう。キウの居る神殿ということは、雨氷の国で言うところのキウを祀る祠のような場所のはずです。
キウ守の役どころか、町の人の姿もないなんて……。リルは不気味に思いましたが、先へ進んでみるしかありません。ありがたいことに、ランプに灯りはついています。通路も奥のほうへと続いているようです。どこかに人は居るということでしょう。
「ズゥ。そろそろ出てきてよ」
リルが濡れた外套を脱ごうと身をよじると、ズゥは億劫そうに定位置へ移りました。どうにも落ち着かない様子で、リルの髪の毛をかじってきます。リルは外套を腕にかけると、人を探してまわりました。
通路に面した扉をいくつかの開けてみましたが、どの部屋も空っぽでした。通路に灯りはありますが、部屋の中は真っ暗です。
「ねぇ、ズゥ。やっぱり誰も居ないのかな? 出直したほうがいいかも……」
とつぜん奥の部屋のほうで、かたん、と音が響きました。リルとズゥはびっくりして、顔を見あわせました。誰かが居るのかもしれません。重い空気と不気味さに足は震えましたが、リルは勇気を出して、音がしたとおぼしき部屋の扉を押しました。
「……誰?」
部屋には大きな寝台があり、その上に少女が独り座っていました。墨を流したような黒髪で、真っ黒な服を着ています。少女はリルに顔を向けると、首をかしげました。
少女の顔を見て、リルはあわてました。その大きな黒い瞳は、真っ赤に腫れあがっていたのです。少女は涙を流していました。
リルは極力、少女の顔を見ないように気をつけながら答えました。
「リルです。この子はズゥ。《雨氷の国》から来ました」
「そう」
しかし少女は自ら聞いておきながら、さほど興味はないようです。小さく呟くと、リルから顔を背けました。リルは拍子抜けしましたが、やっと出会えた人間です。話を聞こうと、声をかけました。
「あの、あなたは、この神殿の人ですか?」
「それは、答えなければいけないこと?」
少女の言葉はおざなりです。しかし、リルもただ引き下がるわけにはいきません。少女がキウを祀る神殿の人間ならば、詳しい事情を説明しても良いかもしれないと考えました。
「雨氷の国の《キウ》は、寿命が近いんです。《キウ守の役》の子として、新しいキウを探す旅をしています」
「キウ守の役……?」
少女は顔を上げました。興味を持ったようです。リルは、しめたとばかりに頼みこみました。
「だから、この国のキウについて教えてもらえませんか。お願いします」
「……」
しばらく少女は瞳を泳がせていましたが、やがて口を開きました。
「……私よ」
「え?」
「私が、この国の《キウ》なの。正確には、私の瞳」
リルは驚きました。言い伝えでは、《キウ》は宝玉だと言われています。雨氷の国の『氷の塊』のように、何かしら『硬い石のようなもの』だとばかり思っていたのです。
しかし目の前の、黒々と濡れて光る少女の瞳は、確かに宝石のようでした。
少女は、気だるげに言いました。
「私が涙を流すと、雨が降るの」
なるほど、とリルは納得しました。雨氷の国ではキウの氷が溶けて雨となるように、この国ではキウの涙が雨となるということでしょう。しかし、ふと思います。宿で出会った男は、「五年も雨が降り続いている」と言っていなかったでしょうか。
リルは身震いして、少女へ問いかけました。
「まさか、五年もずっと……?」
「そう。もう、そんなになるのね」
しかしどういうつもりなのか、少女は涙を流しながらも笑顔を見せたのです。リルには意味がわかりません。
「どうして泣き続けているんですか? このままじゃ……」
この国は水に沈んでしまう。リルはわずかに非難の視線を向けました。少女は答えません。
「それに、この国の《キウ守の役》は?」
リルがキウ守の役について訊ねると、少女の様子が一変しました。
少女の瞳から、ひときわ大きな涙があふれ出してきたのです。それに呼応するように、ごぉぉ、と大きな音が神殿に響きます。どうやら雨の勢いが強まったようです。キウの泣き方によって、雨の降り方も変わるのかもしれません。
あわててリルは、キウの少女をなだめました。この国を水に沈めるわけにはいきません。
「ちょ、どうしたんですか? そんなに泣かないでください」
「だって、……だって!」
キウの少女は両手で顔をおおい、嗚咽をあげながら肩を大きく震わせています。リルはどうすればいいのかわからず戸惑いましたが、そっと少女に近づいて背中に手を置きました。リルが友だちと喧嘩をして泣いていたとき、お母さんが背中をさすってくれたことを思い出したのです。
リルは猫の背に手のひらを這わすように、ゆっくりと少女の背中を撫でました。
「……そういえば、あなたは《キウ守の役》といったわね」
少し落ち着いたのか、少女はリルへ顔を向けました。
「いいえ。父が、です」
リルは否定しましたが、少女は首を横にふります。
「それでも、いずれは継ぐのでしょう?」
「……そうなれればいい、とは思っています」
「そう」
少女は淋しそうに視線を落とし、そしてリルの手に触れました。
「教えてください。どうしてキウは泣いているんですか? どうすることもできないかもしれないけれど、話を聞くくらいはできます」
「そうね。他の国とはいえ《キウ守の役》に連なる人なら。……聞いてくれるかしら」
少女は寝台の上に座りなおすと、ぽつりぽつりと話し始めました。
「もう、よく覚えていないのだけれど。私は三百年ほど前、キウとして生まれたの」
その数字に、リルは驚きました。しかしキウの寿命が千年と言われているくらいです。たとえ少女の姿をしていたとしてもキウならば、おかしなことではないのでしょう。
「この国の《キウ守の役》は、この神殿に仕える神官たちだったわ。雨を降らせるためには、私が涙を流す必要があったから。……彼らの仕事は、私を傷つけることだった」
「ええ?」
「それはもう、いろんな方法でね。彼らは私を傷つけてきたわ。でも私はキウだから、別に『嫌だ』とは思っていなかったのよ」
キウの少女はなんでもないことのように、そう言いました。リルは正直、信じられませんでした。雨を降らせるためとはいえ、キウを護るべき《キウ守の役》が、他でもないキウを傷つけるなんて。眉をつり上げたリルを見て、少女は笑います。
「何人もの《キウ守の役》と出会って、別れてきたわ。たいていは私にどうやって涙を流させるか、そればかり考えているような人たちだったけど。……何年か前にやって来た《キウ守の役》は、少し違ったの」
「……どういうこと?」
キウの少女は、懐かしむような、慈しむような、うっとりとした表情を浮かべました。
「その《キウ守の役》は、私を傷つけようとしなかった。それどころか私のことを哀れんで、護ろうとしてくれたのよ。私はそれを、『嬉しい』と思ったわ。嬉しくて涙が流れることだってあると知ったの」
少女にも優しくしてくれる人がいたのです。リルはほっとしました。しかしそれならば、どうして今のようなことになっているのでしょう。リルが訊ねるより前に、少女が答えました。
「でも、私は、上手く泣けなくなってしまったの」
「え……?」
「不思議よね。私はキウなのに。あの《キウ守の役》を前にすると、どうしても涙が引っ込んでしまったのよ。雨は降らなくなってしまった。……そして、この国の人々は、その原因が、あの《キウ守の役》にあると言って、彼を殺してしまったの」
「そんな!」
リルは叫びました。確かにキウが機能せず雨が降らなくなるのは困りますが、だからといって《キウ守の役》を殺してしまうなんて。
「結果としては間違っていなかったわ。私はまた、涙を流すことができるようになったもの」
「……でも、泣き続けているんでしょう?」
「ええ。あの時から。もうずっと、涙は止まらないのよ」
少女がうなだれると、また雨足が強くなりました。
リルは、あることを思いつきました。これ以上、キウの少女がこの国に居るのは辛いだろうと、リルは考えたのです。自分にとってもキウの少女にとってもその考えは、とても良いことのように思えました。きっと少女も喜んでくれるでしょう。
「《雨氷の国》に来ませんか? 新しいキウとして。絶対に傷つけないと約束します」
キウの少女は、黒く濡れた瞳を大きく見開きました。
そして、とびきり綺麗な笑顔をリルへと向けて言いました。
「絶対に、嫌よ。私はここを、動かないわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます