第二章:夜間飛行②

 足先を噴水の水に浸して、サロメはその縁に座った。透き通った冷たい水だ。ヴィラジュにある三つの噴水は村長の趣味で作られたものだが、住民たちは野菜を洗い、冷やすためによく使っていた。水源から噴水へ、そして、この白い敷石と土の下に広がる巨大な地下空間へと繋がっている。

 そこは地下農場と呼ばれ、サロメと同じヴィラジュの住民であるジャックとイワンが管理していた。詳しい仕組みはサロメには分からないが、擬似太陽と名付けられた光源が天井に設置されており、その光の下で黄金色に輝く小麦畑は、地上と変わらない生産能力を維持しているのだと言う。

 その小麦は、シュトゥルーデル兄弟の作るパンとなり、ルー婆の作るパンケーキとなり、住民たちの空腹を満たす。ヴィラジュには様々な事情を抱えた住民がいるが、腹が減るのは皆同じだ。人間も、人狼も、不死鳥も、空腹は平等に訪れる。

 サロメが村長からの依頼を遂行し、ヴィラジュに帰ってきたのは昨日の夕方のことだ。容易い仕事ではあった。対象は一人で、無防備にも夜道を歩き、そして大した武術の心得もない。どこかの裏社会の人間らしいその男を捕獲し、トーチャーに引き渡すまでが今回のサロメの役目だった。拳銃を所持しているから気を付けるようにと言われたが、そんなものは発砲する前に手首を斬り落とせば済む話だ。サロメにはそれが出来る。

 だが、それしか出来ない。

 昔のことを思えば、今のサロメは、随分と性能が落ちたと自覚する。

『お前は外の世界を知るべきだ』

 預言者だったか、洗礼者だったか、そんな名を持つ男だった。ヨルダン河のほとりで人々の傷病を分け隔てなく癒し、聖人と呼ばれていた。彼の首を斬り落としたあの夜から、全ては変わってしまった。

 人間など誰も彼も、ひと束の麦わらに過ぎない――そう思っていたのに。

 サロメは片手で透明な水を掬い、また噴水へと落とす。濡れた白い手を陽にかざし、何をするでも無く見つめていた。


 コツコツと、石畳を踏む靴音が響いた。


   ◆◆◆


 両腕を縛り上げ、動きを封じたフェニーを連れて、飛空挺へと乗り込んだウェンディは機内にあの男の姿が見当たらないことに気付いた。

「ユディトはどうしたの?」


   ◆◆◆


 固い靴音に、サロメは我に返り、振り向いた。黒い聖服を身に付けた、背の高い男だった。ヴィラジュの住民ではなさそうだ。青みがかった黒髪に、浅黒い肌をした、精悍な顔立ちの――いや、その顔は。

 ――知っている。

 サロメの琥珀色の眼が大きく見開かれた。


「まさかこんなところに隠れていたとはな。ユダヤの執行人も落ちぶれたもんだ」


 サロメは自分の身体が冷えていくのを感じた。それは足元の噴水の水が冷たいからではない。目の前の男、髪の長さや嘲笑うような表情は違うが、その造形は記憶の中のある男と瓜二つだ。

 サロメがその手で首を斬り落とした、あの男に。

「どうした、俺の顔をそんなに見つめて? 自分が殺した男によく似てるって?」

 ククク、と男は笑った。冷たい黒い瞳が、呆然としているサロメを見つめ返す。男はサロメに近付き、白い手袋に包まれた手を差し出した。

「理由を知りたいか? 来いよ。お前はこんなところにいる人間じゃねえだろ」

 男の手がサロメの細い首を掴んだ。


 動けない。目を逸らすことも出来ない。

 大きく響く心臓の音だけが頭をぐらぐらと揺らし、サロメの耳に聴こえていた。

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ONCE UPON...(1) くろこ(LR) @kuroko_LR

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